蜜月離宮 ―朝―リュートが目を覚ましたのは、空が白み始めたころだった。部屋の中の本棚や家具が新しい日光に照らされ、白くぼんやりと輪郭を浮かび上がらせていた。リュートは肌触りの良いシーツに鼻先を擦らせる。ぐりぐりと顔を左右に押し込むと、また微睡みの中に溶けてしまいそうだった。
ふと背中を覆う温かさと、心地好い窮屈さに首を後ろに擡げた。凛々しい眉毛と、瞼を縁取る細かい睫毛。寝顔すらも整っているんだな、と、リュートはしばらく、隣で眠るコキュウに見とれていた。後ろから抱きとめるように腕を回され、その重みに甘えていたかったが、リュートは慎重に、もぞもぞとベッドを這い出した。脱皮する蛇も、このような心持ちなのだろうか。古い皮からすり抜けて、新しい素肌にガウンを羽織る。絹の裾がひらひらと太ももを擽った。
(お水……)
喉の乾きを覚えて、覚束無い足取りでテーブルの水差しを探した。硝子の水差しは、昨夜同様テーブルに鎮座し、揃いのグラスと共に出番を待っていた。グラスには半分ほど水が入ったままになっていて、リュートにコキュウとの時間を思い出させる。リュートは少しの気恥しさと一緒に、常温の水を喉に流し込んだ。
外から鳥の鳴き声が聞こえた。港町ではあったが、この離宮の周りには少しばかりの森が広がっている。リュートは窓からバルコニーに出た。寝ているコキュウを起こさないようにと必要最低限だけ開けて素早く外に飛び出すと、また元の通りに窓を閉めた。
離宮は四階建てで、部屋は最上階に位置しているため、眺めは良い。眼下の緑は先端だけが突き出していて、木の幹や地面は朝靄が覆っていた。森の先にあるはずの海は、薄く白で隠されており、潮騒だけが微かに聞こえる。春特有の、柔らかな冷たい風に乗って海の香りもした。目を瞑って空気に身を委ねると、どこか懐かしい気持ちになる。
リュートは悪戯心も手伝って、バルコニーから飛び降りた。常人には考えられない高さだが、スフォルツェンドの大神官にとってはどうということは無い。裸足のまま、ふわりと草の上に着地した。
朝露に濡れた草と土は絨毯のように柔らかく、リュートの足を擽る。靄は濃くはなかったが、森を見渡せない程には辺りを包んでいた。風に揺れる微かな葉音と、鳥の囀り、寄せては返す波の音だけが全てだった。
それなのに、静かに音楽が聞こえる気がした。旋律というにはか細く頼りなげで、耳で聞いているのか幻なのか、リュートにも分からない。ただ、小さなフーガのように草の葉の間を染めていくのが感じられた。
そう言えばこの世には魔曲というものがあるのだった、と、リュートは思い当たった。リュート自身、本での知識しか無かったが、もし魔曲があるならこういうものなのかもしれない。聴いている者の心に入り込み、幻を見せる。幻想的な朝靄の中で、魔曲に心奪われ、森に吸い込まれてしまうのか。何者かが魔曲を奏で、リュートを誘っているようだった。
リュートは唐突に、世界に一人ぼっちで取り残されたような感覚に襲われた。美しいこの世の終わりに立ち合い、このまま物語が終わってしまっても不思議では無さそうだった。
「リュート王子」
すぐ背後でコキュウの声がし、リュートはいつもの世界へと引き戻された。まだ少し音楽の余韻を感じつつ、リュートは振り向き、微笑んだ。
「おはようございます、コキュウさん」
コキュウは上半身は裸だったが、ズボンと靴は履いていた。彼もまた、起きてすぐに窓から飛び降りたのだろう。サイボーグの彼にしてみたら、あの程度の高さは慣れたものだった。だが、隣で寝ているはずの恋人がいつの間にか裸足で朝靄の中に立ち尽くしているのに慣れている者などいるはずもない。コキュウは明らかに狼狽していた。リュートが普段と何ら変わらないことを確かめると、やっと安堵のため息をついた。
「突然いなくなったと思えばこんな薄着で外にいるなんて
……びっくりさせないでください」
ガウン一枚のリュートを抱き締めて言った。
「ごめんなさい……起こしたくなくて。それに、朝靄が綺麗だったから」
リュートが目線を上げると、コキュウもつられて辺りを見渡した。
「海から近いし、春ですからね」
そうなのか、とリュートは納得した。気がつけば音楽の気配は跡形もなくなっていた。最初から、そんなものは無かったのかもしれない。ゆっくりとコキュウに体重を預けると、軽々と抱きかかえられた。
「足……汚れてしまいましたね」
リュートはコキュウの首に腕をまわしてしがみつく。そのまま唇をコキュウの鎖骨に這わせた。すん、と鼻をすすると、朝の冷たい空気と共にコキュウの汗の匂いがした。
ああ、そうだ、とリュートはぼんやり思った。一人ぼっちではなく、二人ぼっちだ。コキュウとなら、このまま世界に取り残されても良いと思った。
◇ ◇ ◇
ほんの一瞬だけ潮の香りがしたような気がして、コキュウの意識は唐突に始まった。部屋を照らすほんのりとした明るさが、まだ太陽が登りきっていないことを告げていた。朝は好きだった。瑞々しい冷気に世界が洗浄され、新しい一日を祝福しているように思える。それを少しでも多く享受するべく、早起きするのも好きだった。ぐっと力を込めて伸びをすれば、筋肉と機械が入り交じった体が程よく解れた。
しかしその朝の爽やかさは、隣に居るべきはずの人の不在によって打ち消された。傍らのシーツに遺された僅かな温もりから、その人との夜が夢ではないことだけは確認できた。
「リュート王子?」
身を起こしながら名を呼んでも、返事は無かった。ひとまず最低限の衣服と靴を纏うと、コキュウは先ほどの潮の香りを思い出した。バルコニーに出る窓を開けると、ひんやりとした海風が入り込む。春とはいえ、まだ朝は冷え込む。海にほど近いこの離宮は、朝靄に包まれていた。朝日を浴びて、仄かに発光しているようにも見える。下を覗き込むと、靄の中に微かだが地面が見え、見覚えのある濃紺の髪の少年が佇んでいるのも分かった。ここから降りたのだろう。コキュウも反射的にバルコニーから飛び降りた。
リュートは薄衣を纏い、森に立っていた。そのまま靄に吸い込まれ、帰ってこないような気がして、コキュウは慌てて声を出していた。
「リュート王子」
リュートは声に反応して、振り向き、微笑んだ。いつもと何ら変わらない。しかしその微笑みは、どこか寂しげに見えた。
「おはようございます、コキュウさん」
リュートが声を発すると、微かに見えていた憂いの表情は消えたので、ようやくコキュウは安心し、息をつくことができた。
「突然いなくなったと思えばこんな薄着で外にいるなんて……びっくりさせないでください」
コキュウはリュートの華奢な肩を抱き寄せる。すぐにでも抱き締めなければ、どこかに消えてしまいそうな、そんな儚さが漂っていた。
「ごめんなさい……起こしたくなくて。それに、朝靄が綺麗だったから」
リュートが目線を上げたので、コキュウもつられて辺りを見渡す。
「海から近いし、春ですからね」
コキュウが言うと、リュートは物珍しそうにキョロキョロと辺りを確認した。そうして、そろそろとコキュウにしがみついてきた。コキュウは、リュートが裸足なのに気がつき、ひょいと抱き上げた。
「足……汚れてしまいましたね」
リュートがコキュウの首に腕をまわし、コキュウの鎖骨に軽く吸い付く。リュートの甘えた仕草に、コキュウは愛おしさが込み上げるのを感じていた。
コキュウは黒く艶のある桶に湯を張ってくれた。リュートを椅子に座らせ、土で汚れた足の踵を丁寧に手で支え、桶に沈める。朝露で冷えた足先に、熱めの湯がじんじんと痛いくらいだった。少しすると、足が温まり血流が良くなったのか、体全体がぽかぽかとしてきた。
コキュウはゆっくりとリュートの足についた土を擦り落とす。擽ったさにリュートは首を竦めてくすくすと笑った。擽ったいだけではない。一国の王子でもあるコキュウが、跪き、年下の少年(とはいえリュートも一国の王子だが)の足を洗う様が面白く映ったのだ。わざと真面目に恭しくするのが、なお一層可笑しかった。
「さ、綺麗になりましたよ」
白いふわふわしたタオルに足を包まれ、押し拭われる。足の指を一本一本解し拭かれ、リュートは気持ちよさに目を伏せた。左右の滴が均等に拭われると、右の爪先が膝の高さまで持ち上げられた。コキュウはリュートの足先をとっくりと検分すると、白く細いふくらはぎを撫で上げる。
その触り方に艶が混じるのをリュートはじっと見守っていたが、足の甲にコキュウの唇を感じた時はさすがに声が漏れてしまった。主君に傅く忠実な騎士の不意打ちに、思わずリュートは顔を赤くする。
「そう言えば、朝、音楽が聞こえてきたような気がしました」
自分だけが緊張しているのが悔しく、何とか気を逸らそうとリュートは話した。
「教会の鐘の音ですか?」
「いえ……」
なんとも形容しがたい旋律だったので、説明も出来ずにすぐに口籠ってしまった。その間にも、コキュウの唇はリュートの膝を乗り越え、柔らかな内腿に到達していた。唇を滑らせ、時に啄み、リュートの内腿を甘い果実のように味わっていた。リュートの吐息に熱が籠る。切なげに睫毛が震えた。
「スラーのこの地方には言い伝えがあって……海に住まう神々が、春に清めの歌を歌うそうです。もっとも、複雑な海岸の地形によって風が抜ける時に音がするそうですけど」
「あ……わだつみのしらべ……ですか?」
コキュウは、リュートの薄桃の肌に跡がつかないように慎重に唇を落としていた所だったが、その一言に顔を上げた。
「ご存知でしたか」
僅かに驚いたようだった。海神の調べ。スラーでもさして大きな街ではなく、コキュウ自身もこの地に離宮を建てることになったために知るようになった自然現象だったのだ。
「本で読んだことがあります。でも、実際に聞くのは初めてでした」
リュートはふう、と息を整えた。
「僕には、本の中の知識ばかりです」
その言葉には、捜し物の場所を思い出したかのような響きがあった。真意を図りかねて見上げるコキュウの黒い瞳と、視線がかち合う。リュートはコキュウの精悍な顔を両手で包んだ。
「この世界には、僕の知らない、見たことがないことがたくさんあります。僕、コキュウさんと世界を見てみたい」
急に色めき立つリュートに、コキュウは一瞬呆気に取られた。次いで出てきたのは笑いだった。つい今しがた自分の唇で健気に震えていた少年は、今、まだ見ぬ世界への憧憬に目を輝かせている。一所に留まらない様は、清らかな湧き水のようでもあった。
「俺も一緒に行っていいんですか」
「コキュウさんと行きたいんです」
大国の王子としては、無謀な思いつきなのかもしれない。魔族を滅ぼして平和な世になったら、というのを、コキュウは喉元まで出かかったが慌てて引っ込めた。それを言ってしまうと、この素晴らしい思い付きが急に色褪せて陳腐なものになってしまいそうだったのだ。
「ぜひ、行きましょう。俺も、世の中まだ知らないことだらけです」
顔を綻ばせ、コキュウは言った。それを満足そうに見届けると、リュートはいきなりコキュウの頬にやった手に力を込めてぐいと引き寄せた。身を屈め、コキュウの唇を塞ぐ。
「隙あり、です」
ぱっと顔を離したリュートは、してやったりと満面の笑みを作る。コキュウの優しすぎる愛撫にやられっぱなしだったので、リュートなりの仕返しだったのだろう。コキュウはこの無邪気すぎる報復に、また更に頬を緩ませた。
降って湧いたような、何気ない提案。実現するしないに構わず口にするリュートには、ある種の焦りがあったのだろう。言霊とすることで、自分の存在を留めて起きたかったのかもしれない。そうコキュウが気付くのは、そんなに遠くない未来だった。