「おれは君のものなので」「ヴィクトル、何か怒ってる?」
意思の強そうな眉を少しだけ下げた恋人がそう声をかけてきたのは、誰もいなくなったチムピオーンのリンクサイド、帰り支度が終わり荷物を背負ったその瞬間だった。
「え? 急にどうしたの?」
心あたりがなさすぎたおれは首を傾げる。今日の練習で厳しくしすぎたかと心配していると、予想に反して頬を染めた――すっかりオフモードのユウリが、唇を尖らせながら言葉を紡いだ。
「だって……最近、ヴィクトルからハグとかキ……スとかしてくれないから、僕、何か変なことしちゃったのかなって……」
「――それは、」
紆余曲折を経て、おれとユウリが「恋人」として付き合い始めたのはつい最近のこと。
おれはずっとユウリのことが大好きで、時間をかけて口説き落として、ようやく手に入れた愛しい子だ。手放すつもりなんて、あるはずがない。しかし、そんな中でおれからのスキンシップが減っていることは事実だった。
「不安にさせてごめん、ユウリ。実はおれも、少し迷ってて」
たよりなくアーモンド色の瞳を揺らすユウリの肩に、そっと触れながらおれは口を開いた。
「付き合って、もう一ヶ月くらい経つけど、キスもハグもいつもおれからで、ユウリからしてくれたことってないよね? だから……ちょっとまだ慣れないようなら、ユウリの負担にならないようにしたいなって思って」
あまりの愛おしさに、全てを奪ってしまいたくなる衝動に襲われることもあるけれど、恋愛初心者のユウリを怖がらせてはいけない――そう思って、少しだけスキンシップを減らしたのだ。無邪気に首を傾げる恋人を前に、わずかに言い淀みながらもそう告げた。
「そう、だったんだ……ヴィクトルに嫌われたわけじゃなくて、良かった」
そう言って、ほっとした様子のユウリは、しかし再び、困ったように眉を下げてしまう。
「確かにまだ慣れてないけど、僕、ヴィクトルに触られるの、嫌じゃないよ。すごく、嬉しい」
「……それ本当? ユウリ」
――突然そんな可愛いことを言う愛弟子に、今度はおれが動揺させられる番だった。どくどくと高鳴る鼓動。上擦りそうになる声を必死に抑えながら問いかければ、こくんと小さく頷くユウリ。
「うん。その、むしろ離れちゃうと心配になっちゃうから、今までどおりが良いな……って」
照れたように明るく微笑む恋人を見つめながら、おれはたまらずに拳を握りしめた。今すぐにでも、抱きしめて、キスしたい。けれど、ユウリ本人が戸惑っていないのなら『今』がチャンスだ。握りしめた拳に力を込める。
「……もし、ユウリが嫌じゃないなら、」
「ヴィクトル・ニキフォロフ」の姿が鮮やかに映し出されたアーモンド色の瞳を覗き込んで、深く息を吸った。
「ユウリからも、おれにハグとかキスして欲しいな。ユウリの好きな時に、してくれて大丈夫だよ。おれは君のもので、君の『恋人』なんだから」
「えっ……?」
――おれは君のものだ――その言葉にはっとし、きらきらとした表情でおれを見上げてくるユウリ。
「……いいの?」
「うん! 勿論だよ」
「……なんか、緊張するね」
「おれも、いつも緊張してるよ」
「絶対うそ!……びくとるの、うそつき」
小さく笑ったユウリが、少しの沈黙のあと、遠慮がちに右手を伸ばしてくる。
『……シツレイシマス』
聞き慣れない日本語が耳に届き、ユウリの指先が、おれの右頬に触れた。それから、感触を確かめるように温かな手のひらがそっと輪郭を滑る。右手、それから左手。恋人の手が、おれの両頬をそっと包み込んだ。
「ふっ……」
「なんで笑うの?」
「ごめん、くすぐったくて」
ぺたぺたと肌の上をやさしくたたくような触れ方は、まるでおれの存在に初めて気付いた小さな子どものように、幼くて可愛らしいスキンシップだ。
愛おしさとこそばゆさが相まって思わず頬を緩めていると、不意にユウリがおれの前髪をそっとかき上げた。普段、隠れがちな両眼の視界が眩しく開かれる。茜色の夕日に、嬉しそうに目を細めた恋人の微笑みが照らされていた。
「――ぼくの、ヴィクトル」
ふわりとしたその笑顔があまりに可愛くて、可愛くて、愛おしくて。
ユウリの両手が、再びおれの頬を静かに包みこんだその瞬間、おれは一瞬にして理性を飛ばした。そして気付いた時にはもう、年下の恋人にまるで夜のようなキスを仕掛けてしまっていたのだ。
「んんっ……! んーッ!」
細い顎を捕らえ、角度を変えて何度も口付ける。
「…ふぁっ……やっ…!」
甘い声を零す、薄く開かれた唇を更に割り開こうとしたところで、強い力がおれの肩を引き剥がした。まだ睦言にすら慣れていないユウリが、乱暴な仕草とは裏腹の、とろりとした目でおれを見上げている。
「な、に考えてるの、びくとる……!」
「――ごめん。ユウリがあまりに可愛くて」
悪びれる素振りもないおれの答えに、深いため息を吐くユウリ。
「もぉー……誰も来なかったから良かったけど。外はだめだってば」
外「は」だめ、ね。そういうところだよ、ユウリ。
「ごめんね? ユウリ。帰ったら、いっぱいキスしようね?」
「……びくとるの、ばかっ」
不服そうに頬を膨らませてはいるが、そんなに甘い声で何を言われてもおれの恋人が可愛いことに変わりはない。思わず零れてしまう笑みを隠しもせずに、恥ずかしさに震えていたユウリの手をそっと攫っていた。
「帰ろう、勇利」
「そうだね。……ごめん、遅くなっちゃった」
困ったように笑いながら、明るく頷くユウリ。繋いだ手に、きつく絡められた指先はたしかに恋人の意志によるものだ。――そのあまりの幸せに胸が詰まる。手放したくない。側にいたい。ずっと側にいてほしい。そう願いながら、力を込める。おれが君のものなら、君だっておれのものなんだからね、ユウリ?
そう、心の中で呟いて。
おわり