楽の日記 6日目/颯の闇 私には自信があった。
馬術も武術も読み書きも全てにおいて同期たちより卒なくこなせ何でも一番である自信。睿様や先輩方もそのように認めて下さるし、兄弟姉妹たちからは羨望の眼差しを向けられる。いつからなのか。その心地よさに慣れてしまっていたといえば否定できない。だが当然だと思った。事実私は優秀だ。否定できる者がいるか?
しかし物心ついた頃から私の隣にいた楽は全くの正反対だった。体も小さくて自分たちより少し幼く見えた楽は何をやっても上手くできない。いつも私の後にぴったりとくっついて離れず、何をやるにも見よう見まねで私に食いついてきた。そして人よりずっと遅れて出来た時覚えた時、彼はまず私に報告をしてきたのだ。満面の笑みで。最初は鬱陶しかった。私まで不出来に見えるのではと思った。しかしそれが私の引き立て役になると気付いた時、初めて兄弟弟子としての愛情が沸いた。だからそう割り切ってからは楽の隣はとても居心地が良かった。優越感からだとわかっている。私はなんと狡い男なんだろう。
そう。私は楽には不満がなかった。
皆にとって私は何でもできて当たり前のつまらない子供だったろう。実際この年で期待されているであろう以上にできていたし、常に弟妹たちの手本であろうと心を砕いてもきた。だがいつからか幼い頃のように称賛の言葉をかけられることが減り、反面楽は良くできた頑張ったといつでも誰からも声をかけられ続けた。
なぜ?
楽のことは大好きだった。しかしどす黒い感情が時に邪魔をし憎たらしく思えることが増えた。私はそんな感情を楽にだけは向けたくなかった。
目敏い先輩方は何も言わずともそれを察していよう気配があり、睿様に至ってはもう完全に私の気持ちを見透かしているように思えた。
少し早いが……そう前置きし、睿様は私に独り立ちしてはどうかと告げた。南風、北水、西火。どこでも上手くやれるだろうと。
まだ先だと思っていた配属の話。私のためだとは思えなかった。程よく厄介払いしたいのだろうとすぐに理解した。おそらくは楽のために。
どうせ厄介払いをされるのならと。
ふと北水の朱様の顔が浮かんだ。朱様は東土へ来るたびに私を呼び出しお褒めの言葉をかけて下さる。それがお世辞などではなく、私の能力を私自身を評価したゆえのものだとすれば。それならば。そんなお方の元に配属されるのが私のためになると思った。
叶うのならば北水に。私はそう懇願した。
睿様は小さな溜息をつくと、望むのならばそうしようと言った。溜息の意味は分からなかったが、それでも初めての配属で希望が通るなど聞いたことがない。それほどまでに追い出したかったのかと思うと悔しさが溢れてきた。膝の上で掌が白くなるほど、爪が食い込むほどに強く握りしめ、その悔しさを必死に押し殺した。悟られぬように。
「身に余る待遇に感謝致します」
こんな時でさえ、私の口からは優等生のような返事が滑り落ちてくるのか。
慈愛に満ちた睿様の目を心から嫌悪した。
そして貴方に認めてもらえない自分を心から憎んだ。私には何が足りないというのか。あるいは何か多すぎるのか。
配属が決まった報告をすると同期たちは我がことのように喜び私の肩を抱き背中を叩き頭を撫でた。楽もそうだ。
楽。君は私と離れてもやっていけるのか?寂しくはないのか?君まで私を必要としてくれないのか?
「おい颯。泣くことはないだろう」
同期の一人が私の頬をぺちりと摩った。言われて初めて私は気付く。目から一筋の、大粒の涙が溢れ出ていたことを。
「嬉し泣きか」
「さては俺たちと別れるのか寂しいんだろう」
皆好きなことを言いながら、それでも寄り添ってくれていた。嬉し泣きでも寂しさからくる涙でもないことは私自身がよくわかっている。これは決して皆に讃えられるような美しい涙ではない。
「そうだね。嬉しいのと寂しいのと半々かな。泣いちゃうなんて恥ずかしいよ」
私には本音を告げる勇気もなく、ただ当たり障りなく答えるしかなかった。本当の私を覆い隠し、皆の理想の颯を演じることには慣れている。皆の思う颯とは、穏やかで人当たりよく控えめな少年、だろう。そう思われるようにしてきたのだから。
「こんなに早い独り立ちなんてすごいじゃないか。颯は私たちの誇りだ」
10年共に過ごした仲間たちに涙が伝染する。予想外に早い別離を思っての、私のそれとは全く異なる美しい涙と鼻をすする音。
僅かに視線を動かして楽を探す。仲間たちに埋もれて姿が見えない小さな楽。しかし先ほどから私の袖を掴んで離さない小さな手はきっと楽だろうと思った。その手を離す時が来たんだと私は彼に教えるべきだ。私たちに用意された道は正反対のものであると。決して交わらない道を歩むのだと。
そして旅立ちの日。
独り立ちは文字通り一人で配属地に向かうのが初任務のはずだと誰もが知っていたが、私には北水の世話役である朱様自らの迎えがあった。どういう意味なのか未熟な私には理解できない。音兄様が君は期待されているのだろうと言ってくれ、私はそれを信じることにした。朱様はしばらく睿様と話し込んでいたが、私の目には少々揉めているようにも見えた。
それでもだ。
別れ際の、睿様の言葉は優しかった。小さい頃から見続けていた穏やかな笑み。
「体に気をつけて励みなさい。無理はしないように」
睿様はそう言うと独り立ちの祝いの品を私の手に握らせた。私の名前を睿様自ら彫って下さった筆。文使たちは皆この筆をいただくのを楽しみにしている。それは私も例外ではない。少しだけ認められたような気持ちになって胸があたたかくなるのを感じた。
「颯!これは僕たちから!」
ぱんぱんに膨らんだ群青色の小さな袋を楽が押しつけてきた。楽の横には莉。彼女がこの袋を縫ってくれたのだろうとすぐにわかった。これから私が向かう北水の制服と同じ群青色に、彼女の髪紐と同じ赤の縛り紐。涙を堪えるようにきゅっと結ばれた口もとはいつものように開く気配はなさそうだが、それでもその表情だけで別れを惜しんでくれているのだとわかる。何も言ってはくれない彼女を少しだけ残念に思った。
「開けて!颯!開けてみて!」
たくさんの期待の眼差しがこちらに向いていて、私は莉から意識を離した。皆に促されるまま袋を開けて覗くと、そこには氷糖が入っていた。
「こんなにたくさん?」
と、私が驚いた顔をして見せると皆は誇らしげな笑顔を浮かべた。
「この間明兄さんにもらったやつを食べないでとっておいたんだ。寂しくなったら食べて」
「疲れた時でも」
「任務中にお腹が空いた時でも」
「ありがとう。みんなも氷糖は大好きなのに。嬉しいよ。大事に食べる」
皆がこそこそ氷糖を隠していたのは知ってはいたし、おそらくはと想像はついていた。私の好物だし嬉しくはあっても驚きはなかった。むしろこんな別れ際にまで冷めた頭の自分自身を呪いたいくらいだ。
私の世界がこれから変わるのだという期待は全ての不安に勝る。誰に比べられるでもない私だけの世界。私だけの景色。私だけの居場所。
もう会うこともないだろう仲間たち。
もう訪れることもないだろう東土の宿舎。
私は決心がついた。朱様の元へ行くと。二度と戻りたくもない大嫌いな東土に、私は別れを告げた。
私を東土から連れ出して下さった朱様に心から感謝している。そう。その時はまだ本当に感謝していたのだ私は……
朱様が数年に渡りかけ続けて下さったお褒めの言葉ひとつひとつの重みを私は理解していなかった。関所に着いて初めての任務を言い渡された時、立つべき大地が音を立てて崩れ落ちた。恐ろしさに吐き気がした。
氷糖をひとつ口に放り込み、私は朝まで泣いた。
楽に会いたい。
莉に会いたい。
私は誰より愚かだったとこの時初めて思い知らされた。