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    みゃこおじ

    もえないゴミ箱

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    みゃこおじ

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    【ココイヌ】苦くて、甘い

    少し音程の外れた機嫌のいい鼻歌を歌う大きな背中がよく見える場所が乾の定位置だった。大きな工具箱に腰掛け、巧みに工具を使い分けてバイクを弄るその目と手先は真剣そのものだ。
    ふわりと煙るタバコの匂いにも慣れてきた。両親はどちらもタバコを吸わない。愛煙家の親戚もいたが、肩身を狭くして家の外で吸っていたので、乾がこうしてタバコの匂いを肺いっぱいに吸い込んだのは、佐野真一郎が経営するこのバイク屋、S・S MOTERSに通い始めてからだ。初めのうちはなんともいえない煙臭さに顔を顰めていたが、煙とオイルが入り混じるなんともいえない生活臭に安心感すら覚え始めていた。
    真一郎の長い指先が短くなってきたタバコを挟み、ふぅ…と天井に向けて吹き付けられた紫煙が優雅にたなびく。灰皿にはうずたかく吸い殻が聳え立っている。少しの振動でも崩れてしまいそうな山の隙間を縫って、また新たな瓦礫が生み出された。
    小さな箱に手を伸ばし、上下に振って一本取り出す。それが最後だったらしく、くしゃりと紙製の箱が握りつぶされた。カチッという小さな金属音が響く。ピカピカに磨かれたジッポーには黒い龍のマークが刻まれていて、それは、真一郎が初代黒龍総長を引退することを決めた際に、メンバーから贈られた大事なものなのだそうだ。
    開け放たれた窓から風が吹き込み、吐き出された煙が乾の元まで届く。スンスンと鼻を鳴らし、残り香を思い切り吸い込んだ。この店を出ると、どれだけ自分がタバコ臭いかがよくわかる。しかし、このタバコの匂いを纏っているとてもあたたかな気持ちになって、自分はひとりではないという安心感に包まれた。
    「青宗、タバコも買いてぇし、飯、いかねぇ?」
    徐ろに立ち上がると、真一郎は咥えタバコをしながらぐんと伸びをして、にんまりと笑顔を浮かべながら振り返る。黒のタンクトップ、所々オイルで黒く染まったモスグリーンのつなぎを身につけ、首にかけたタオルで汗を拭く真一郎は、乾の憧れだった。
    心優しく、気風のいい兄貴肌で、真一郎を慕う者は多い。その証拠に、店には毎日のように真一郎の〝舎弟〟と名乗る男たちが訪れ、真一郎と世間話をして帰っていった。こうして乾が学校をサボっていても、いつか行きたくなる日がくるさと言って、乾が遊びにくることを咎めなかった。
    乾は椅子がわりにしていた段ボールから腰をあげると、うんと小さく頷いて真一郎に駆け寄った。真一郎が笑うと形のいい唇に咥えられたタバコの火がふわふわと揺れ、ゆるゆるとたちのぼる煙の匂いが強くなる。乾が真一郎を見上げると、よしよしと頭を撫でてくれた。そして、乾はふと疑問を口にする。
    「…真一郎くん、タバコって美味いのか?」
    「んー? 別に、美味くはねぇぞ?」
    「美味くないのになんで吸うんだよ?」
    「それを言われちゃあおしまいなんだが…まっ、青宗も、そのうちわかるようになる日がくるって」
    差し出された手を握り返すと、その手はとても温かかった。タバコとオイルが染み付いた大きな手は所々タコができて硬くなっている。乾の小さな子供の手とは違う、大人の男の手。
    暴走族の総長をしていたというのに真一郎は喧嘩が弱かったらしい。しかし、元黒龍メンバーは、拳の重みは誰よりも重かったと皆口を揃えていう。守りたいもののために男は強くなれるし、大切なものを守るために拳を握るんだというのが真一郎の自論なのだという。
    乾には、真一郎が言うことが難しく思えた。美味しくないのに吸うタバコの意味も、大切なものを守るために拳を握るという意味も。大切なものという言葉に、いつもズキズキと胸が痛くなる。その言葉の意味がわかる頃には、〝強く〟なれているのだろうか。今度こそ、〝大切なもの〟を守れるのだろうか
    「真一郎くん、オレもタバコ吸ってみたい」
    はるか頭上にある顔を見上げてそう言うと真一郎はだーめと乾の額をピンと弾く。
    「タバコは二十歳になってから」
    「真一郎くんだって二十歳になる前に吸ってたって言ってたじゃん」
    「あー…それはそれ、これはこれ」
    バツが悪そうにボリボリとそっぽを向く真一郎の腕に縋りつきながらお願いと乾は懇願する。タバコを吸ったところで真一郎の言わんとしていることがわかるとは思っていない。それでも、少しくらい背伸びすることくらい許されたかった。
    「じゃあ、ちょっとだけだぞ」
    「っ…! 本当!?」
    ぱぁっと表情を明るくした乾と目線が同じくらいになるように屈みながら、真一郎は本当にちょっとだけだからなと吸いかけのタバコを灰皿に落とす。咥えていたタバコを指で挟むと、紫煙を吐き出しながら吸い口を乾の口元に差し出した。
    「いいか、咥えたらちょっとだけ息を吸ってみろ。吸いすぎたらむせて苦しくなるからな」
    小さく頷きながら恐る恐るほんの少しだけ吸い口を唇で挟む。ほんの少しだけ息を吸い込むと、むせ返るような化学物質の味が口内に広がり、案の定、ゲホゲホを咳き込んだ。
    「ゲホッ、ゲホッ、なに、これ…まっず…」
    「ハハッ、だぁから言っただろ? 青宗にはまだ早いって」
    ゲラゲラと笑い飛ばした真一郎は、最後に一口吸って今度こそ灰皿で火を揉み消した。顔を顰める乾の短い金糸をわしゃわしゃとかき回して、にぃと子供のような笑みを浮かべる。
    「ようやく笑ってくれたな。いつも仏頂面してたから、少し安心したよ」


    乾にはタバコの臭いが染みついていた。漸く伸び始めた美しい金糸にも、真っ白な特攻服にも。乾が心酔している佐野真一郎という男は超がつく程の愛煙家らしい。乾がタバコの臭いを纏って九井の前に現れると、無性にイライラした。
    風が吹くと、どこからともなくタバコの臭いがした。ふっと視線をあげると、窓際で乾がうたた寝をしている。九井は吸い寄せられるようにふらりと立ち上がった。
    少しずつ近づくと、ますますタバコの臭いが強くなる。真っ白な特攻服、真っ赤なハイヒール。横顔も寝顔も彼女そっくりなのに、そこにいるのは知らない誰かのようだった。
    九井と乾の大切なひとを奪ったあの凄惨な火事を境に、ふたりの人生は、180度変わってしまった。乾は不良とつるむようになったし、九井も間接的に犯罪に手を染めるようになった。昼間は真面目な優等生を演じ、夜は兵隊たちを使って金を稼ぐ。もうすでに金を稼ぐ目的は失っているというのに、後戻りできないところまできていた。それは、九井に乾の知らない一面があるように、乾が知らない九井の一面だ。
    金のありがたみを、重みを、年端もいかない子供のうちに知ってしまった。ついぞ守られることがなかった約束を守るために、九井は金を生み出し続けている。
    くかー、くかーと小さな寝息を立てる顔をそっと覗きこむ。長いまつげは目の下に深い影をおとし、薄くて形のいい唇は一定の間隔で上下に動いている。本を枕にしながらチューは好きな人とだよと頬をほんの少し赤らめた彼女の面影が重なり、自然と、吸い寄せられる。
    軽く触れただけなのに、乾の唇からはタバコの味がした。ハッとして後退り、九井はその場に崩れ落ちる。乾赤音は死んだことも、九井の目の前にいるのは乾青宗だということも、わかっている。いくらきょうだいでそっくりだとはいえ、彼女の面影を重ねるなんて馬鹿げている。
    ボロボロと頬を大粒の涙が伝う。ぐっと唇を噛み締めると、余計に口内に苦いタバコの味が広がって九井は大きく肩を震わせる。目の前にいるのは大事な幼馴染なのに、どこか別人のように感じるのは、全てこのタバコのせいだと思いたかった。
    「…赤音さん」
    お前は無力だと、彼の人に突きつけられたような気がした。


    換気もまともにされていないアジトに戻ると、タバコの臭いが充満していた。九井ははぁとため息をついて、気休めの目に前で手をパタパタさせてイヌピーと苦言を呈す。
    「何回も言ってんだろ、中で吸うなって。つーか、寝タバコはやめろよ本当」
    んー、と気のない返事をした乾に言っても無駄だなと肩をすくめる。ボロボロのソファーに長い足を投げ出し、乾はぼーっと天井を眺めながら紫煙を燻らせている。テーブルの上の灰皿には吸い殻が積み上がっていて、その周辺に灰が散乱していた。
    九井はこの銘柄の臭いが心底嫌いだった。クライアントは超がつくヘビースモーカーが多く、九井も長時間燻されてスーツに悪臭が染みこみ、目がしょぼしょぼするような空間で商談を行うことはよくあるが、この臭いだけは我慢ならない。
    嫌な記憶を呼び起こさせる臭い。しかし、乾にとってはとても大事な思い出の匂い。過去に囚われ続けている九井には、同じく過去に囚われ続けている乾にどうこういえる権利はなく、アジトの中で吸うなと言うのが精一杯だった。結局、同じ穴のムジナだ。
    九井はツカツカとソファーに歩み寄ると、ほとんど灰と化したタバコを奪い取る。おい、と手を伸ばした乾をひょいとかわし、九井は噛み跡が残るタバコを咥えた。すっと息を吸い込むと、重いタールが肺いっぱいに広がる。どうしてこんな苦いものを好き好んで吸っているのかわからない。じじ…とフィルターが燃え、ぼとと足元に灰が落ちる。
    のそりと起き上がった乾の顔に向けて九井はふぅ…と紫煙を吹きつける。何すんだよと顔を顰めた乾の代わりに灰皿にタバコを押しつけた。
    「…本当、胸糞ワリィ」
    ボソリと呟いた声は乾にきこえていなかったらしい。なんか言ったとたずねながらタバコに手を伸ばした乾を制し、九井は乾の頬をそっと両手で挟み込んだ。
    苦くて、不味いだけのはずなのに、乾からは砂糖菓子のような甘い味がした。
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