ぼくの魔法使い今日は、目が覚めた瞬間から何故か胸がざわついていた。
そういう時は大抵何事もうまくいかない日で、アカデミー時代はほぼ毎日のことだったけど、最近は滅多に無くなっていたのに。
変な体勢で寝ていたのか体も強張っており、胸に溜まった重たい空気を吐き出す。
少しでも気を持ち直せるものを探して部屋を見回すが、隣のベッドはすでに空で、どんな時でも元気をくれる彼の姿も見られない。
ビリーくんはもう仕事に出ているのかな、というか今は何時なんだろう。
いつの間にか床に落ちていたスマホを覗き込み、遅刻寸前の時間を指していることに驚愕する。
しかも、悪いことに今日はアッ……シュと二人でパトロールの予定だ。
遅れたらどんな目に遭うかかわからず、青褪めながら一気に覚醒してベッドから飛び起きる。
勢い良く足を床に降ろした瞬間、ばきっ、という音と嫌な感触がした。
「!!?……あぁ……っ」
足の下では白い鳩の羽がひとつ、無惨に欠けて転がっている。
どうしよう、と思うものの、時間的に拾い上げる余裕すらなく、泣きたい気持ちをなんとか抑えて準備を続けるしかなかった。
お昼の休憩中、一人で公園の隅の石段に腰掛け、何度目かわからない溜め息を吐く。
結局パトロールの開始時間には間に合わず、焦り過ぎたせいでナイフを装着する時に指先を傷付けてしまったし、アッシュには怒鳴られ、ずっと不機嫌なオーラと嫌味を浴びながら過ごす羽目になった。
スマホから下がった片翼の鳩、不格好な断面に触れると、グローブの下で指先がピリピリと痛む。
「…ビリーくん…」
縋るように呟いてしまった名前に、自分でも呆れた。
きっと彼は今日も街の人にマジックを披露したり、持ち前の観察眼で異変を察知したりして、立派にパトロールをこなしているだろう。
一人では気持ちを立て直すこともできず、アッシュに気圧されてパトロールどころか昼食すら喉を通らない自分が情けない。
欠けてしまったオーナメントは、彼と“ずっと仲良し”でいる資格がないと言われているような気がして、また溜め息が溢れる。
「どうしたのグレイ。元気ないネ」
「!!…ビリー、くん…」
「俺っちがキャンディあげようか?」
「あ、わわ…!」
明るいオレンジ色が突然、視界いっぱいに現れた。
応答する間もなく、差し出された手から次々にキャンディが湧き出てくる。
どうしてここに居るのかとか、いつから見ていたのかとか、そんなことをぐるぐると考えながらもキャンディを落とさないようこちらも手を伸ばす。
色とりどりのそれが両手いっぱいに盛られ、ついには抱えきれずに、ころんと一粒転がってしまった。
「あ…!」
ビリーくんの瞳の色に似た青いキャンディの包みが、自分が腰掛けていた石段を転がり落ちていく。
思わずそれを追い掛けるが、両手が塞がっていることもあり体勢が不安定で、一段目を踏み外してしまう。
「グレイ…!!」
ああそうだ、今日はこういう日なんだった。
衝撃を予期して目を閉じる。
だけど、いつまでたっても体が階段に打ち付けられることはなく、不思議な浮遊感に恐る恐る目を開けた。
間近で、オレンジ色のゴーグルのレンズ越しに、心配そうな瞳がこちらを見つめている。
体に巻き付く細い糸と、意外なほどしっかりとしたビリーくんの腕。
「Wow!危機一髪!俺っちのストリングスが間に合って良かったぁ」
「う、うん…ごめんなさい……えっと、ありがとう…」
ノープロブレム!なんて普段通りの明るい声を聞きながら、色んな意味で心臓が煩くて、気付かれないように深呼吸を繰り返す。
取り零したキャンディを拾い上げ、ビリーくんも隣に腰掛けてきた。
「あの、ビリーくんはどうしてここに?」
「アッシュパイセンに午後からパトロール交代しろって言われたんだヨ。辛気臭くてどうとか言ってたケド、何があったの?グレイ」
「……えっ、と」
両手いっぱいだったキャンディも気付かないうちに片付けられており、スマホと欠けた鳩のオーナメントだけが残っている。
ちらりと見たビリーくんのスマホにぶら下がるのは、傷のないきれいな鳩だ。
鋭い彼が気付いていないはずもないが、こちらから話すのを待っていてくれるのだろう。
すごく情けない話なんだけど、と前置きをして、今朝からのことを説明する。
「グレイが寝坊って珍しいよネ。オイラがいたら起こしてあげられたんだけど、今朝はちょーっと別の仕事があって、早くから出掛けてたんだ」
「そ、そっか…朝からお疲れさま。寝坊は単純に僕が悪いから…気にしないで?」
一通り話し終える頃には、何故かスマホを持つ手にビリーくんの手が重ねられていた。
伝わる体温に気恥ずかしさを感じつつ、様子を窺っていると、ぱっと手が離れていく。
「あ、れ…ビリーくん、僕のスマホ…」
「あれー?どこに行っちゃったのカナ?」
何も無くなってしまった手のひらと、眩しい笑顔を交互に見遣る。
「大切にしてくれて嬉しいけど、グレイの悲しむ顔は見たくないって、鳩さんが言ってるヨ」
「え…」
「だからオイラが魔法を掛けてあげたんだ。さぁさぁ、ご注目…It's showtime☆」
ぽん、と軽い音がして、目の前に白い羽が舞う。
同時に手の中に再び現れたスマホ、そこには折れたはずの羽がテープで仮止めされた鳩のオーナメントがぶら下がっている。
「Ta-Da!マジック大成功♪」
「っ、これ…どうして、いつの間に、」
「実はここに来る前一度部屋に戻って、その時に欠片を見つけたから拾っておいたんだよネ。完全に修復するのはすぐにできないから、今はそれで我慢してくれる?」
「…ビリーくん…」
視界が歪んで、優しい笑顔がぼやけて見える。
今朝から堪えていたものがついに決壊してしまいそうになるのを、唇を噛んで何とか耐えた。
「ほらほら、鳩さんがグレイの笑顔が見たいって」
「うん…っ」
泣き笑いのようになってしまったが、ビリーくんはもう一方の鳩を揺らしながら嬉しそうに頷いてくれる。
ああ、どうして君には全部わかってしまうんだろう、本当に魔法が使えるのかな。
「ねえねえ、俺っちお昼ごはんまだなんだ。良かったら付き合ってくれない?」
「もちろん…!実は僕、食欲がなくて、さっきまでお昼いらないかなって思ってて…だけど今なら食べられそうかも」
「ワーイ!グレイと行きたいご飯屋さんがいくつかあるんだよネ~」
木漏れ日を反射してきらきら輝くオレンジ色を追って歩き出す。
二人の間で揺れる二羽の白い鳩もどこか嬉しそうに見える。
胸につかえていたものは跡形もなく、暖かな光に溶かされてしまった。