世界はそれを、 そうなった理由をひとつ挙げるとするならば、単純に寝惚けていたというのが一番だろう。
コギトが目を覚ました時、隣にはぽっかりと空いた一人分の空白があった。眠りに落ちるときにはそこにあったぬくもりの名残は既にかすかにあるのみだ。
「――ん、」
寝返りをうち、カーテンの隙間から漏れ入る光にもう夜はとうに明けていることを知った。
けれど身体を起こす気分になれず、まだ半分微睡の中に浸っているコギトの耳に、小さくハミングが聞こえる。閉まり切らないドアの向こう、水が流れキュッという音がして止まると一定のリズムで包丁がまな板を叩く音も。
それらはコギトの脳裏に一つの光景を鮮やかに浮かび上がらせる。
昨夜、抱き合い共に眠った相手――ショウがコギトを起こさないように先にベッドから抜け出して朝ご飯の準備をしてくれているのだ。
最初は戸惑いがちに途切れ途切れに、そしていつしか淀みなく流れるようになった一連の音。
それが示す事実はコギトをくすぐったいような、むず痒いようななんとも言いようのないたまらない気分にさせる。
――こんな朝を迎えることになるとは思わなかった。
教師と教え子という関係を踏み越えてしまった実感は、どこかほろ苦さも含んで何度もコギトの胸を刺す。
大学生となったショウと変わらず高校教師のコギトが共に暮らし始めて一年が過ぎた。
元来、コギトは朝に弱くはない。
一度のアラームで目覚め、それこそ平日は隙あらば二度寝しかけるショウよりも早く起きて朝食の準備をするのはコギトの方だ。
だが、週末。コギトが休みの日にはこの立場が逆転することが多い。
その理由はそのまま現在コギトの身体を泥のように覆う気怠さの理由でもあった。
――まあ、つまるところ平日に触れられない分ショウが深夜までコギトを求めるためだ。
そうして朝、体力を使い果たしてまだぼんやりとしてろくに動くことが出来ないコギトに代わり、若さと体力を持て余したショウが遅めの朝食の準備をするというのが気がつけば二人の暗黙の了解となった。
今朝もその例に漏れず、まもなく朝食の準備を終えたショウが呼びにくるだろう。その前にせめて上くらいは何か羽織っておかなくてはとコギトはのそのそと身体を起こしてベッドのふちから脚をおろした。
寝台の横に落ちていた、昨夜身に纏っていた二人分の寝間着から適当に手探りで掴み上げたそれをよく確認しないまま頭と袖を通す。
「――んん」
首回りがどうにも緩い。袖もなんだかブカブカしている。
いつもと違う感覚にコギトの動きが止まったその瞬間、
「コギトさん、起きてます? もうご飯が出来ます、け、ど――…」
ひょいとドアから顔を覗かせて声を掛けてきたショウが、コギトの姿を視界に入れた瞬間に目を見開いて硬直した。
「な、なな、な――」
パクパクと陸に打ち上げられた魚のように言葉にならない声を洩らすショウを見て、コギトは瞬く。
「……ショウ?」
どうかしたか、という問いをコギトが発するよりも早く、
「なんて格好してるんですかぁ!」
真っ赤になったショウがコギトから顔を背けて叫ぶ。
「………?」
はて、と自らの格好を見下ろしてコギトは首を捻った。
「何かおかしいか?」
「いや、だって、それわたしの服……!」
「ああ……」
言われてみれば確かにその通り、寝ぼけながら適当に拾い上げて着ていたのはショウの着古したラグランTシャツだった。
なるほど、無断で借りたのが悪かったのか。ならばすぐに脱いで着替えるかとシャツの首元に手を掛けるコギトに、近づきながら横目でチラチラ見ていたショウがぎょっと目を剥く。
覗き見える鎖骨から胸元に散るいくつもの赤。
「ちょ、ま、まっ…ッ」
反射的に飛びつくように抱きついてきたショウの腕の中に閉じ込められ、コギトは目を白黒させてもがく。
「ショウ? これでは脱げないだろうに……勝手に着られたくなかったんじゃろう?」
「えっと、あの、そういうわけじゃなくてですね……」
むしろ嬉しいんですけどでも想像してた以上に破壊力があったというか普段とのギャップがとんでもなくてですね控えめにいってごにょごにょごにょ……。
歯切れ悪く何やらもごもごと口の中でショウが呟く。
ちっとも解放してくれる気配のないショウにむう、と眉を顰めてコギトがぼやく。
「一体どうしろというんじゃ」
「と、とにかく目に毒すぎるんですってばぁ……!」
心の準備なく立て続けに無防備なコギトの姿という不意打ちを喰らいすぎて、ショウはもはや泣き出す寸前である。
しかし目に毒と言われた当のコギトにしてみれば何を今更言っておるんじゃこやつ感しかない。何せもう両手両足の指では到底足りない回数こんな朝を迎えているのだし、大体、ほんの数時間前にはお互い何も身につけずに密着していたというのに。
「……いい加減慣れんか」
「慣れません!」
「ずっとか」
「……ずっと、です」
唸るようにショウが頷く。
「そうか、それは――」
ふ、とコギトはもがくのをやめ力を抜いてショウに体重を預ける。
「……大変じゃな」
心底から呆れたようにしみじみとコギトが零すと、抱きしめる力を強くして拗ねたようにショウが言う。
「そうです、もうほんと大変なんです。責任とってくださいね」
ヤケになったか開き直ったか、ショウが真面目くさった口調で言う。
それはこちらの台詞なんじゃがなぁ……という言葉をゆるやかな吐息に溶かし、コギトはショウの背中をぽんぽんと撫でてやる。
そうしながら今度はゆっくりと、胸いっぱいに吸い込む。
ショウの匂い、ショウが作ってくれた朝食の匂い。
……瞼を閉じて思う。
これから先への不安は消えず、本当にこれでよかったのかと問いかける声はふとした瞬間に浮かび上がっては微かな後悔もまたずっと胸を刺し続けるのだろう。
けれど――
「――、く、ふふっ」
思わず零れ落ちたコギトの笑みに、ショウの腕の力が緩む。コギトさん? とこちらの顔を覗き込もうとしてくるショウの首に腕を回し引き寄せて。
ひとまずの仕返しとばかりにコギトはショウのそれに唇を重ねた。
――今、こうしている瞬間は。
きっとどうしようもなく、これまでは知ることのなかったそれ以上の喜びと愛おしさに満たされている。