常闇を恋う【甘くないver.】
深夜、とある野営地。
火の始末をして、シルビアは寝床に潜り込んだ。仲間たちはすでに眠りに就き、辺りは静寂に包まれている。
時折、風に揺れる木々の音に紛れて、どこからか唸り声やら咆哮やらが聞こえてくる。昼とは比べものにならぬほど凶暴な魔物が闊歩する時間だが、声の主らがここに侵入してこないのは、魔を退ける女神像の加護のおかげだ。彼女に守られた中であれば、例え魔物の巣窟内だとしても安心して体を休めることができる。
旅慣れたシルビアは、どんなにおぞましい声が聞こえようと、人が襲われていない限りは気にせず眠れるほどに寝付きが良い。女神像の傍だとなおさら、寝床に入れば数分もしない内に眠りに落ちる。
ところが、今夜はそうもいかなかった。
仰向けになって天幕を見つめ、しばらくすると体の向きを変えて目を閉じる。かと思えば、また仰向けになって天幕を見つめ──を繰り返していた。
明日も続く旅を思えば、一秒でも長く眠り、英気を養う必要があるのは百も承知だ。なのに、どうにも別の方へ意識が向いてしまう。
寝付けない理由は明確。
シルビアの隣、肩が触れるほどの距離に横たわる少年が、呻き声を発するからだ。
その少年こと、イレブンは深手を負っている。
この日の夕方、一行は魔物の群れと遭遇し、戦闘を繰り広げた。
危なげなく敵を掃討していく様は、さすが歴戦の勇者たち。残るは一体、イレブンたちの勝利は揺るぎないものと思われた。
しかし、窮地に追い込まれた魔物がやぶれかぶれになったのか、あるいはイレブンを道連れにしようとしたのか。満身の力を振り絞り、決死の反撃に打って出た。
どんな相手にもまず油断をしないイレブンだが、僅かな隙を突かれたらしい。躱し損ね、不運にも痛恨の一撃を全身で食らってしまったのである。
痛手を受けながらなんとか魔物を仕留めるも、戦いが終わった途端、その場に倒れ込みそうになるのを間一髪でシルビアが抱き留めていた。
幸い、強力な回復魔法の使い手たるロウとセーニャのおかげで傷はすぐに塞がったが、どういうわけか酷い痛みだけは体内に残されたままだった。通常、魔法を使えば痛みも消えるはずなのだが。
ロウ曰く、魔物の恨みが呪いに似たかたちで残ってしまう場合があるそうだ。生への執着が強いほど、それも比例して強くなるのだとか。イレブンが斬ったのもそういう質の魔物だったようで、確かに散り際の断末魔には、耳をつんざく凄まじさがあった。
しかも厄介なことに、この手の類にはロウの《おはらい》や教会で受けられる解呪の儀式も効かないという。それはつまり、イレブンは痛みに苦しまなければならない、という意味も同然であった。
とは言え、魔物は跡形もなく消え去ったし、高い魔力を用いての処置も施している。加えて、数々の困難に打ち勝ってきた勇者の頑丈な体と強靭な精神力。これだけ揃った条件から、ロウは『痛みは続いても、ほんの一晩』との見立てをつけた。
翁の経験則に基づく所見は信頼に値する。胸を撫で下ろす面々であったが、大事をとって今夜は早めに野営を張ることにした。
夕食を取り終えると、シルビアはイレブンを天幕に押し込んだ。気丈に振る舞っていても、やはり顔色の優れない少年を慮ったのだ。
イレブンはその気遣いをありがたく受け取り、横になるとすぐに深い眠りに入った。体が治癒に専念しようとする表れだろう。だが、体内に残る疼きが何らかに刺激されるのか、悲痛な声が外まで漏れる。歯痒くもただ聞くことしか出来ない仲間たちは皆、彼の早急な快復を祈った。
その後もイレブンは、うなされながらも一向に目を覚ます気配を見せなかった。ロウとセーニャは最後の一押しに残り少ない魔力をイレブンに注ぎ、それですっかり力を使い果たすと、それぞれの天幕へと入っていった。
イレブンにはシルビアが付き添うことになっている。なっている、と言うよりシルビアが自らその役目を買って出ていた。仲間たちも『彼になら』と安心して任せられたし、なにより、弱ったイレブンからシルビアを引き離すだなんて無粋をする気などなかった。
(少しは落ち着いたかしら?)
ついに眠るのを諦めて、シルビアはイレブンを見つめていた。
天幕に押し込んだ後に比べて、呻きを発する間隔が長くなってきている。非常時に備えておいたランタンに火を灯すと、顔色も元に戻りつつあるように見えた。
ほっとしたのも束の間、イレブンが眉間にシワを寄せる。まぶた越しに灯りが眩しいらしい。シルビアは『ごめんなさいね』と小さく笑い、火を吹き消した。
天幕内が再び闇に飲まれる。
輪郭しか捉えられなくなった少年の手を握るとあまりに冷たく、シルビアは慌てて自分の方に引き寄せた。包むように背中を抱くと、イレブンは腕の中で穏やかな寝息を立てる。男の体温がよほど心地良いのか、次第に呻き声を上げることもなくなっていった。
起こさないようにそっと、シルビアの唇が少年の額に触れる。そして『早く良くなって』と祈りを込めて《リベホイム》を唱えた。
この年端もいかぬ少年の体のあちこちについた傷痕を、シルビアは知っている。子供時代の古い傷もあるが、ほとんどが過酷な旅の中で創られたものだ。時に仲間を庇うために矢面に立ち、時に身を投げ打って敵に飛び込むイレブンに、シルビアはもちろん、仲間たちも何度血の引く思いをさせられたか。自身が傷付くのを厭わない彼には、いくら心配してもし足りない。いつか手の届かない場所へ行ってしまいそうな不安はいつだって付き纏った。
勇者たる宿命を抱えるイレブンにとって、傷を負うだなんて当たり前のことなのかもしれない。けれど、それを当たり前と受け入れられるほどシルビアは冷血になれないし、なるつもりなんか微塵もなかった。
明日になれば、イレブンはきっと痛みが引いたばかりの体で誰よりも早く敵の前に飛び出し、また新しい傷を創るのだろう。
それならいっそ、夜明けなんて来なくていい。
こうしてずっと、腕の中に閉じ込めておけたなら。
(……なんて、ね)
頭をよぎるたわ言を、首を振って掻き消す。
闇払う勇者を相手に明けない夜を望むとは、なんという皮肉だろうか。陽が昇るのを止められないように、誰もイレブンの歩みを止められないことは分かっているのに。
それでも今夜が、少しでも長く続いてほしい。
この腕にイレブンを留めていられる、今夜だけはせめて──
叶うはずもない願いをまぶたの奥へとしまい込み、シルビアはより近くへとイレブンを抱き寄せた。
【甘いかもしれないver.】
室内がどっぷりと闇に侵食された頃。喉の渇きを覚えて、イレブンは目を覚ました。
どれくらい眠っていたのかは分からないが、窓扉から差し込む明かりを見るに、月はだいぶ高くまで上ったらしい。
起き上がろうにも、逞しい腕に大切な宝物さながらに抱き込まれていて、動くことがままならない。規則正しい呼吸を連ねる“彼“にこうされるのは、イレブンにとっては至福の時。いつもであれば『このままずっと眠っていられたら』なんて考えもするのに、今はとにかく、酷く乾いた喉を潤したい。
かと言って、気持ち良さげな眠りの邪魔をするのも忍びなく、さて困ったと思った途端、自分を包む感覚がふわりと軽くなる。見透かしたようなタイミングに驚き隣を注視してみるが、どうやら体勢を変えただけのよう。ただ、おかげでようやくベッドから下りることができた。
冷たい水をグラスに注いで、一気に飲み干す。勢い余って口の端からこぼれた分が、首を伝って胸元に流れ落ちた。その冷たさに、そういえば身に纏うローブの下が素肌であることを思い出す。そして、乾いた喉の理由も。
渇きが満たされたイレブンに残ったのは、全身に纏わりつく甘やかな倦怠感。愛しい人と久しぶりに過ごした時間の名残である。
いつぶりかに肌を重ねた恋人は、イレブンの体を隅から隅まで、余すところなく慈しんだ。何度も何度もイレブンの名を呼んで愛を囁き、繰り返し頂へと導いた。幾重にも訪れる恍惚の果て、イレブンはとうとう気を失うように眠りに落ちてしまったのだ。
最中は無我夢中であったが、いざこうして思い出すと体の熱が一気に上がる。もはや[[rb:初心> うぶ]]というわけでもないのに、睦みの際に恋人が放つ色香には、いつまで経っても慣れることができなかった。
この火照りは、再度冷水を呷ったところでどうこうなるものでもないだろう。ならば、風に当たって鎮めるしかあるまい。そう思い付いて露台に出ると、青白い月明かりの下、爛々と燃える提灯に目を奪われた。
ここプチャラオ村は、切り立つ岩山の狭間に在る。
岩壁に貼り付くような建築物が山の高さを一層際立たせており、訪れた人々は、まずその風景に圧倒される。プワチャット遺跡を主たる観光資源とし、村内に並ぶのは名所に似つかわしい絢爛な建物。多くは観光客向けの商店であり、店ごとに様々な品を取り揃え、朝から晩まで人で賑わう。さらに、そこかしこに飾られた色鮮やかな提灯が、建物と相まって独特の趣を醸し出している。
今でこそ平和に見えるこの村も、かつては魔物に脅かされたことがある。それも一度きりではない。しかし、何度困難に見舞われようと、村人たちは一丸となって再起を図ってきた。
イレブンはそんな強かなプチャラオ村が好きだった。
彼は今夜、その村で宿を取っている。しかも、一般客室を有する本館の奥、岩壁に程近い離れに。
本館よりも高い位置に造られた離れは、露台からの眺めが素晴らしく、村の広場を一望できる。それでいて喧騒からは離れられるものだから、何にも邪魔されず、ゆっくりと非日常に浸れるというわけだ。
ここへの宿泊は、恋人たっての希望によるものだった。
提灯から目線を外し、広場へと移す。
真夜中とあって人はまばら。一日のほとんどが賑々しいプチャラオに、ほんの数時間だけ与えられた静寂。
昼とは違った幻想的な雰囲気に、イレブンはすっかり魅入られてしまう。何をするでもなく、ただただうっとりと景色を眺めていた。
不意に、柔らかな風に頬を撫でられる。同時に背後へと現れた気配に、ここにいたの、と声をかけられて飛び上がった。
振り向くと、男が戸にもたれかかっている。
「シルビアさん! 起こしちゃった?」
「気が付いたら、イレブンちゃんがいないんだもの。寂しくって探してたのよ」
シルビアはわざとらしく目元を拭い、泣き真似をして見せた。
このシルビアこそ、イレブンを惹きつけて止まない恋人である。
緩く束ねた髪と、寝起きのせいで若干着崩れたローブ。職業柄、いつでも人に見られることを意識した隙のない彼とかけ離れた無防備さは、イレブンの前でしか晒されないものだ。
ところが、このような姿にありながらも、持ち前の美しさは少しも損なわれない。黒い髪は空を染め上げる夜色にも決して見劣りしないし、着崩れたローブは、むしろ元々の色気を増大させている。
「何をしていたの?」
シルビアが問う。
イレブンは喉が渇いて起き出した後、目が冴えてしまったから風に当たっていたのだと答えた。本当のことを言うのが憚られて、咄嗟に誤魔化しながら。
そうだったの、とシルビアが少年の腰を抱いて、二人一緒に村を眺める。イレブンには一人で眺めていた時より、ずっと綺麗に見える気がした。シルビアは、この村を好きにさせた大きな一因でもある。
「ところで、イレブンちゃん。置いてけぼりにしたアタシに、何か言うことは?」
景色を見ながらぽつりぽつりと言葉を交わしたところで、シルビアが唐突に切り出した。
ベッドを抜け出たのを咎めているようだが、彼はそんなことで怒ったりはしない。責める風でもない声音に、イレブンはピンときた。
こんな時、少年が『ごめん』と謝れば、男は許す代わりにと口づけをねだる。愛情表現の慎ましいイレブンから行動を引き出すための常套手段で、つまり、おふざけというやつだ。
普段なら控えめながらに精一杯応じるイレブンでも、この日ばかりは抵抗があった。なにしろ露台に出てきた事情が事情である。
ここで口づけなんてしようものなら、せっかく鎮まりかけた熱が、またもや上がってしまうのは分かりきっている。それを悟られたら、と思うとどうにも恥ずかしく、つい俯いて『ごめんね』と呟くだけでやっとだった。
いつもと違うイレブンの様子をシルビアは不思議に思う。が、洞察力に長けた男は、すぐに隠し事を見抜いてしまった。イレブンは表情や感情表現に乏しいようでいて、実は嘘が下手な分、態度に出やすいらしい。
行燈に照らされて、髪の隙間から赤く染まった耳がよく見える。シルビアと重ねる自分の手が、とっくに熱くなっているのにも気付いていないのだろう。色々教え込んだとて、シルビアにとってはまだまだ初々しくて可愛い恋人。その彼が熱を持て余しているのだから、黙って見過ごせるはずがなかった。
「イレブンちゃん」
呼びかけて、上がった顔の唇を塞ぐ。もちろん、逃げられないようにしっかりと抱き締めて。
若干の強引さに体を強張らせたイレブンだが、すぐに観念して大人しく男の舌を受け入れる。どれだけ抗おうと結局シルビアに負かされてしまうことは、これまでの経験から十分すぎるほど思い知っているのだ。
こうなれば、シルビアの独壇場。口内をたっぷりと舐り、唾液の絡む音を殊更に立てる。口辺だけでなく、聴覚をも可愛がるような深い深い口づけを捧げた。
やがて執拗なまでの愛撫から解放すると、見事に蕩かされたイレブンが目の前に現れる。上気した頬と潤む眼で見上げてくる少年の愛らしさといったら何物にも形容しがたく、シルビアは思わず喉を鳴らす。
「誰かに見られちゃうよ……」
周りに人がいないのは心得ているくせに、震えながら言われてはもう堪らない。煽られた気がして、奥底に潜む悪戯心が顔を出す。
見られたっていいじゃない、と再び唇を落とそうとするが、そっと胸を押し返された。ここにきて待ったをかけられるとは、完全なる想定外。動揺でたじろぐ男の耳に、イレブンが口を寄せる。
あの、ね──
熱い吐息とともに耳をくすぐる声に、シルビアは脳天を撃ち抜かれた。
発せられたのは、今までに一度も聞くことの叶わなかった大胆な願い。『それなら今すぐにでも』と駆り立てられるが、イレブンのとびきり可愛い姿だけは、誰の目にも触れさせるわけにはいかない。
「仰せのままに」
あえて恭しい返事をしたのは、はち切れんばかりの喜びを抑え込むため。
シルビアはイレブンを抱え上げて寝所へと向かう。大した距離もないのに、歩きながら何度も口づけを浴びせ、ベッドに着くなり少年のローブを剥ぎ取って全身を貪った。
間もなくイレブンは、熱い猛りに全て溶かされていくだろう。
けれど、それを願ったのは彼である。燻る火を再燃させたのはシルビアだが、こんなにも熾烈なものにしたのは、紛れもなくイレブン自身なのだ。
らしくない振る舞いは、異国情緒溢れる夜が見せる夢なのかもしれない。だとしたなら、たまにはこんな夜も悪くない、とイレブンは思った。
そして、この夢が醒めてしまうのなら朝なんて来なくてもいい、とさえ。
脳裏を掠める『勇者失格』の言葉を焼き尽くすように、恋人たちはさらに熱を帯びる。
それは、夜通し燃ゆる提灯の如く。