また逢う日までシュウとヴォックスは、交際を始めてから大きな喧嘩というものをしたことがなかった。
お互い感情的というよりかは理論的に話し合うタイプであったため、それぞれの思ったことを伝え、理解しあってきた。
しかし、そんな二人にも決定的に理解できないものが一つあった。
それは『自分の命に対する価値観』であった。
鬼と人間では、生きる時間が違いすぎる。
ヴォックスからすればヒトの命なんて瞬きの間に消えてしまうような、そんなもの。
シュウはそんなヴォックスの感覚を想像くらいはできるが、理解をするのは難しかった。
鬼と暮らすと決めたものの、人間としての誇りを捨てて鬼として生きるわけではない。
それはただ人間として、自分の一生をかけて彼と寄り添うこと。
彼はそれなりの覚悟をもって、一緒に暮らしていたのに。
たまたま、言い争いになりかけた時。
「どうしてほしいか、言ってくれないと治せないよ、だから教えて。」
シュウは解決策を生み出そうと彼に提案をしただけ、それだけなのに。
「どうせそれを伝えても、すぐ私の前から消えてしまうのだ。だから私が黙っていれば済む話だ。」
その言葉に、シュウの血の気が引いた。
何も言えず、何も考えられず。目の前が暗くなる。
「あ・・・」
ヴォックスが自分の言葉に気づいた時には既に遅く。
パァン!と頬が鳴る。
シュウはそのまま青白い顔で息を荒くしながら踵を返した。
今まで、なんとなくお互いに触れなかった話だった。
それはお互いに理解しあえるものでないことを解っていたから。
シュウは鬼にはなれないが自分の人生を全てヴォックスに捧げようとしていたし、ヴォックスも数百年ぶりにその温かい気持ちを大切にしたいと思っていたのに。
彼に甘えすぎたのだ、ボロが出た。
ヴォックスはしばらく一人で頭を冷やすと、寝室へと向かった。
コンコン─
ノックをするが、返事は聞こえない。
ゆっくりとドアを開くと、ベッドに寝込んでいるシュウの姿。
起きているのか、眠っているのかはわからない。
ヴォックスは黙って横に座る。
スプリングがギシリと部屋に響いた。
「シュウ・・・すまなかった。」
そっと彼の頭を撫でる。
少しだけピクリと反応があったので、シュウが起きていることを確認する。
ヴォックスはそのまま話を続けた。
「ずっと君に甘えていて、この話をするのを避けてきた。・・・いや、話さなくてもいいと思っていた。」
ヴォックスは自分の生きてきた時間の流れ、孤独、裏切り、今まで考えてきたことをシュウに伝える。
途中でズビズビと鼻水を啜る音、息を切らす音が聞こえたので、シーツの上から優しく抱きしめて、自分の温もりを伝えながら全てを話した。
ヴォックスが話し終われば、シュウはシーツの中で振り向き、ヴォックスの胸に顔をぐりぐりと擦り付ける。
「・・・忘れたくない。」
その声は震えていた。
「・・・うん。」
「ヴォックスのこと、死んでも忘れたくない。全部覚えていたい。」
ちらりと顔をあげるシュウの瞳はヴォックスの顔をしっかりと写し込んでいて。
─声を聞かせて。
シュウは続けて言った。
生まれ変わっても、君に話しかけられたらすぐにわかるように。
また君の声が好きなんだって言えるように。
何度も何度も、耳元で愛を囁いた。
シュウもそれに応えるように、ヴォックスの名前を呼び返した。
朝目が覚めると、ベッドにはヴォックスひとり。
そのかわりにふわりと漂うベーコンの焼いた良い匂い。
床に落ちた服を拾うが上着だけが見つからなかった。
そのままリビングへと向かえば、探していた自分のシャツを羽織ったシュウがキッチンで朝食を作っていた。
「あ、おはよう、ヴォックス。よく眠れた?」
昨日のことが嘘のように、いつも通りに笑いかける。
その笑顔はなにか吹っ切れたような、ずっと美しいものだった。
ヴォックスは彼が生きている間はそれを守り続けようと静かに心に誓った。
その日もヴォックスは一人で病院へと向かっていた。
受付に顔を出せば、女性看護師さんがポッと頬を紅くして小走りでこちらに近づいてくる。
「面会ですか?」
「はい。」
「ご案内しますね。」
コツコツと踵を鳴らしながら廊下を歩く。
「・・・お孫さん、ですか?」
看護師さんが質問してくる。
「──・・・。」
返事はせずニコリと微笑めばまたしても顔を紅くし、個室のドアを開いてくれた。
パタンとドアが締まり、部屋にはヴォックスと病室に居る彼のふたりきりになる。
「シュウ、来たよ。」
その声に、病室のベッドから外を見ていた彼がゆっくりとこちらを振り向いた。
「あぁ、ヴォックス。」
自分を呼ぶ声は酷くしゃがれている。
ヴォックスはベッドの横のパイプ椅子に座ると、シュウのシワシワになった手をとり優しく握った。
「今日はね、朝にバナナを食べたんだ。」
「昨日の空は、とっても綺麗だっだんだよ」
ぽつりぽつりと話すシュウに、うんうんと頷くヴォックス。
1時間ほど過ごして、退室の時間。
「じゃあ、また明日くるから。」
「うん、待ってるね。」
ちゅ、とキスを一つ。
ヴォックスは少しでも長くシュウと居られるように、唇に想いを込めて。
後ろ髪をひかれながら、病室を後にした。
きっとシュウと過ごせる日もあと数日だろう。
長年生きた鬼の勘、というものだろうか。
ヴォックスが病院を後にすると、受付の看護師がヒソヒソと話している。
「闇ノさんとこ、お孫さんかしら?いつもあの方しか来られないけど・・・他のご親族はいないのかしら」
「こないだ闇ノさんがぼやいてましたけど、理由はわからないけれど親に勘当されてるらしいわよ・・・?」
「あら・・・可哀想に・・・」
最期の日。
シュウの身体からは、天に向かって見えない糸が繋がっていた。
「・・・そろそろだね。もう、会えなくなるねぇ。」
弱々しく笑うその姿に、ハリのあるヴォックスの手がしわしわのシュウの手を握る。
その手が震えているのは、老化したシュウのせいか、それとも。
「──ヴォックス。あのね、ポケットに、僕の思い出を入れたよ。だから、探してほしいんだ。」
「・・・あぁ、わかった。」
「じゃあ。ひとあしお先に、おやすみ。」
「ゆっくりおやすみ、シュウ。」
ゆっくりと目を閉じるシュウ。
その顔は、静かに眠るように、いい夢を見るように、幸せそうな表情をしていた。
ヴォックスはシュウの最期を看取った後、家に帰るといつも着ているジャケットを確認した。
そこには、彼が言うように何かが入っていて。
それを取り出してみると、文庫ほどの大きさのノートだった。
ページを捲ると、それが日記であることがわかる。
シュウが20代の時に書いたと思われる内容だった。
それは、ただの日常の風景や、自分に対する愛情。そして、寿命の不安。
シュウの思いが毎日のように綴られていた。
1冊読み終わると、チラリと部屋を見渡せば昨日まではなかったノートがどんどん見つかる。
本棚やキッチンの棚にまで。
きっと自分が最期を迎えてから現れるように、呪いをかけて隠していたのだろう。
部屋を隅々まで探して、シュウの若い時から、直近に書かれたものまで全て見つけることが出来た。
『僕はヴォックスよりも長く生きることが出来ない。
それはもう運命で決まっている。
だから書き残すことにした。
僕が彼と過ごしたこと。
僕が彼に想ったこと。
僕が死んで灰になって、また彼を一人にさせてしまっても
彼の寂しさが少しでも和らぎますように。
愛してる。』
そう、この日記はシュウの人生の時間をかけたラブレターだった。
彼は人生の全てを、ヴォックスに捧げ尽くしたのだ。
言い争いをした、あの日よりも前から。
彼の覚悟を見に滲みて感じるヴォックス。
「・・・ははっ。」
数百年生きた自分が、あまりにも子供じみていて笑えてくる。
ぺらりともう一ページを捲る。
『君はまた、生まれ変わった僕を見つけないといけない。
僕の名前を呼んでね。
きっと君の声を覚えてかえってくるから。
だから、ちゃんと生きるんだよ。』
最後の日記の文末は、雫に濡れて滲んでいった。