ふぞくヒュ2-6「そう。それから彼とは会っていないのね?」
「ええ。お互い忙しいので」
「嘘つきね。モニカを補佐につけてから大分楽になっているはずだけど?」
ランチセットの紅茶を口にしながらエーデルガルトがため息をついた。出先で二人は遅めのランチ中だ。緑に囲まれたオープンテラスのカフェは、エーデルガルトのお気に入りの店だ。晴れやかな昼下がりで、この上なく良いロケーションだが二人の表情はどんよりとしている。連日駆けまわっている疲労と、ヒューベルトの話が原因だった。
再会して数か月、エーデルガルトの興味は専ら二人の関係の進展具合に注がれている。同じホテルに泊まった手前、先日の出来事についての話をしないわけにもいかず、フェルディナントに言われたことを包み隠さず打ち明けた。彼に対して言ったことも。
「それはプロポーズじゃないの」と滑り出しはテンションを上げていた彼女も、後半は顔をどんどん曇らせていった。
「確かな証が欲しい、という気持ちはわかるわよ。物でも式でも。形になること求めたいのでしょう」
そういうものですか、と問うと、そうよ、とエーデルガルトは静かに食ってかかってきた。
「そういうの面倒くさがると、あとで修復が効かなくなるわよ」
凛とした声には妙に説得力があって、耳が痛い意見である。
「私はエーデルガルト様とは違います。物が無くとも気持ちがあるというだけではいけませんか?」
彼を愛していると公言できずとも強く想っているのは事実だ。好きだが、形あるものは残さなくても別に良いのではないかというのがヒューベルトの持論である。ただでさえ目立つフェルディナントとの関係が知れ渡ることで、互いの今後にも少なからず影響は出てくるだろう。事情を慮った最善の考えのはずだ。
しかし、此度のエーデルガルトはフェルディナント側のようだ。何かと競おうとするフェルディナントを疎ましく思うこともある彼女だが、此度ばかりはライバルへの同情を禁じ得ないらしい。もう、とエーデルガルトは嘆く。
「プライベートを大事にしてほしいから貴方の負担を少しでも減らしたくて、モニカをつけたのに。貴方ときたら仕事もどんどん抱え込んでくるんだから。時間が無くなってしまうわ」
「我が社をさらに大きく繁栄させ、ゆくゆくは世界へ進出するのは貴女様の悲願でしょう?「御曹司殿」と内々に交流を深めているのはそのためでは?」
片眉を跳ね上げたエーデルガルトが声を潜めた。
「クロードとの協定のことは……またいずれ、ね。レスターの方面にも手を広げるにはまだまだ調査も根回しも足りないわ」
「資金もね」
ヒューベルトが挟み込んだ指摘にエーデルガルトの顔が曇る。市場の拡大を図るにあたって、元手は必要だ。ここ数年、営業戦績は悪くはないが、エーデルガルトに経営の主導権が移ってから事を一気に進めたため地固めができているとは言い難い状況だ。古くから付き合いがある地元の企業からも不満が出ぬように、未開拓のエリアに手を伸ばすには慎重に事を進める必要もある。そこかしこに金をかける余裕がない。
「ここにきて叔父様に更なる融資をお願いしようというの?」
「アランデル殿とのパイプは太く保っておく必要があります。ご心配なく。忙しい貴女様に代わって、彼の方のご機嫌は私がとりましょう」
そうだけれども。エーデルガルトは可憐な唇を小さく曲げた。銀行の頭取りである叔父の話はエーデルガルトにとって耳障りのよいものではない。昔は優しく、温和な人物だったアランデルも壮絶な競争社会に揉まれすぎて、取り立てに容赦がない冷酷無慈悲な暴君として名を馳せている。最近は裏社会とつながりを持ったとも小耳に挟んだ。黒い噂に事欠かない人物だ。
ヒューベルトは「ご機嫌取り」と表するが、実際には一筋縄ではいかないことだとエーデルガルトもわかっている。身内であろうとも、その取り扱いには細心の注意を払っていた。下手を打てばこちらが潰されるか、泥船と一緒に沈みかねない。
「有事の時は、切り捨てなくては……って今はその話は置いておいて」
それよりも、とエーデルガルトはわざとらしい咳ばらいでその場を仕切り直す。
「こまめに気持ちを口に出すタイプでもないじゃない。あなた。私だって何を考えているかわからない時があるというのに」
「気持ちは伝えているつもりですが」
「伝わっている確証は?」
そんなこと、わかりません。正直に伝えるとエーデルガルトは肩をすくめた。
「フェルディナントも自信満々に見えて、不安なのよ」
「あの方が?度し難い」
いくら相手がエーデルガルトであっても公言はできないが、生まれて初めて惚れ抜いた相手だ。全て、捧げている自覚はあるというのに。眉を深く寄せたヒューベルトに対してエーデルガルトはうんざりした様子だった。
「仕事はできるのに、こういう部分だけはイラつかせてくれるわね」
エーデルガルトがやけっぱちでガレットの最後の一口を口に運ぶ。ふと、ヒューベルトは彼女のフォークを持つ左手に視線を奪われた。
「エーデルガルト様、朝から気になっていたのですが、指輪などされていましたか?」
「これ?いいでしょう。昨夜、師にもらったのよ」
薬指に見慣れない指輪が嵌っている。ふふん、と自慢げに左手を差し出されるのでまじまじと見つめてみると、紺色が入った深緑の石が嵌っていた。エーデルガルトの恋人、ベレスの瞳や髪を彷彿させる輝きだ。
ベレスはエーデルガルトが自らヘッドハンティングしてきた経営コンサルの女性だ。どこから連れてきたのかもヒューベルトは知らない。そんな人間と、エーデルガルトはいつの間にか恋仲になっていたらしい。パートナーができてから、現を抜かすどころか彼女の調子も更に軌道に乗っている。メリットをもたらす人間をヒューベルトは大いに歓迎する。
エーデルガルトは自分の恋人が同性であることもあって、ヒューベルト達にもかなり奔放で寛容な姿勢をみせていてくれる。
得意げな上司を、ヒューベルトは咎めないわけにはいかなかった。宝飾品着用の社則を犯すものではないが、問題はそれをはめている位置にある。
「見える形でそのようなものをつけるとは。要らぬ詮索を招きますよ」
「いいでしょう?私が誰と恋愛しようと自由よ」
「この間の騒動をお忘れですか。貴方様のお立場をお考えください」
「ことを大きくしたのはヒューベルトでしょう?あんなくだらないゴシップ記事、潰すまでもなかったのに」
ヒューベルトが話題に出したのは、エーデルガルトの熱愛をネタにした週刊誌のことである。先日、発刊されかけた記事を『潰した』。
最近のエーデルガルトは一経営者としてだけでなくメディア露出も増えている。若く偉大なる経営者。そして、華美な出で立ちは大いに人の目をかっさらう。さりとて、生粋の芸能人ではないのだから、必要以上に清く見せる必要はないと思ったが、スキャンダルになりそうな事案の種は、可能な限り摘み取っておきたかった。
世に出る前の記事を『裏のルート』から手に入れてみれば、内容は全くの事実無根。ひどいものだった。近くにいる異性として、フェルディナントやヒューベルトにも要らぬ嫌疑がかけられていた。出すにしてももう少しくらい下調べでもしたらいいものである。
「貴女様のイメージは可能な限りクリーンにしておきたいだけですよ」
「そんなことまでしているから寝る暇がなくなるんじゃない?」
当の本人は先ほど言っていた通り、どこ吹く風で「言いたいものには言わせておけばよい」のスタンスだった。
「これをつけていると、師のものにされている感じがするの。悪くないわ。こんな気持ちは初めて」
エーデルガルトはこの場にいない想い人に思いを馳せて、顔を赤らめている。
「公然の事実がないから要らぬ噂が立つのよね。色々と面倒だから本当に結婚しようかしら。式も大々的にして」
「本気ですかな?」
「ミドルネームにアイスナーが入るのも、悪くないと思わない?」
外を見てため息をつく主人に、今度はヒューベルトの方が肩をすくめる。
「どうにも、そこまで思い切れませんな」
「貴方はそうでしょうね。今は。好きな人から贈られたものは格別よ、周りのことなんか気にならないわ。私は師と共に在る。これからも」
白魚のような指に燦く藍の宝石を見つめながらヒューベルトは思いを馳せる。自分もいつかエーデルガルトのように、愛した人とのつながりを形として求めるときが来るのだろうかと。フェルディナントは今、求めている。
「ねえ、フェルディナントとこのままでいいと思っていないでしょう?」
「ええ」
「別れるつもりもないでしょう?」
「ありません。彼にその気があれば別ですが」
「その方が現実味が薄いわよ……だったら、今夜にでも食事にでも誘いなさい。彼も待っているわよ」
「ですが。流石に気まずいかと」
「早くなさい」
傍らに置いておいたスマートフォンをこつこつと爪で叩きながらエーデルガルトの催促が始まった。これは少し強引な彼女なりの背中の押し方だ。フェルディナントと再開した時もアプローチに悩んでいたヒューベルトを半ば強引に引き出した時と同じように。
「いいわね」
その一言には有無を言わさぬ圧があった。