聞こえないふり、もう一度言わせたい 頬を染め「あの、すいません、今の、ちょっと聞こえなくて……」とサテツ君が言う。
おずおずと立てられた指は『もう一回』という催促だろう。
びっくりするほど下手な嘘だ。
にやける顔を引き締めようとしてか、口元をもごもごさせているが全く成功していないし、「すいません」と言いつつもその声は弾んでいる。
どう考えても聞こえていただろう。せめて平静を装って何気なく言う努力ぐらいしろ。まあ、真っ直ぐな君には無理な話か……いや、そうじゃない、そうじゃなくて、
――素直に言えばいいものを。
「……回鍋肉にしよう、と言った」
「え? ホイ……えっ?」
「夕飯の話だ。ああ、中華は嫌か?」
「いや、あの、ちが……あれ? そうじゃなくて、」
「そうじゃない? 何を言ってるんだ」
首を傾げ、意識してゆっくりと口の両端を上げる。きっと今、彼の目にはさぞかし楽しげに笑う俺様が映っているだろう。
「君は、聞こえなかったん、だろう?」
わざと一語一語区切って発音する。
サテツ君は一瞬目を丸くし、「え」とか「あ」とか意味をなさない声を漏らしながら、見る間にしおしおと萎れていく。大きな体がぎゅっと縮まる。もしも彼に犬の耳があったとしたら、ぺたりと伏せていただろう。そのあまりに哀れでいて可愛らしい姿に――気が済んだ。
「……サテツ君」
名を呼ぶと、弾かれたように上がる顔。期待に輝く瞳がこちらを捉える。
「好きだよ」
その視線を真正面から見返し言えば、「俺もです!」と今日一番の笑顔が返ってきた。
◆◇◆ ↓供養・別世界線 ◆◇◆
『すいません、聞こえませんでした』という言葉が耳に届いて、は? この距離でか? なんの冗談だ――そう言おうと息を吸い込み、彼の顔を見上げ、て、飲み込んだ。
こちらの言葉が聞こえていたことを証明するかのように真っ赤な顔。
けれどその口は引き結ばれ、目はパチパチと忙しなく瞬いている。瞳の表面は少しだけ光っているようにも見える。
ああ、なんだ。
こんな言葉一つ、たった一言で、そんな風になるのか?
「……君は可哀想な男だな」
こんな甲斐性のない男に引っかかって。
「おいで」と言えば、彼は少し戸惑ったように一歩、二歩、こちらへ近寄ってくる。両手を伸ばしその林檎のような頬を挟み込み、ぐっ、と引き寄せる。仮面越しだが、正面からその瞳を覗き込む。
「いいか、よく聞け。俺様は、どうでもいい人間を側に置いたりしない……まあ、てっきり君はそんなことわかっていると思っていたが……」
掴んだ頬が強張り、悲しげに眉間に皺がよる。
――待て。最後まで聞け。
「そう思い込んでいたのは、俺様の落ち度だ」
「え?」
「もっと自信を持て。君はこの大天才が、」
――愛した人間だ。
囁き、引き寄せた額に唇を落とす。
今度こそ彼の三白眼からぽろりと涙が溢れた。
「ああ、こら、全く……」
頬から手を離し、頭を抱えるように抱きしめると、彼の逞しい腕が俺様の腰に回される。肩口でずっ、と盛大に鼻を啜り上げる音が上がった。
「ごめ、……さい、俺、嬉しくて……あ! でも、ヨモツザカさんのこと、疑ってた訳じゃ、」
「そんなことわかってる」
彼の言葉を遮るように被せると、回された腕の力がいっそう強くなり、肩に彼の額が押し付けられる。服が湿る感触。普段なら不快に思いそうなその感触は、今日はどこまでも愛おしく感じた。