楽の日記 7日目 睿様の夢が現実のように付き纏う一日だった。あれはただの夢だったのか。あるいは本当にあったことなのか。心配して声をかけてくる颯にも、たぶんまともに返事ができなかったかもしれない。うわの空だった。まだ何日かしか経っていないのに僕は東土が恋しくなってしまったのかな。子供みたいだ。
颯と二人ひたすら駆け、時々休憩のために馬を降りる。辺りを見渡せる小高い丘の上。小川のせせらぎの心地良い森林。颯は毎回眺めのいい場所を休む所に選んだ。野宿も二日続いたけれど、必要なものはたいてい用意されている。小腹が空けば菓子を、汗をかけば香を焚き込めた手拭いを、夜になれば干し肉と干し果物を、寝る前は風よけの外套を。とにかく颯は僕の世話を焼いた。僕はそんなに頼りないんだろうか。でもそのいつも通りの世話焼きが心地良くて、思えば僕は小さい頃に出会ってからずっと颯に甘えっぱなしだ。もしかしたら年寄りになって文使を引退しても颯は僕の世話を焼き続けるかもしれない。そんなことを考えながらの道中はとにかく楽しかったけれど、それも今日で終わる。今日はいよいよ西火に入る。
「もうすぐお別れだよ楽。私は西火には行けないんだ」
どうして?と聞こうとすると、僕がそう言う前に颯が言葉を続ける。
「実はね。楽に会いたくてこっそり出てきたから。西火に寄ったら何をしていたかばれちゃうんだ。ごめんね」
思わず落胆のため息が漏れる。北水の関所から西火までの道のりを颯と過ごせたのは本当ならあり得ないことだ。運が良かったんだ。でも。
「叱られたりしない?」
北水の朱様は厳しい人だと聞いたことがある。遠目からしか見たことはなかったけれど、いつも周囲を見張るような鋭い眼光が僕は苦手だ。
「あはは。心配してくれるの?大丈夫だよ。朱様も関所の先輩方もお優しい方ばかりだし、今はちょうど任務もなかったから」
関所について学んだ記憶はあったけれど、そこで文使がする仕事については僕はよく覚えていない。出入りする人の管理をしているんだったかな。それなら人当たりのいい颯にはぴったりだなと思った。颯を嫌いになる奴なんてきっといないだろうから。
「楽。西火は異国からの出入りも多いし東土みたいに文使がたくさんいるらしいから賑やかだよ。知ってる先輩たちもたくさんいるはずだし、大丈夫、今までみたいに可愛がってもらえるよ。だからきっと寂しくない」
関所での颯のことを考えていた僕が、もしかしたら西火への配属を不安に思っているように見えたのかもしれない。颯は励ましの言葉をかけながら何度も大丈夫だよと繰り返した。それに少し違和感を感じる。世話焼きではあったけれど、颯はそんなに心配性なんかじゃなかったはず。
「時々手紙をちょうだい。私も出すから」
「もちろん。時々じゃなくてたくさん出すよ」
「楽しみにしてる。何でも聞かせて。聞いたら私も安心すると思う」
あぁそうか。颯は僕を大丈夫だと励ましているんじゃない。これは自分に言い聞かせているんだ。僕が大丈夫だと。自分も大丈夫だと。
その後またひたすら街道を走ると北水と西火の境、西火の関所が見えてきた。
向かう西の空が赤く染まっている。僕は日暮れ前に関所に到着できたことに安堵した。
「私はここまでかな」
突然馬の足を緩め、颯はこちらを振り返る。僕の安堵と対照的な、どこか掴みどころのない表情でこちらを見ていた。
「ありがとう颯。久しぶりに一緒にいられて嬉しかったよ」
悲しい別れにはしたくなくて、僕はできる限りの明るい声でそう言った。でも颯はやっぱり掴みどころのない表情のままだ。寂しいのかとも思ったけれど、そんなわかりやすい表情でもない。
「次はいつ会えるかな。北水行きの任務があたるといいな」
お互い笑顔で別れたかった。またすぐに会えるという希望に満ちた別れがいい。颯もそう思っているはずだとなぜか僕は思い込んでいた。
「だめ!」
まったくの予想外な荒げた返事に、驚きのあまり体がびくりと反応してしまう。
「……あ。しばらくは西火の内務だと思うから……」
しまったとばかり気まずそうな様子で、颯は慌てて取り繕った。小さく首を傾げるとごめんと謝られる。どうしたの、と続けたいはずの言葉がなぜか口から出てこない。
「ねぇ楽」
僕をじっと見つめる颯。
「うん?」
「私を信じている?」
まっすぐこちらを見ている颯の目に僕の頼りない姿があった。僕の目にも颯の姿が写っているんだろうか。
「どうしてそんなこと聞くの?」
信じているよと言うのは簡単だったし、もちろん信じてもいる。わざわざ聞かなくてもお互いそうだと思っていた。でも改めてそう問われた理由が気になった。
「約束してくれる?東土には戻らないで」
答えにならない返事。颯は僕が西火でやっていけずに東土へ逃げ帰る心配をしているんだろうか。さすがにそれは心配しすぎだ。
「僕はそんなに頼りない?」
たぶん僕はちょっとだけ、口を尖らせて拗ねた顔になっていたと思う。僕の考えていることかわかったのか、この時ようやく颯の表情が和らいだ。
「ごめんね。そうじゃないんだ。でもお願いだから。私を信じていて。何があっても」
なんて答えていいかわからなかった僕はただ頷くしかなくて、二度三度と大きく頭を縦に振った。それを見た颯はようやくいつもの優しい顔でにこりと微笑んでくれて僕はほっとする。そしてどちらかともなく馬を降りた。
「そうだ」
何日か前に川からの山の景色を描いた紙を取り出すと、僕はそれを颯に押し付けるように手渡した。恥ずかしいくらいに下手な絵だったけれど、川辺には釣りをする僕と颯を描き加えてある。お礼にもなりはしない代物。
「これもらって。颯に会う前に描いたやつなんだ」
その絵を広げると颯はぷっと吹き出し、でもとても嬉しそうな顔で優しくその絵を撫でた。
「見るたびに楽を思い出せそうだよ」
「ずっと一緒だったんた。思い出さないほうが無理」
すると颯は自分の体中を弄り、何かを探すような素振りを見せた。そして何も見つからないと馬にくくり付けてあった袋をがさがさと漁る。
「私は気が利かないな。思い出になるような品を持ってこないなんて」
「そんなものいらないよ。ここまで着いてきてくれた」
控えめに両手を広げた颯と、僕は別れの抱擁を交わす。力強くはなかったけれど、お互いの慣れた体温を感じながらただ無言で抱き合った。名残を惜しみ、思い出にしがみつくように。
「元気で」
「颯もね」
そうだ。僕たちはこれからは東土の兄弟じゃない。北水の颯と西火の楽になる。
その後西火の関所に着くと、寂しい気持ちを忘れてしまうような歓待を受けた。配属先から先輩が迎えに来てくれていたからだ。一人で偉かったなと頭を撫でられ、僕ははいと答えた。さっきまで颯と一緒だったことは言わない。二人で過ごした二日間、これが颯が僕にくれた大事な思い出の品だと思ったから。
西火。僕の新しい居場所。僕の新しい人生がこれから始まる。