楽の日記 3日目 土埃立ち込める街道をひたすら駆け、東土の外れの小さな村に着いた。村の人は慣れた様子でくたびれた宿舎に案内してくれる。廃屋のような外観に比べると、中は手入れが行き届いていて小綺麗だった。壁際に並べられた靴やらいつでも書き物を始められるよう整えられた文机。古い宿帳が収められた書棚。初めて訪れた場所とはいっても、そこかしこに先輩たちの痕跡があって心の底から落ち着いた。
まずは下履きの中まで入り込んだ土埃を流す。1日駆けて火照った体には井戸水の冷たさが気持ちよくて、でも目が冴えてしまい、これはすぐには眠れないなと思った。すでに薄暗くなった空には優しい月明かり。月は睿様で星は先輩たち。夜空を見ればいつでも今いる場所とこれから向かう方角を示してくれる。そう明兄さんが教えてくれたっけ。
行水を終えてもすぐに宿舎に入ってしまうのが惜しくて、そんな空を眺めながら村の人が分けてくれた汁物をすする。薄味でやたら豆ばかりのそれはまだ少し温かくてありがたかった。これに音兄さんの饅頭があればよかったのに。みんなで美味しくないと文句を言いながら食べた饅頭は何より美味しかった。美味しくないと言われても音兄さんは嬉しそうで、僕たちもそれが嬉しかった。
月明かりの下、宿帳を開き、馬鹿の一つ覚えのように『楽は無事に西火へ向かっております』と記す。西火に着くまで毎日書くつもりだった。
書き終わると今度は宿帳をめくる。残念ながら今日は僕宛てらしき伝言はなさそうだ。
『北水から支給される靴はすぐ傷むのでこの先支度は万全に』
『関所の庭の桔梗が見頃』
『山道不通のため迂回せよ』
見た通りの文面かもしれないけれど、もしかしたら必要な相手にだけ伝わる特別な暗号なのかもしれなかった。僕宛てではないにしても。とにかくすぐそばに先輩たちの存在を感じるだけで心が休まる。会ったことのある先輩か、これから出会うかもしれない先輩か。そう考えるとわずかながら心が躍った。僕もいつか弟妹たちに何か残せる兄になりたい。
宿舎を巡っていればそのうち先輩たちと鉢合わせることもあるかと期待して、僕は明日も西火を目指す。まずは関所だ。関所に行けば颯がいる。颯に会える。僕が訪ねたらきっと喜んでくれるはず。
宿帳に目を通した。
馬にも水と餌をやり休ませた。
靴も脱いで手入れを済ませた。
明日の行程も確認した。
やるべきことを順序よく済ませると、それだけで一人前になった気分になる。それはそれで気分はよかったけれど、困ったことにやっぱりまだ一人の夜には慣れそうもない。