風俗ヒュ2-1絢爛豪華をそのまま形にしたようなパーティが開かれていた。ゆうに数百人以上を収容できそうなホールは、バロック様式を模倣した作りにされている。楕円と曲線上で構成された広い室内を壁と同化した古典彫刻や置かれた絵画、大きなシャンデリアが飾り、豪奢さを引き立てる。それはまるで中世の宮廷を思わせた。
会場の前方に設置されたステージは広大で、講演会や結婚式のみならず、演劇や歌劇の鑑賞に用いるという意図もあるらしい。創設者の一族が好む様式美が心ゆくまで、そのまま詰め込まれていた。
世界屈指の不動産王とも言われるエーギル家。その一族が都心に建てた高層ラグジュアリーホテルは所有者の名前を冠し「エーギルホテル」と名付けられた。
今夜は、開業記念の催事としてエーギル家が主催の祝宴が開かれている。絢爛なホールの中には此度の事業の出資者や政界の関係者、報道関係者やエーギル家と個人的に懇意にしている者など様々な人間が歓待されている。有名なシェフやパティシエ監修のケータリングをつまみながら、招待客たちは談笑を楽しんでいた。堅苦しい式典はすでに終わり、派手好きで知られる主催者が用意した催し物を楽しむ段に入っている。壇上に現れた人物を見た客達の間で今日1番の歓声が上がった。
プログラムには歌劇、演劇を上演するにあたって、不足ない設備であることを証明するためか、有名な歌手による歌唱が入っていた。
ミュッテルフランク歌劇団の「神秘の歌姫」ことドロテアの登場である。ゲストは当日までシークレットとされていたので、会場からは悲鳴にも近い歓声が上がり続ける。目の肥えたゲスト達に怖じる様子も無いドロテアは喧騒の中にあっても、堂々と歌い始めた。
◇
「うう、もう死んでもいいぃ」
「大袈裟ね。モニカったら」
大喝采と大きな拍手に包まれるホールの一角で、1人の女が泣いていた。感涙の涙をポロポロ流す様を同行する2人の男女が呆れたように見ていた。真紅のドレスに身を包んだ女性は長い銀髪を高く結えている。非凡なオーラを放つ女性はどこか近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。滲み出る気品溢れる美姫は、泣いている赤毛の女を宥めるそぶりを見せる。傍に影のように佇む長身の男がハンカチを差し出した。
「だって、ドロテア様を生で見られるなんて。私、チケット当たったことなくてえ」
ヒューベルトは、渡されたハンカチで口を抑え、呻き始めた同僚を冷めた目で眺める。彼女はモニカ。エーデルガルトの秘書である。
先代フレスベルグの社長が急逝し、後を継いだエーデルガルトは混乱にある社内を収め、見事、企業としての再出発を成功させた。
形は世襲だが、長年、上を補佐するマネージャーとして辣腕を振るっていた彼女の経営者としての才覚は異常なほどで、首脳経営陣がぐうの音も出せない改革をやってのけた。
そんな彼女が多忙を極めないはずもなく、業務の補佐をヒューベルト1人で行うには少々苦しくなった頃である。多角的な社員の視点を取り入れたいと思ったエーデルガルトとのニーズも一致した。そんな時、秘書部へ異動してきたのがモニカである。
マーケティングの担当で社員としての歴は浅いが、入社前から自社製品に関する知識が社員以上にあったという。そして入ってからもそれは変わらず、知識に対する貪欲さとずば抜けた愛社精神を持った人物だ。
まだ荒が目立つが、エーデルガルト直々の抜擢である。求められるレベルは高すぎるだけで、能力は十分にある女性だとヒューベルトは評価していた。
エーデルガルトの側にいるにはヒューベルトのお眼鏡にもかなう必要がある。そして、彼女は十分その素質に溢れた人である。モニカ起用にあたってはには才覚以外の「利点」があった。
自分は時にエーデルガルトに鞭を与えられる人間だと自負しているヒューベルトだが、飴を与えられるのがモニカだった。
同世代の女性だからこそ話せることもあるらしい。甘味と紅茶のことで話しをする2人の手前、ヒューベルトは時折蚊帳の外に出される事がある。それでいい。エーデルガルトが自分の前では見せない表情があることも、存外悪くないのである。
流行に疎いヒューベルトは、モニカの熱いトークを右から左へ流しているがエーデルガルトは楽しそうに耳を傾けている。
「ああ、エーデルガルト様がドロテア様と同窓だっただなんて、おかげで楽屋に入れてもらえてサインまでもらえるなんて。もう、一生ついていきます!」
「だから大袈裟よ。今度の公演、一緒に観に行けるといいわね」
「いいんですか、エーデルガルト様と!?」
とモニカがまたうめき始めた。そう、彼女はエーデルガルトをこよなく尊敬し、身を投げ打てるような人間なのだ。絶対に敵対はしないという見込みがある人物でもあった。ヒューベルトが彼女を認めている理由の一つである。姦しい会話を眺めながらヒューベルトはやれやれ、と首を振った。
「余興だと言うのにドロテア殿の人気は絶大ですな」
「ヒューベルト、あなた、すごいどころじゃないです!ドロテア様の公演はなかなか見れないんですからね!もっとありがたがってくださいよ」
エーデルガルト個人への親愛が深すぎる故か、モニカからヒューベルトに対する当たりは少々強く、煩わしいものであった。入社後、程なく秘書に抜擢されている来歴も気に食わないようだ。これさえなければ完璧なのですがね、とヒューベルトは毎回心の中で呟く。
エーデルガルトがふと、思い出したように言った。
「よくスケジュールを空けられたものだと思ったけど、そういえば、彼女に公演オファー出したのはフェルディナントらしいわね」
「あ、楽屋でフェルディナントさんを見ましたよ。大きな花束持って挨拶に来ていました」
モニカが口にした名前にヒューベルトは流していた会話に意識を向ける。
「丁度居合わせたんですけど。フェルディナントさんガチガチに緊張してて」
いかにも社交的なあの男が女性の前で?ヒューベルトの中ではイメージが浮かばない。それが、とモニカが顔を赤らめて口ごもる。
「フェルディナントさんの昔の初恋相手、ドロテア様らしいですよ」
「ほう?」
「へえ?」
女性のいわゆる「恋バナ」にエーデルガルトは身を乗り出す。ヒューベルトにとっては全く興味がないが、渦中の人物が絡んでいるとなるとやぶさかではない話だ。聞き耳を立てながら、件の歌姫に視線を向ける。観客に満面の笑みで愛想を振りまいている。テレビで彼女を見たことはあるが、実物は、身につけた宝石に負けない美しさだ。華やかな容姿はフェルディナントにも通ずるものがある。
「デビュー当時の彼女を見て、すっかりファンになったって。お父さんに頼んで行った公演で薔薇を100本贈ったとか。そりゃあドロテア様の記憶にも残りますよね。ま、どっちかっていうと憧れの人、みたいな感じでしたけどね 」
格好つけたがるフェルディナントらしい話だと、ヒューベルトは微笑をこぼした。ハイスクール時代は人並みにアイドルや歌手を好いた時期もあったのだろう。モニカが楽しそうに続ける。
「フェルディナントさん、今は違うよと必死に否定されてましたけど。今は心に決めた相手がいるって。真っ赤でした」
「お相手は?」
ヒューベルトの乗り出した質問にええっとモニカは目を見開く。
「ヒューベルト、貴方でもそういうの興味あるんですか?他人の色恋に全然、興味なさそうなのに。」
「ヒューベルトとフェルディナントはとても仲がいいのよ、モニカ」
エーデルガルトがクスクス笑いながらヒューベルトを見る。モニカは半信半疑だ。友人なのに知らないのか、と目が語っている。
「まるで正反対じゃないですか。ほんとに友達なんですか?」
「まあ、そうですな
濁した返答に納得はいっていないようだが、ヒューベルトが黙りこくり、それ以上答えが返ってこないとわかったモニカは、肩をすくめた。
「結局、教えてもらえませんでしたよ。ひどく照れ屋で思慮深い人だって。どこのどなたのことか知りませんけど、惚気話をモロに食らっちゃいました」
「そうですか」
「顔よし家柄よし、性格は紳士。どんな方がフェルディナントさんを射止めたんでしょうね。でも、愛され方が尋常じゃないですね、あれは。お二人とも、本当にご存知ではないんですか?」
「そうねえ」
ちら、とエーデルガルトの視線がヒューベルトに向けられる。
「わからないわ」
「今の間。まさか、ご存知なんですか!?」
「どうかしら。ああ、モニカ。そろそろ甘いものが食べたいわね。今日のケータリングのスイーツはエミールの監修だったかしら。私、あそこのケーキには目がなくて」
「あ、あからさまに逸らしましたね!?もう、でもスイーツには賛成です!あっちです!行きましょう!紅茶も取ってきますね」
やれやれ、話が逸れてくれた。後に続こうとしたヒューベルトだったが、振り向きざまのエーデルガルトに静止される。
「貴方は彼のお相手を。くれぐれも失礼のないようによろしくね?」
「は?」
彼とは。エーデルガルトの指差した先を見たヒューベルトはすぐにその正体を知った。橙の長髪をたなびかせて会場を颯爽と歩く男がこちらへ向かってくる。今夜の主催の1人であるエーギル家の嫡男、フェルディナントだ。ヒューベルトは思わず身を引いた。こんなフォーマルな場で彼と語ることなどない。焦ってエーデルガルト達を追おうとしたがその姿は既に客達の壁に阻まれて見えなくなっている。躊躇した時間は、フェルディナントの接近を許すには充分だった。
2人きりにされては困るというのに。逃げるには遅すぎた。
「やあ、ヒューベルト!今夜は来てくれてありがとう!」
主催者を無碍にするわけにもいかない。迫り来た男がヒューベルトの前で止まる。姿勢を正したヒューベルトの両手が大きな手のひらで包まれ、ぶんぶんとふられる。痛いし、腕が抜けそうだが、極めて冷静を努めた。
「仕事ですから」
「でも、こんな素敵な夜に会えて嬉しいよ」
「この度は開業おめでとうございます」
「ありがとう。君からの祝辞は、千の言葉に勝る」
相変わらず気障な言い回しだ。ありきたりな言葉に対しても、すぐにこう返せるところは彼の頭の回転の早さをうかがわせる。もう少し周りに目を向けられたら完璧なのだが。今夜、主催者の息子であるフェルディナントに直に話したい人間ばかりだろうに。一参加者の秘書に過ぎないヒューベルトに真っ先に、わざわざ話にくるとは。歯の浮くような台詞まで用意してある。もう少し立場を弁えろと言ってやりたくなる。
ただでさえ目立つ容姿に人混みでもよく通る声。派手さを擬人化したような男は周りから注目を集めつつあり、居心地が悪くなってきた。それとなく握手を解くとヒューベルトは薄く笑みを貼り付けた。
「このようなところで油を売っている場合ですか?」
2人で食事に来ているのとは訳が違うのだ。指摘にフェルディナントがにんまりと微笑む。
「私が担当する催し物は終わったのだ。後は挨拶回りだけさ。君に真っ先に礼を言いたかった。ああ、でも確かにそろそろいかねばな」
周囲の人間達からの奇異の視線が羨望に変わったのを感じて、ヒューベルトは逃げ出したくなった。フェルディナントが時計に目を落とすのを見てホッとした。
「あの、では、」
またあとで。ヒューベルトが言葉を続けようとした時であっった。会場の照明が落ちる。停電した暗闇の中で客達がざわつき始めたとき、壇上にスポットライトが向けられる。光の中にいるのはフェルディナントの父だ。豊かな体を揺らして、得意げにマイクを手にしていた。
「ではこれより、我が社の歴史についてのヒストリームービーをご覧いただきましょう!」
スクリーンに映像が映る。脈々と続くエーギル家の歴史をまとめたものらしい。家柄に誇りを持つ彼らしい催し物だ。なんにせよ、招待客達の注目がそちらに向いたのは助かった。暗闇に紛れて、エーデルガルト達を探そうと思い、その場から立ち去ろうとした時である。ふいに、腕を掴まれた。催し物もタイムスケジュールも、全て熟知していたであろう男は、壇上など最初から見ていなかった。見ていたのは、最初からヒューベルトただ1人だった。
「ヒューベルト」
フェルディナントの気配が近づいてきて、顔の側で名前を呼ばれた。低く、潜められた声に不覚にも胸が高鳴る。
「すまない、今はゆっくり話せないから」
張りのある声に悲しげな響きが混じっている。その手がジャケットの間から滑り込んできて、胸ポケットに何かを残していった。
「私の部屋のカードキーだ。終わったら、先に待っていてくれ」
フェルディナントの気配がさらに近づいて、至近距離で耳打ちをしてくる。襟元につけられた香りがふわりと香る。ひどく、懐かしい気持ちにさせてくれる香り。彼を間近で感じた瞬間、ヒューベルトは2人きりになったかのようば錯覚を覚えた。歓声が遠くに聞こえる。フェルディナントの声だけが明瞭に、耳に届いた。
「愛してる」
それは、来賓達の注目がステージに向いた僅かな時間だった。そして、ヒューベルトが硬直した時間も数秒。フェルディナントの気配が遠のく。暗闇に目が慣れる頃には脇をすり抜けていったフェルディナントも姿はもう、捉えることは出来なかった。