地獄の沙汰も連れ次第地獄へと来てどのくらい経ったのだろうか……
元・上弦の陸妓夫太郎は今日も妹梅と共に地獄を渡り歩く。
「ねぇお兄ちゃん。今日は何処行くの?」
「……何処だろうなぁぁ」
「…アタシ、お兄ちゃんとなら何処へだって行けるからね!」
最早時間の感覚は無い。ただただ当て所なく、この荒野を歩くのみ……。
何もない。本当に何もない……。同じく地獄に堕ちた人間とすれ違う事はあるが、向こうもただただこの荒野を歩くのみ。自分と同じ虚ろな目をして……。
本来なら光ある場所へ逝く筈だった梅はずっとキラキラしている。それに比べ自分は、どんどん暗い水底に沈んでいくかのように、どんよりとした重苦しい空気を纏い始めている。最近はボゥーとする事も増えた。いつしか自我を失ってしまうのではないかと考えるようにもなった。
何もないこの荒野で、いつ終わるかも分からぬこの旅路で、ひたすらに自分の罪と向き合えというのが、この地獄の罰なのだろうと妓夫太郎は考えていた。
(想像していたよりもきちぃなぁぁ…これはぁぁ……)
これが自分に与えられた罰……いっそ自我を失ってしまった方が楽だと考えてしまうが、自分の為に一緒に地獄に堕ちてしまった妹の為にもと気を引き締め、自分を強く保つ妓夫太郎。
「梅、疲れてねぇかぁ?おんぶしてやろうかぁぁ?」
「大丈夫!こうやってお兄ちゃんと腕組みながら歩くのアタシ好きだから!」
梅の笑顔が自分に纏わり付く重苦しい空気を少しだけ軽くする。その笑顔で何度救われたか…。
だが最近は少し違う……。
無理をして笑っていると分かる。自分に心配かけまいと必死に笑顔を浮かべているのが分かる。
「……梅ぇぇ」
「ん?なぁにお兄ちゃん」
「……ごめんなぁぁ」
こんな弱い兄貴で……こんなみっともねぇ兄貴で……
梅の笑顔で払拭した分以上の重苦しい空気が妓夫太郎に纏わり付く……。
最近はいつもこうだ。折角軽くなった空気がすぐに重く戻ってくる……。
引き攣った笑顔で、申し訳なさそうにする妓夫太郎に、梅は何も言わずその細い腕をギュッと強く抱き締める。
今日も二人は歩く……何もない荒野を……二人で支え合いながら……
「ク、ククク……アーーハッハッハッ!!!」
その高笑いは突然背後から聞こえてきた。
妓夫太郎は振り向き、咄嗟に梅を庇うように自分の背に隠す。振り向いた先…淀みを含んだ青い瞳に映したのは、二度と映したくない姿だった………
「見つけたぞ貴様等ぁぁッ…よくも俺をこの様な所に落としてくれたなぁぁあッ!!」
釣り上がった目に、妓夫太郎達にとっては時代遅れと思える服装……
あの"侍"だった……。
「この不毛の地で長い間放浪してたが……それもこの時の為だったのだな!貴様等虫けら兄妹に引導を渡せという御仏からのご意志かっ!!」
侍は殺意に満ちた瞳で二人を睨み付け、腰に差した刀を構える。
妓夫太郎は焦った。鎌さえあればあの時のようにやれたかもしれない。だが今は丸腰だ。しかも背には大事な妹……。
「ぉ、お兄ちゃん…アイツ……」
「ッく……!」
「二人纏めて片付けてやるッ……!貴様等極悪兄妹を斬り捨てて、俺は晴れて極楽浄土にいけるのさ!!」
侍の目は常軌を逸していた。おそらく既に自我を失っていた中で二人を見つけ、二人への憎しみだけが蘇ったのだろう。自分の罪など忘れて……
その狂気の刃を、侍は二人へと向ける。既に死した身……ならば傷付くのは魂というものなのか……
(んな事になったら、生まれ変わるなんてできねぇじゃねぇかッ!)
妓夫太郎は梅に覆い被さる。
本来なら梅はここには居ない。本当ならコイツに会う事など無かった。
だから、斬られるならば自分だけだと……その身を盾にして、大事なその身体を護る……。
「お兄ちゃぁぁんッ!!」
「死ねぇぇぇぇッ!!下劣極まりない虫けら風情がぁぁぁぁッ!!!」
梅の悲痛な声と、醜悪な雄叫びが妓夫太郎の耳に届く。妓夫太郎は歯を食いしばり、瞼をぎゅっと閉じた。この身体で刃をどこまで防げるかは分からない。だが妹だけは決して傷付かせまいと、力を込めてその身を抱き締める。
覚悟した。魂であるこの身が傷付くのを。消滅も覚悟した。……だが、
「あーらよっとッ」
次に耳に届いたのは、自分の身を切り裂く音ではなく、落ち着いた低音の男の声と、ドガッという鈍い音だった。
「………へ?」
聞き覚えのあるその声に、妓夫太郎は恐る恐る後ろを振り向く。驚愕から見開いた瞼の中で震える瞳が映したのは、揺れる銀糸のような白髪だった。
「何が虫けら風情だよ。丸腰の子供相手に刀振り回してるテメェの方が虫けらじゃねぇか。……いや、そりゃ虫に失礼だな。ゴミだな、ゴミ」
六尺は優に超えるその身体で、地べたに倒れる鼻が変形した侍を足蹴にしていく男…。
その逞しくて大きな背中を、妓夫太郎はただジッと見つめた。
「き、貴様ァァ!俺の邪魔をす……グハッ!」
「はいはーい。もう黙れや。そして消えろ。二度とコイツ等の前に姿現すんじゃねぇぞ」
軽い口調だったものが、ドスの効いた重苦しい声に変わり、侍はみるみる青ざめていく。
「ク、クソがぁぁあッ…!」
自尊心を傷付けられた侍はふるふると震え、再び刀を握りろうとする。…その時だった。侍の足元に深い穴が開き、その穴へと侍が堕ちていったのは……
堕ちていく侍の叫び声が妓夫太郎の耳に届く…
「どうやらもう一個下の地獄に堕ちたみてぇだな」
侍が堕ちていくのを確認した男は、ゆっくりと妓夫太郎と梅に振り向く。
「まっ、これで、あのクソ野郎がお前らの前に現れるのは金輪際無くなったって事だッ!」
煌めく笑顔だった。この場所に似つかわしく無い輝く笑顔……そして、妓夫太郎はその顔を知っていた。
「ぅ、宇髄…天、元……」
「おっ!ちゃんと覚えてたな!偉い偉い!」
宇髄はニコニコと満面の笑顔で歩み寄り、しゃがみ込んでは妓夫太郎の頭を優しく撫で始める。
妓夫太郎は固まった。
何故この男は笑顔なのかと……。
左眼には眼帯……着物に隠れてはいるが、左手も無いように見える……。
それを奪ったのは自分だというのに、何故……
「本当久しぶりだなお前ら。元気にしてたか?…あ、地獄で元気も何もねぇよな」
自分に向けられたその満面の笑顔に妓夫太郎は未だ困惑していた。
だが、どことなく暖まるような感じがしてきているのは気のせいだろうか……
「実は俺、こっちに来たばっかなんだよなぁ。つうわけで、道案内頼むわ。ド派手にじゃなくても良いからな?」
「………は?」
そうニカッと笑って、宇髄は妓夫太郎の返事を待つ事なく、地べたに座り込んだ兄妹をヒョイッと両脇に抱え、そのまま歩き出す。そんな宇髄の突拍子もない行動に「は?いや、ちょっと待てよなぁぁッ!」と戸惑う妓夫太郎と、未だ何が起こったのか理解が追いつかず目を丸くしている梅。
こうして三人の地獄道中旅は幕を開けた。