『酒が入ると人が変わる』とはよく言うが、あれは変わるんじゃなくて素が出るんだそうだ。
確かに酒が回ることにより、理性を司ると言われている大脳新皮質が先に活動低下して、本能や感情を司る大脳辺縁系が剝き出しになるならば、普段理性が覆い隠している自分が剥き出しになるわけで。じゃあミカ兄は普段理性総動員で拳兄を罵倒してるのか、本能と感情ではべた褒めの大大大好きなのか。兄弟そろって酒を酌み交わすと、何回かに一回はそんな「大大大好き」を突きつけられて閉口する。ああ、俺も酔いつぶれたい!
「透は無敵の防御力だからなあ」と拳兄は言う。珍しく頭のてっぺんまで赤くなってずいぶん気持ちが良さそうだ。
俺はその『無敵の防御力』とやらのせいで、吸血鬼用の酒を飲んでもふわふわとしか酔わない。ミカ兄なんて人間用の酒でも「大大大好き」までイケるのに。
「バカおまえ、酔いはそんくらいで持続してんのが一番いいんだよ。これみたいに猛スピードで駆け抜けて寝落ちじゃ、酒がもったいねーわ」
ゴキゲンな拳兄が『これ』と称してミカ兄の尻をぺちんと叩いた。やはり量を過ごしたミカ兄は既に座布団を抱きしめて夢の中だが、さすがにいい音立てて叩かれるとピクリと跳ねた。
今日は俺んち、その名も『ホラー・ホスピタル』の居住エリアでいつもの通り兄弟で食事会をした。この部屋は元々この廃病院の宿直室で、唯一の畳部屋だったのをどうせならと改装して全面的に和室仕様にしたものだ。兄貴たちはどうだか知らないけど、俺は物心ついたときから日本育ちだから和室が落ち着くんだよね。ミカ兄は洋室派かなとも思うけど、日本暮らしもまあまあ長いし、うちに来ると畳の上でゴロンと横になってすやすや寝てるから和室も好きなんだと思う。拳兄はどうでもいい。どうでもいいってのは、この男たぶん日光さえ防げればどんなとこでも構わないんだ。
子供の霊の集合体であるあっちゃんがおねむになった後は大人の時間。テーブルの上をあらかた片付けて、ミカ兄が用意した小じゃれた酒とつまみとか、拳兄が残り物を全部ぶち込んでなんかわやわやっとして出来上がったやたらと美味い食いもんとかを並べて、くだらねーことをなんとはなしにくっちゃべる。あっちゃんには聞かせられないようなこともしゃべる。飲むのは血でも酒でもいいんだけど、この場ではなんとなく酒に手が伸びる。
ご覧の通り、一番酒に弱いのはミカ兄。そんなにぐびぐび飲む方じゃないし、チェイサーも置いて自衛している筈なのにいつの間にかほろ酔いから急上昇急降下でストンと寝てしまう。本人もつぶれる可能性が高いことを自覚していて飲む前の片づけや準備を率先してやってくれるのでそれは助かるんだけどね。なにしろ酔い方がうざい。最初はいいんだけど、拳兄相手に説教し出してからがウザさ本番。説教がだんだん変化して「兄さんはすごいのに。兄さんはカッコイイのに」から「のに」が抜け落ちて、最終的には何言ってんだこいつ状態の酔っ払い発言を総合するとさっき言った「大大大好き」になってストン。うざい。超うざい。そんなに拳兄大好きなら普段からちゃんと好きって言えばいいのに。既に鳴き声と化している「愚兄!」の意味を『罵倒/単なる呼びかけ/謙称/甘え/助けて/こっち見て/大好き』等々から選択して翻訳できるようになってしまった俺の苦労を知りやがれ。
まあ、かく言う俺だって拳兄のことは大大大好きだけど、普段からちゃんと言ってるかというと……、言わねーよな、それはわかる。でも俺は甘え上手のカワイイ賢弟だし? 要所要所で伝えるべきことは伝えてますよ? ミカ兄の態度が度を越してるって話だ。
だから俺が憧れるのは、そんな大大大好きな拳兄の酒の飲み方のほうだな。陽気で楽しい酒はいいよね。酔っ払いはするけど、多少まわりに絡んだりはするけど、調子に乗ったりはするけど……あれ?なんかあんまカッコよくもないか? てか素面でもこんなんじゃねえかコイツ。
まあ、飲んでもそれほど変わらない、ほどほどに酔って楽しそうなところがいいんだな。普段から大脳新皮質が麻痺してるとかいうんじゃないと思う、うん、たぶん。
でも今日の拳兄はちょっとばかりいつもより飲みすぎてるかもしれない。ミカ兄もだけど。何かあったのかな二人とも。
「ヤレ、厳かい(いかい)こと酔うたぞ」
「なにそれ。いつの言葉」
「御一新前の吉原で」
「さすがにその時代ここ来てないでしょ」
「ぬしと朝寝がしてみたい」
「女郎側になってんじゃねーか」
くだらねー会話で笑いながら拳兄も仰向けに倒れて転がった。
「そこで寝んなよー」
「寝ない寝ない、ちょっと横になるだけ」
「どうだか」
別に全然そこで寝てくれてもいいんだけど一応言っておく。拳兄はもぞもぞと芋虫みたいに蠢いて寝っ転がるベストポジションを探している。
「ややっ! なんとここに極上の枕を発見!」
やめろ、それはミカ兄の尻だ。
「弟の尻を枕にするな」
「いやこれがなんとも、硬さといい肌触りといい」
「弟の尻を揉むな!」
「ミカエラの手触りの良さは異常。透も来てみ?」
「やだよ」
「正直、赤ん坊の頃の透の尻の手触り並の感動」
「俺に飛び火した!」
「そこに筋肉の弾力が加わったこちらが今日ご紹介する理想の高反発枕です」
「TVショッピング始まったし」
「ハ~~ッ、人をダメにする尻……」
「完全にクッション扱いじゃん」
「俺は吸ケツ鬼だからケツを吸う」
「弟の尻を吸うな!」
いきなりゴロッとうつぶせになったかと思うと、ミカ兄の尻っぺたにチュッチュチュッチュとキスし始めた。なにこの地獄絵図。
「やめなよー。ミカ兄起きたら怒るよー」
「キスマーク残さなけりゃ怒らない」
「それは怒らないじゃなくてバレないでしょ」
「実践による認識はしばしば理性による認識を凌駕する!」
「なにごと」
「いいから透も触ってみ、マジで気持ちいいから」
「いやだ! 実兄の尻で気持ちよくなりたくない!」
前言撤回。全然憧れないわ。飲み過ぎた拳兄はミカ兄よりたちが悪いわ。
ここまで好き勝手やってたらさすがに起きるだろうと思ったら案の定、ミカ兄が「んんー」と鼻を鳴らして身じろいだ。ピタリと静止する俺たち。ミカ兄は目を開けたいらしいが叶わず、ドミノマスクの穴のところでクソ長いまつ毛がピクピクしてるのだけが見える。
「んー……だぇだ」
「俺だよー透もいるぞー」
おいコラ! 共犯に仕立て上げるな!
「あ……ぅん」 スー
寝るのかよ!
「起きねえでやんの」
拳兄は咽喉の奥でククッと笑って身を起こすと、さっきキスを落とした尻っぺたを拭うようにサッサッと2回撫でてからテーブルに向かい直してあぐらをかいた。ミカ兄の前に置いてあったピッチャーに手を伸ばしてグラスに水を注いでいる。そうです、飲み過ぎはしゃぎ過ぎです。
「……ミカ兄、大丈夫かな」
「だーいじょぶだいじょぶ、よく寝て起きたらいつも通りだろ」
「じゃなくて、酔っ払って寝コケてケツにキスされてこれって、心配になるレベルじゃん」
「あー……」
ミカ兄はたぶん俺らと一緒でなきゃこんなに飲まないし、さっきのは自分の側にいるのが拳兄と俺だって聞いたから安心して寝直したんだとはわかってる。ただ俺は、ちょっと拳兄に反省してもらいたいだけだ。いきすぎんなよって。
拳兄も俺の言いたいことに勘付いたみたいでグラスの水をあおった。
「すんませんでした」
「謝るならミカ兄に謝れよ」
「いや今のは赤ん坊の頃のおまえの尻にキスした分」
「聞きたくなかったよ! つかそこから因果つなげようとすんな!」
「弟の尻というものはいくつになっても良いものですねえ」
「よかねえよ!」
「そう言うがな透。ミカエラのこの肌コンディションってのはすげえことなんだぜ?」
「それは、まあ……、わかる」
「化粧で覆い隠す美しさとは違う、内からにじみ出る美しさだ。表皮は内臓のコンディションに直結している。内臓の状態が良くなくては肌の美しさはない。また、肌の状態が落ちれば内臓にフィードバックする。内臓と肌の健全さは両輪なんだよ」
「なんでいきなり医療従事者みたいになってんだよ」
「そして内臓の健全さは尻枕においても重要なファクターである」
「はい?!」
「消化器系が健全なら、万が一屁ェこかれても臭くない」
「反省しろって言ってんだろがよこっちはよォ!!!」
信じらんねーっ!!って大声出したらミカ兄の身体がビクッと動いた。「んぅぅ、トオル、ごめん……」ってミカ兄じゃねえよこっちがごめんだよ、てかまた寝るのかよ。
拳兄はケタケタ笑って反省の色が無い。しょーがねーから別方向に話題を広げることにした。
「内臓が健全な割には酒に弱すぎるんじゃね?」
「状態が健全なのと、処理能力が高いのとは別だぞ」
拳兄内医療従事者がノッてきた。
「まあ、そうだけどさ。ミカ兄は身体も大きいし体脂肪率低いし、ググってみたときの『酒に強い人の条件』に当てはまる側だと思うんだよね。酒量だってそんなバカスカ飲むわけじゃないし、これ相当肝臓とか弱いんじゃないの?」
「アラ透ちゃんお勉強してるのねえ。面白いから今度パッチテストやってみるか3人で」
「んー……、別にそこまでは」
俺と拳兄と違ってアルコールに弱い、なんてデータでハッキリさせちゃったらまたミカ兄がいじけるような気がするし。
「でもな、たとえば今全員の血中アルコール濃度測ってみても大して変わらないかもしれないぜ」
「え?」
「脳に到達してるアルコール量は似たようなもんかもって意味」
「え、どういうこと? それって、アルコールを受け取る脳の側に違いがあるって……あ」
拳兄が示唆した可能性に気付いて口籠ったら、拳兄は我が意を得たりとばかりにニヤリと笑った。
「透、俺達は吸血鬼、催眠術使いの吸血鬼だぜ? ここの作りはちょーっとばかり違うのよ」
ここ、と手を上げて人差し指で頭をコンコンと叩く。
「もしかして、じゃあ、俺があんまり酔わないのって……」
「無敵の防御力って言ったろ? おまえの脳は他者の催眠も弾くしアルコールも弾く。どういう取捨選択になってるのかは知らねーが、脳へのダメージに繋がるものをシャットアウトしてるんじゃね?」
「待って待って、そしたら、そのガードを下げたら俺も酔っ払うってこと?」
「下げられたら、だけど。おまえそれ意識してやってるか?」
「……やってない」
「だろ? おまえチビの頃から催眠効かねーもん。そうだと思ったぜ」
「なにそれ、いたいけな俺に催眠かけようとしたってこと?」
「お兄ちゃんだってな、赤ちゃんちょっと今は眠っててほしいと切実に思う時間がありました」
「それはどうもご苦労をおかけしましてスミマセンでしたあ! 遠い目をするな!!」
ガキの頃の話をされるとどうにも弱い。勝てないよな、あたりまえだ。
「だからなあ、おまえが飲んでもしっかりしてるとこ見ると俺は誇らしいんだよ」
拳兄は昔語りの親目線をそのままに、俺の頭に手を伸ばしてくしゃくしゃと撫でた。くそお、なんか気持ちいい。こういうとこ、拳兄はズルい。
「じゃ、じゃあさ、ミカ兄はどうなのよ、ノーガードってこと? それってダメじゃん?」
頭に乗っかったぶっとい腕をどかして話題を逸らす。
「ノーガードとはちょっと違うんだよなあミカエラは。うーん、誘い受け?」
「なにそれ」
「違った。誘いの隙?」
「どっちにしろ、なにそれ」
うまいこと話を逸らせたようで、拳兄は説明に困ってうーんと考え込んでしまった。
その間に俺は、その『無敵の防御力』を外せるものだろうかと自分の頭に神経を集中してみる。わかんない。透明化のオン・オフはわかる。わかるけどあんまり長い間オンにしっぱなしだったからちょっと迷った。前に兄貴たちも言ってたけど、ちゃんと訓練しておかないとダメなのかなあ。
「透、おまえ常時発動させてる能力ってなんだ?」
「えっ、えっ、透明化?」
あまりにズバリと考えてたところを突かれてキョドってしまった。
「そう。それとガードも無意識だけど常時効いてるだろ? で、俺は特に常時発動してるもんはねえんだわ。ガード能力は高いほうだと思うがおまえほどじゃない」
おまえほどじゃない、だって! 拳兄が、俺のほうが上だって言った! ちょっとほっぺたが熱い。オバケコスプレかぶっててよかった。
「ミカエラの常時発動能力がとんでもねえのはわかるな? あいつの下僕が今何人いるのか、俺もわからねえ」
うん。俺も知らないけど、たぶん何十人じゃ利かない。何百人?へたすると千人とか? 同じ催眠術師で兄弟なのに、ミカ兄がどうやってコントロールしているのか想像もつかない。
「俺達と違ってこいつには、オフにできねえ催眠の接続が山ほどあるってわけだ。かといっておまえみたいに強力なガード能力があるかってーとそれは無い。ハッキリ言って俺より弱い」
うん。
「催眠もアルコールも、全部は弾けない。だが大脳新皮質、辺縁系、どの段階もその全てを明け渡してしまうわけにはいかない。じゃあどうする?」
拳兄が学校の先生みたいな調子で、でも眼の光り方は催眠をかけるときみたいな迫力で、俺に問いかけてくる。答えないわけにはいかない。
「……最低限、守る所をガードして、あとは捨てる?」
「そう。入ってきて構わないところにわざと穴を開ける。アルコールはミカエラに許されたルートを麻痺させながら奥へと進んでいく。大脳、小脳、範囲は限定されて誘導されているから到達速度は速い。毎度似通ったルートが麻痺するなら、酔ったときの繰り言も大同小異だ。その都度到達深度に違いはあるだろうが、ある程度までいけば危険を察知するだろう。そして生理的に喪失していい部分を選んで意識喪失に陥る。つまり、睡眠だな」
思わずミカ兄を見る。平和そうにすよすよと眠っている。
「じゃあ、ミカ兄が早々に酔っ払って寝落ちしちまうのって、下僕さんたちを守ってるってこと?」
「おっ、吸血鬼的解釈。人間からしてみりゃ、催眠は外れたほうがいいんじゃねーの?」
拳兄はまたカラカラと笑った。
「ミカ兄を泥酔させたら、全員の催眠が外れるのかな」
「さあな。外れる云々以前に、そこまで泥酔させたら脳機能を失ってミカエラが死ぬだろ」
そっか。でもちょっと八岐大蛇とか酒呑童子とか、人間の昔話の怪異を酒に酔わせて退治する話を連想してしまった。ミカ兄を退治して下僕を助けるって何なんだろう。今度半田くんに聞いてみるかな。半田くん、困っちまうかな。
「なーんてな! すべて俺の推測! おとぎ話よ」
ハイこれでおしまい!とばかりに拳兄が声の調子を変えた。
「真剣に考えんなよ。別にミカエラに聞いたわけでもないしな。与太話与太話」
変に理屈っぽい話をしているうちに顔の赤みが落ち着いて頭もなんていうか、茹でダコからピンクのまだらになってるから酔いが醒めてきたんだろう。ちょっと照れてる拳兄が珍しい。
「あーと何の話だったっけか? そうか、ミカエラの尻枕はいいぞって話だな!」
「そこに戻んなや!!」
テーブルの上の残り物をかき集めて、拳兄という名の残飯整理機の前に並べる。尻枕はしていないけど、食べ終わった枝豆のさやを、白くて広い背中に並べて絵を描いていた。やめたげなさいよ。
「もうちょっとなんか飲むー?」
「んー、今日はもういいかな」
「そだね。俺お茶淹れるけど」
「頼む。そろそろ起きそうだからミカエラの分も」
「どけたれや枝豆」
でも、湯飲み茶碗が3つ並んでもミカ兄はまだ夢の中だった。
「よく寝てるねー枝豆。今日よく飲んでたもんねー枝豆」
「芸術だろう」
「塩分でお肌カイカイになったらミカ兄泣くよ」
「透、おしぼり」
「自分で持ってこい」
あわてて芸術を払い落としてキッチンに飛んでった。「あちゃちゃちゃ」とか言いながらポットのお湯でおしぼりを作ってる。昨今はレンジで作るって手もあるんだよ拳兄。
散らばった枝豆のさやを拾い集めて、ふと、本当に何の気なしにふと、拳兄の枕に手のひらを乗せてみた。
「うをわ」
変な声が出た。