門梶「じゃ、これ」
「いつもありがと」
母は足元の僕をつま先で蹴って退けながら男にキスをする。
僕はもう知っている。その男は市場価格より馬鹿みたいに安くその卵を母から買って、それを違うところに馬鹿みたいに売っている。
母にそれを話した時、もうとっくに知っているとか何とか云いながら蹴る殴るされた。あえてそうすることで男とのつながりを保っているということに気づいたのはそれからもう少し後だった。
小学校の時に初めて卵を産んだ時にパソコン室のPCでサイトブロックと格闘して、社会派ニュースサイトでようやくそれの売買について知った。
環境問題の悪化により人の身体はめちゃくちゃになっていて、たとえ三親等がまるごと無菌室で育てられた家族だとしてもある時急に体に余分だったり、欠けていたりが生じて生まれてくる人間が居るらしい。僕の場合は「卵を産む」がそうだった。
母には何もない。父にも多分、なにもないはずだ。けど僕の身体からは二カ月に一回、鶏卵くらいの大きさの卵が産まれようとしてくる。
最初はトイレで泣きながら産んだ。気味が悪くて割って捨てたら殻の不始末ですぐにバレて、なんてもったいない事をするんだと殴られた。
次に産んだ時はもうそれの買い手がついていて、その日だけ僕は食費に千円を貰った。
次に出来た卵は腹を蹴られた時に中で割れてしまって、みるからに「まずい」といった顔をした母が救急車を呼んだ。僕は一旦公園に運ばれてから救急車に乗った。「ジャングルジムから落ちた」のだ。
医者に僕が卵を産むということがバレてから母は引っ越した。そしてまた二カ月に一回卵を盗られて、その日は千円を貰う。
僕が生んだ無精卵はどこか知らない場所で、誰か知らないかわいい女の子の写真を添えられて売られているらしい。
卵を産む前より胴体に暴力を受ける事が無くなったからそれはよかった。ほかは服に隠れないかもしれないから必然的に暴力の度合いは軽くなっていった。
なんでこんな体になったんだろうとも思ったけど、暴力を受け続けていつか死ぬかもしれない事を考えたらまだましかもしれない。
小学生の時に医者に言われた、「卵を産むのはおかしい事じゃないよ」という一言を頼りに今日まで暮らして来た。
*
女の子みたいに穴が縦に3つ並んでいる訳じゃなくて尻の穴から出てくるからそれなりにきつい。なんでも鶏と同じ構造らしい、僕の腹は。
「う、ぐ~…」
最高級スイートの風呂場にタオルやらローションやらを持ち込んで一人でいきんでいる。もちろん、卵を産むために。
「梶ちゃん大丈夫?」
「うう~…すんません…」
もう卵の形状が分かるくらいのところまでは来てるんだけどな、と一旦脚の力を抜く。
「ちょっと水飲もうか、休憩しよ」
ノックに応じるためにバスタオルで下半身を隠してバスタブの中で体を起こす。
常温のペットボトルをありがたく受け取り乾いている洗い場に腰を下ろした貘さんが頭を撫でてくるのを大人しく受ける。
「今日はちょっと難産だねえ、お尻大丈夫?」
「はい…今日明日で無理だったら中で割ります…」
「あんまりおすすめはしないけど、穴も一か所だしなあ…」
つらいね、と手を握ってくれるのが嬉しい。貘さんも卵を詰まらせた時には伽羅さんが手を握っていてくれたらしい。
ぐったりとする僕を貘さんは見守っていてくれている。
この卵を産む人間という現象は男女問わず起きているものらしいから、男だからどうという話の段階は過ぎているけど、出産という面で見るとなんだか貘さんの子供を産んでいるみたいな図だなと思った。
「俺はせいぜい半年に一回だからまだいいけど…二カ月に一回はちょっと多いよね。健康だとそうなのかな」
「わかんないですけど…ほんとに前からずっとなんですよね…」
これまで卵をどうしていたかとか、そういう話をする段階ももう過ぎた。今はただ、お互いがしんどい時には傍にいるだけ。
今日は無理かもしれないが、マルコが昼寝をしているうちにもう一度出て来るかどうかやってみないといけない。
これまで急に産気づいての失敗はした記憶がないが、明日は賭郎の仕事で行かなきゃいけない場所がある。
「ねえ梶ちゃん、明日の予定キャンセルでもいいよ?無理してほしくない」
貘さんはまだ僕の頭を撫でてくれている。無理をしてもその手の主がいい顔をしないことはわかるけど、任された物をこんな事のせいでできないとは言いたくなかった。
「大丈夫ですよ。出なくて苦しいとかはありますけど、出そうでヤバイってのはないですし。今なら途中で腹下しても平気かも、な~んて…ハハハ」
起き上がってあぐらをかいて笑う僕に貘さんは困った風に笑って、「そう」とだけ言った。
結局、夜の風呂の時にいきんでみても卵は出てこなかった。指を入れて見ても触れる場所にはまだ来ていなくて、ひっこんだのか、降りてきているという感覚自体が勘違いだったのかと首をかしげる。
とにかくすぐに出てこないならなんでもいいと思い、本当に大丈夫なのかと声をかけてくれる貘さんにへらへらとして見せて目的地へと発った。
僕が任されるくらいなものなので仕事はあっさりと終わった。黒服ではなく嘘喰いの直接の使いの人間に受け取らせたいという要望に応えただけなので本当に物を受け取って、それを黒服に預けて、で終わった。
「あー、緊張した…」
「お疲れ様でした。特になにも無ければこのままホテルにお送りしますが」
「おねがいします~」
微かにタバコの匂いがする車に乗って僕は取引現場を離れる。
無音が居心地悪くて点けてもらったFMを聞きながら少し眠ろうとした。
門倉さんの運転はあの気性のわりに丁寧で、以前聞いた話ではブレーキは静かで優しく公道では信号前の停止線を超える事も無いらしい。
速度はあるのにどこかとろ火にかけられているような心地にもなる揺れの中、シートベルトに首を預けて瞼を閉じた。
それでどれくらい経っただろうか。公共の交通機関を使わないこの旅路はやや長く、ひと眠りして意識がまた浅いところに戻ってくるまでの時間は余裕であった。
けど、そんな自然な目覚めではなかった。痛みが下腹部に走る。ぞわぞわとした這いあがってくるような感覚がして、直感的にそのまずさを感じ取った。
『どうされました』
運転席との間にあるシールドの向こうでバックミラー越しに門倉さんが僕の様子を見ている。その視線に冷や汗が滲んだ。
「あー、っと、腹痛、ですね」
『今しばらく高速が続きます。緊急でしたら路肩に止まりましょうか。携帯トイレなら座席下に積んでありますが』
そういうのじゃないんだよな、と叫び出したかった。粗相の方だったとしても携帯トイレを出されても車内でなんか絶対にしないし。
最悪、そっちが我慢しきれなかった風でサッと産んで隠して終わったとしても何より産んだ後はなんだか尻の締まりが悪い。全部悪い。とにかく、「あ、助かります~」と手放しでは言えない。
「ちょっと横になっていいですか?もう都内近いですよね?それくらいなら…」
『いえ、まだあと40分ほどの地点です。どこかに停めましょう。』
スピーカーから聞こえて来た門倉さんの声は冷静だった。車を汚されるとか爆弾を積んだままよりはそうした方がいいに決まっているのは理解できる。
ほどなくして門倉さんは高速を降り、どこか分からないがやや閑散とした場所に車を停めた。窓の外にはトイレも見える。
けど、僕はもう身動きが取れなかった。感覚的なもので判断するに、尻から指を入れたら触れるくらいのところまで卵が降りてきてしまっている。
車から人一人分の体重が消えるその揺れさえ毒だった。柔らかくない後部座席に脂汗を垂らしながら寝転んでいる様はさぞ滑稽だろうと思う。
「梶様、おひとりで歩けますか?」
僕はただ呻いて返した。困らせてすみませんくらい言えたら気が利いていただろうに。
過呼吸にならないようにゆっくりとした呼吸を心掛けて発語できそうなタイミングを探す。けど無意識にふう、ふう、という産むことに備えた呼吸になってしまい悪循環が次々に起きた。
多分、多分だけど門倉さんは僕をじっと見下ろしている。どうしたものか考えているんだろうか。救急車とか呼ばれたらどうしよう。笑い話にはなるが、耐えられない。
「…失敬」
門倉さんは手袋を外して僕の服をめくる。腹にさっと入る外気が気持ちよかったが、それで収まる緊張と痛みなら苦労はしない。
堅い指の腹が僕の肌を触る。腹痛起こしてる人間への触診は悪手では?と丸くなってその手を拒もうとした時、大きな手が横になった僕の腹を押した。
「えっ」
臍の下あたりをぐ、ぐ、と押され、ある一点を押された時中で「奴」が動いた。尻の出口と腹筋の緊張は強くなる一方で、それでも門倉さんはポイントを変えながらぐいぐいと押してくる。
「…失礼ながら、梶様は何か体質に特異な点が?」
今、門倉さんが肌とか内臓とか越しに触れているのは間違いなく卵の現在位置、その真上だ。
「…あの!座席汚れるかもしれないんで!全然!我慢するんで!漏らすとかじゃないから安心してください!」
もうバレた、と観念して何を言わんとしているか分かれよの意を吐き出した。酸素と力を使い切ってしまいまたぐったりと横たわる。
「いえお気になさらず。内臓へ無用な圧力がかかる事の負担の方が懸念されます」
「ハァー!?」
門倉さんはお腹を隠そうとしてうつぶせになった僕をひょいとひっくり返して脚を伸ばし、容赦なくズボンと下着をズルンと剥いだ。
「待って、ダメですって!人来るって!」
「来ません。管理がされている上で人が来ないところを選んでいます。」
「だからって…あ、あっ」
ぐ、とまた腹を押される。門倉さんはいつもは血を拭うために置いている除菌シートで素になった両手を拭い、僕の両足をあろうことかM字に開かせた。
「待っ…かどくらさん、かどくらさん!これ、ダメで、ダメ…!」
「私で隠れていますから見えませんよ。察するに、もうかなり下まで降りてきているのでは?」
「だから、ダメなんです、おねがい、おねがい…っ」
うすうす分かってはいたが、門倉さんの指が出口に触る。皮膚をぴたぴたと指で叩かれ、ぐに、と拡げられる感覚が伝わってくる。
「尻のあな触らないで…っ、だめ、もう、」
腰を持ち上げられてシートとの間にタオルが差し込まれたのが分かった。何が何でも、我慢はさせてくれないらしい。
「どうぞ。お手伝いいたします。」
「あっ」
中から出ようとする動きと、外から入って来た指にぎくりとした。
なんどか入口をゆすった指がぐっとそこを押し広げる。絶対に今指が増えた。
卵を出すために出てくる粘液が垂れるのがわかる。それを間に巻き込んで門倉さんの指が入って来た。ゆっくり、ゆっくり、力を掛けて穴が広げられている。
「ああ、今触りましたよ。解すのはこのあたりで」
「うっ、く…うう、」
また腹を上から押されて呻く。泣きたい気分だった。指で触れるところまで降りてきているのならもうここまで来ては堪えることもできない。
「いきんでください。もう少しですよ。」
こんな介助は貘さんにもされたことがない。あまりにもな図になってしまうからいままでずっと断って来た。
「うーっ…うぅ…」
ずる、と粘膜を巻き込みながら卵が降りていく。細くなっている先から勢いづいて、そして最後は門倉さんが先端を引っ張って、ようやく卵が外に出た。
実に三日間かけた難産の終わりはあっけなかった。急に空になった腹を思わず撫でてしまう。
特に痛みもなく終えた産卵の達成感と虚脱感に頭をふわふわさせていると座席の軋みで現実に戻された。
開いたままだった大股を慌てて閉じる。新しい除菌シートを手にしていたかどくらさんが僕の脚を避けたが、何故この人は他人の尻を普通に拭こうとしていたのだろうか。
尻の下に敷かれているタオルでそれとなく股間を隠して後部座席の奥に逃げた。
僕の脚の間から退いた門倉さんは器用にドアに脱いだ背広をひっかけて目隠しをしてくれて、試着室みたいになったそれに甘えて隠れながら下半身の始末を急ぐ。
勝手知ったる門倉さんの車でゴミの始末までをどうにかして服の体裁を整えた。外からはいつものタバコの匂いが漂っている。
「あの、すみません。終わりました。」
目隠しをしてもらっていたのとは反対側のドアを開けて空気を追い出す。異臭がしているわけじゃないがどんな痕跡もこの車には残したくない。
門倉さんはジャケットをドアから取って、咥えていたタバコを携帯灰皿で潰してそのままそこに跪いた。
「梶様、こちらは今ご自身で処理されますか?」
門倉さんが丁寧にタオルの上に載せて卵をこっちに差し出してくる。何か良い物のようにされているが、ただの卵だ。
処理と言っても、温めてどうにかなるわけじゃないし今食べたい気分でもない。とにかく疲れている。
「別に…捨てちゃってもいいですよ、無精卵なんで何にも出てこないですし」
そうですか、と言いながら門倉さんはタオルで卵を拭いている。真っ白だし見た感じ変な物はついていないけど、尻の穴から出て来たものだからあんまりいじらないでほしい。
「私がもらい受けてもよろしいでしょうか」
「あー、どうぞ、なんか女の子の写真とか貼ったらいいらしいですよ…」
門倉さんなら売却ルートくらいいくらでも引っ張れるだろう、と踏んでその手に卵を任せる。
ありがとうございますと言いながら両手で受け取られてまだ卵にはそれなりに市場価値あるんだなあと思った。
けど、門倉さんはそれをどこかに仕舞うでもなく、上を向いてかぱりと口を開けた。
「では、失敬」
間髪入れず門倉さんは片手で卵を割った―――自分の口の中に向かって。
見事に門倉さんの口の中にインしたそれを二、三度咀嚼してからごくりと音を立てて飲みこんだ。見たままだ、食べたのだ。
「えっ」
「ん?」
門倉さんが少々座標のずれた白身をべろりと舐めとる。つい赤い舌が口にしまわれていくのを見つめてしまった。
「あ、食べ?食べる感じでした?」
「いけなかったでしょうか。今しがた生まれたばかりのものですので支障はないかと。」
そうじゃない。別に食べてもいい。自分でも食べることはある。
そうじゃなくて、何故だかドキドキした。自分の産んだ卵を人が食べる所は、しかも生で、それは初めて見たから。
門倉さんの胃に落ちていった卵がさっきまであった場所がじくじくする。抱えて掻きむしりたくなったが、それは不快感からじゃない。
「…お、おいしいですか?」
「ええ。卵黄がやや薄いように思いますが、これはストレスや食生活の改善で変わる物でしょう」
「あー、すみません、味…」
いいえ、とかなんとか言いつつ門倉さんは白いハンカチに殻を包んで胸ポケットに入れた。
ひっかけただけになっていた革靴を履かされ、タオルとゴミを回収されたと思ったら交換にブランケットを渡された。
最早全てされるがままになった僕はブランケットを広げて掛けられるのにも無抵抗なまま座席に大人しく座り直す。
シートベルトをされる段で腹が動いた。これまで圧迫されていた部分が解放され、ここ数日の食欲不振が嘘みたいに急に腹が減った。
馬鹿みたいになり始めた腹の音はブランケットごときでは吸音されてはくれず、門倉さんはシートベルトをカチリと嵌めてから僕を見てちょっと笑った。
「飯、行きましょうか。次の卵もよろしければ私に。」
「…はひ…」
急に崩された言葉と、卵の行き先が決まった事、そしてそれを拒否したいとは思わない妙な気持ちで頭がめちゃくちゃになった。