ふと、目が覚めた。
ぼんやりとした薄闇の濃度に今がまだ夜半過ぎ、夜明けまでは遠い刻であることを知る。
近頃はだいぶその頻度も少なくなったが、たまにこんな夜があった。微睡のうち、誰かに呼ばれたような、そんな感覚に意識が浮上する――
「……ショウ?」
誰か――その名前を囁いても応えはない。
ただ、目前に互いに向かい合うようにして眠る、その輪郭を知覚する。
耳を澄ますまでもなく、規則正しい寝息が聞こえる。
幼子のように身体を丸め、ショウは胸元へ投げ出していたあたしの片腕の、寝間着の袖を縋るように握りしめていた。
ある予感に導かれるように、動かせる方の指先で目元を隠す黒髪をそっと除けてみれば、――ああ、やはり。
こんな風に、夜更けに目が覚める時、いつもその頬が濡れていることに気づいたのはいつのことだったか。
……また、眠りの中で泣いておるのか。
こうして身を寄せ合うどこもかしこも熱いくせに、眦からこぼれ落ちた跡だけがひやりと冷たい。
いっそ朝までその濡れた跡が乾かずに残ればとも思う。
そうすれば如何に己の痛みに鈍くても、泣いていたことには気付くだろうに。
そうしたらわずかでも何かが変わるかもしれん……それは願望というよりは祈りに近い切実さではあった。
ひとは、物でも心でも、抱え溜め込むばかりではいずれ重みに耐えかね壊れるのみだ。
そうなる寸前でのショウの本能による防衛手段、かろうじての発露がこの眠りの中でのみ流れる涙――なんじゃろう。
もう片手では足りぬ程に越えてきた夜の始まりを思い返す。
初めて出会ったあの時――…。
話には聞いていた時空の迷い人。
それが、まさかこんなにも年端も行かない子供だったとは。
やっと定めることが出来ようとした居場所を追い出され、唇を噛み締めながら、それでも涙だけは流すまいと堪える顔はまだあどけなささえ残っていたというのに。
他に行くあてもなくまともな寝場所がないと聞いてしまえば、ならばしばらくは此処に泊まるがと良いというしかなかったのも当然のこと。
幸い、寝台は女二人が並んでもまだ余裕があったからな。
初めてこの寝台に上がった時、「すみません、なるべく邪魔にならないようにしますから」と端の方でこちらに背を向けて縮こまる姿は、傷だらけの野生のポケモンのようだった。
息を殺すようにしてじっとしたまま――緊張の糸がようやく切れて、やがて深く寝入ったらしき気配にこちらも眠ろうと瞼を閉じてうとうとと微睡み始めたその時だった。
「……、っ……」
なにか、シンとした夜気を震わせた微かな声が聞こえた気がしたのだ。痛切で、切羽詰まった、そんな声が。
どうした?と身を起こして顔を覗き込んでみれば、閉じたままの瞼から流れ落ちる一筋の雫――そして。
空気を震わせることなく唇の動きだけで、紡がれた言葉。
――どうして。
たった一言に集約され、形作られた軋むような響き。
それはショウが人知れず何度も、何度も何度も繰り返した問いじゃったのだろう。
どうして、こんなことになってしまったのか。
どうして、選ばれたのが自分だったのか。
どうして、
どうして、どうして――…
それは。
目覚めている時には、決して誰にもぶつけることの出来ないままの、ショウの声なき慟哭だった。
「……」
あの日から未だ、それに答えを与えてはやれぬことが、酷く歯痒い。
先祖からの伝承にあるシンオウさま――このヒスイの地に生きる者であれば、多くがその存在の一側面であっても信じ、崇拝する対象。
いかに人智の及ばぬ次元すらを統べる大いなる存在であろうとも、こんな子供を寄る辺なき身の上に落とす権利などあろうものか。
苦々しくもふつふつと湧いてくる感情、久しく忘れていたそれに名前をつけるとするならば怒り、というのが相応しいのだろう。
本来は世界の命運など、たった一人に負わせるものではない。
だというのに背負わせてしまったものの一人として、いったいなにをしてやれるのか。
我が一族の受け継いできた約束が真実であったとあかしてくれた恩もある。
肩の荷がおりた今、束の間でも、ひとときの安らぎを供する止まり木くらいにはなってやろうと、そう思ったのが始まりではあった。
赤く染まる空の異変を解決し、目に見える傷も癒え、ムラに帰ることもできた。プレートとやらを集める為にあたしが知る全てを伝え終えて隠れ里を飛び出していくショウの後ろ姿を見送った時、もう二度と此処へは戻ってこないだろうと思っていたのに。
「――コギトさん!」
当たり前のように翌日も、さらに翌日もショウは笑いながら顔を見せにやって来た。
時に傷だらけ、時に解けぬ謎を持ち帰り、時に両手いっぱいの素材の山を抱えて四苦八苦しながらあたしの名前を呼ぶのを出迎える。
にわかに騒がしくなった日々。
此処を拠点としていた赤い空異変時ほどではないが、泊まっていくことも多い。
――まったく。
ここまで懐にいれるつもりはなかったはずなんじゃがなあ……。
それでも、この時の流れから外れた里に、庵に、果ては同じ褥にまで、招き入れたことを厭ってないことだけは確かなことで。我ながらどうしたことだと思う。
今も袖を握りしめる指先を払い除ける気にはどうしてもなれず、すっかり闇に慣れた瞳でその寝顔を見つめている。
初めて出会った頃ほどではないにしろ、まだまだ誰にも明かせない弱音を抱えたままの――眠りのなかでしか泣けないこども。
涙の跡を拭った指先で柔い頬を軽くつついてやる。これくらいで起きないのはとうに知っていたし、起きても構わないとも思ったのでな――と。
「んぅ……」
むずかるように眉間に皺が寄った後、ふにゃ、と弛緩する。
「――…」
ああ、と溜息がこぼれ出る。
……うむ、やはりこちらが良い。
少しはちゃんと泣いた方がいいと思うのに、それでも、泣き顔よりは屈託なく笑った顔の方が良いなぁ、などと。
凪いだ水面に細波が走るように、震える。心臓の鼓動のように波を打つ、それ。
久しく忘れかけていた心の在処を否応なく思い出させてくれおって――思わずこぼれ出た恨み節は呆れるほどに甘いものだった。
いずれ、手を離さなければならない時がくるとして。
それでもいましばらくは、誰にも知られないままのその涙を拭うくらいはしてやろうとも。
そうして、こちらの袖を握りしめたままの指先に掌をそっと重ねる。
「――おやすみ、ショウ」
どうか、良い夢をと神ならぬだれかに祈り、瞼を閉じた。