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黄昏時のギムレット
「こちらで飲みませんか」
クラッシックの切れ間を縫って低い声がバーテンダーの耳に届く。いつもの店内、いつもの賑わい、いつもの客そして——
「珍しいお誘いですね、七海サン」
いつものヤクザ。
店を開けてから少し。客が埋まりきらない頃に現れたこの男は、いつも通りカウンターのよく見える一角に居座ってグラスを傾けていた。特に変わった様子もなく、黙ってこちらを見据える視線もいつも通り鋭いものだったのだが——どういう風の吹き回しなのか。
「たまには横顔でも眺めて飲もうかと」
「それは光栄ですこと」
隣にかわいい笑顔がない分、七海がまとっている空気は張り詰めている。そんな男の隣に座るなんて真似ができるわけもなく、一瞥をくれてやるだけに留めておいた。ただの気まぐれだったのか、七海は小さく口角を上げるとそれ以上口を開くことなくウイスキーを傾ける。
そんな姿を尻目に、ボックス席へとカクテルを届けに向かう。戻ったら、出しっぱなしにしていた瓶たちを片付けて次のオーダーに備える。
だけどふと“気まぐれ”で、手に取ったライムジュースとジンをシェイクした。
「一杯だけならお付き合いしますよ」
なんて、カウンターから七海の手元にグラスを差し出した。
「珍しいですね」
ロックグラスでそれに応えた七海の指が、ナッツを弄ぶ。そっくりそのままセリフをお返ししたら、グラスの奥で薄い唇が微笑んだ気がした。
そんな七海の様子を気にしつつ、こちらもグラスを傾ける。レシピとは逆の割合で作った“ジュースカクテル”は思いの外酸味が強すぎて、慌ててシロップを追加した。
「随分変わったギムレットですね」
「……分かりますか。流石、酒飲みさんですね」
賑わう店内でも、七海の声はよく通る。タイミングを読んでいるのか、こちらが彼の一挙一動に警戒しているからなのか……どちらとも言える気がした。
バーテンダーの揶揄を流して、七海は最後のひと雫を飲み干す。グラスを揺らしてアイスを小さく転がしたら——次のオーダーの合図だ。
こんな小さな仕草一つで分かってしまうほど、この男が常連になったことを嘆くべきか憂うべきなのか……少し考えてみて、すぐに止める。考えても仕方がないことは最初からしない方がいい。
「次は私もそれを。もちろん、“酒飲み”用にライムジュースは少なめでお願いします」
「ええ、そーでしょーね」
含みのあるオーダーに口元を引き攣らせながら、今度はレシピ通りに——ジンは少しだけ多く注いでシェイクする。このカクテルを考案した軍医が聞いたら怒りそうな割合ではあるけど、“酒飲み”にはこうしないとキレを感じてもらえないのだ。
「——今日は、なにか特別な日とかでしたか」
見送る直前、コートを羽織る背中に声をかけたのは、ほとんど気まぐれだった。
「そう見えますか?」
「ギムレットなんて、珍しいでしょう」
最初のマティーニ以来、この男はいつもストレートやロックといった“酒飲み”らしいグラスばかりを傾けていた。選ばれたのが名台詞とともに有名になったカクテルということもあって、傾ける姿はどこか憂いを帯びているようにも見えたのだ。
常連の中には、思い出と共にカクテルを味わいに来る者もいる。この男にもそんな思いを馳せる日々があるのだと、なんとなくそう感じたのだ。
そんな視線に気づいたのか、振り向いた七海は口角をあげると大袈裟に肩をすくめて見せた。
「“酒飲み”が選ぶカクテルに意味なんてありませんよ。意外とロマンチック思考なんですね」
「ご期待に添えずすみませんねぇ。こちらはそーゆー演出も仕事のうちなんですよ」
不快を隠しもせずに吐き捨て、少々乱暴にドアベルを鳴らす。この“酒飲み”に憂いの影を感じてしまったことを、心底後悔した。
そんな横顔を七海は愉快そうに見下ろしていたが、喧騒に戻る直前、ふと口を開く。遠くを見つめる瞳の奥に、懐かしい笑顔が浮かんだ。なにも、“そういった日々”がないという訳ではないのだ。
「しかし、私たちには“まだ早い”話でしょう」
二人で過去を語り合うには、時間もなにも足りなさすぎる。
「——あら、あなたは随分キザったらしいですこと」
黄金色に染まる街並みと、有名な一節。横顔に揶揄を返してやれば、サングラス越しの瞳が微笑んだ気がした。
終わり
ギムレット 遠い人を思う
レイモンド・チャンドラー著「長いお別れ(The Long Goodbye)」