楽の日記 5日目 昨日は颯と一晩焚き火を囲んでの野宿になった。
別れてからの半年のことをお互いあれも伝えたいこれも伝えたいと、気付けばあっという間に朝方。颯は睿様のことをとても気にかけているらしく、僕は止むことのない質問攻めに次々答えていた。きっと睿様のことが大好きで尊敬しているんだろうなとわかった。僕と同じだ。
東の空がだんだんと明るくなってきた頃、目に染みるようなその朝焼けに忘れていた眠気が僕を襲った。大きな欠伸と共に颯を見るとはっとした顔をする。
「ごめん楽。まだ先が長いのに。少し眠らないとだめだね」
「一日くらい寝なくても平気」
「だめだよ。少しだけでいいから横になって。見張りは私が」
早く早くと促され、それならと颯の隣で横になった。
「おやすみ」
パチパチという焚き火の音と微かな風の音だけが耳をかすめる静寂に、僕はあっという間に眠りに落ちた。
夢を見た。
まだ幼い僕が、理由はわからないけどとにかく悲しくて涙も鼻水もだらだらとただ泣きじゃくっている夢。困ったような顔をした夜番の先輩方が声をかけたり撫でたり抱き上げたりして必死に宥めようとする。でも涙は止まらない。なんて聞き分けのないガキなのかと自分にがっかりする。
そこに泣き声を聞きつけたらしい睿様が来る。今より少し若い。睿様は何も言わず先輩の一人に布を渡すとそっと僕の頭をひと撫でし抱き上げ背負った。すると先輩が渡された布で手際良く僕を睿様の背中にくくりつけた。まだ泣き止まない僕。隅の方に颯がいる。心配そうにこちらを見ていた。そういえばいつもあんな目をして何か言いたげに僕を見守っていたな颯は。
「休みなさい」
睿様は颯にそう声をかけると音もなく静かにその部屋を出る。夜番の先輩が颯の手を引いて寝床へ連れて行くのが見えた。
睿様はまだぐずぐずと泣き止まない僕の尻あたりをとんとんと優しくあやしながら、ただ黙って中庭を歩いてくれた。睿様の背中のあたたかさと風が頬を撫でる心地よさを感じながら、幼い僕は次第に落ち着いてきたみたいだった。
「がくはどうしてなくのですか?」
落ち着いたところでの第一声。我ながらバカみたいな質問をしている。
「悲しいことがあったのかな」
「わかりません。でもなみだがでてしまうの……です……」
語尾が尻すぼみにまた涙声になってくる。お願いだから睿様を困らせないでと強く思いながら拳を握りしめた。いや。これは夢でここに実体はないだろうから握りしめたつもりなだけだけれど。
「楽の心はきっと人より大きくて人よりたくさんの気持ちをしまい込んでるんだろう」
「がくはいちばんちいさいですよ」
睿様はははっと小さな声を出して笑った。
「そうだな。楽は小さいな。小さいのにみんなと同じように頑張れているから偉いぞ。でも心の大きさは体の大きさとは違うから、もしかしたら一番大きいのかもしれないな」
「がくはちいさくないのですか?」
僕のバカみたいな質問はまだまだ続きそうだ。
「体だってこれからどんどん大きくなるぞ。たくさん食べて学んでいたらすぐだ」
この頃の僕はみんなから小さい小さいと揶揄われていて気にしていたのを思い出した。だからこの幼い僕は睿様からこれから大きくなると言われて少し気をよくした。あまり期待するなよ。たいして大きくなってないぞ僕は。
「こころにたくさんのきもちがあるとないてしまう?」
「たくさんあると心も疲れてしまうんだよ」
「でもこころとはなんだかがくにはよくわかりません」
「胸の中にあるから目には見えないが、嬉しいでも楽しいでも悲しいでも悔しいでも自分の気持ちを入れておく宝箱みたいなものだよ。好きな時に入れたり出したりできるんだ」
「わぁ」
さっきまで泣いていたとは思えないほど、幼い僕は満面の笑みで感嘆の声を上げた。そして何を思ったのか短い両腕を伸ばし、睿様の首あたりにぎゅうと抱きつき背中に頬を擦り寄せた。赤ん坊みたいなその仕草に我ながら恥ずかしくもなり、だけどとても羨ましくなった。
「明日は楽に日記の書き方を教えてあげよう」
「にっきとはなんですか?」
「その日あったこと見たこと聞いたこと思ったこと。失くしたくない気持ちや心に入りきらない気持ちを書くことだよ」
「めいにいさんがくれたおかしがおいしかったこともかいていいのですか?」
「もちろん。美味い菓子のことは特に大事なことだ」
「えいさまのこともかいていい?」
「私のこともか?それは嬉しいな」
そして僕は思い出した。初めて日記を書いた日のことを。睿様が僕に筆を握らせ、一文字一文字根気よく一緒に書いてくれたことを。胸が熱くなり視界が揺らめく。涙のせいか、あるいは目を覚ましかけているのか……
「ねぇえいさま。こころがないひともいるの?」
涙も引っ込んで調子に乗った幼い僕に、僕自身はらはらしてしまう。本当ならもっと睿様が喜んでくれるような言葉をかけたいのに。止めようがないもどかしさ。
「なぜそう思うのかな」
「きょうきていたひとのことをにいさんたちがいっていました。こころがないからひどいことをすると」
無邪気にそう言った僕の言葉に睿様の歩みが止まり、軽く後ろを、僕のほうを振り向いた。その表情は空気も凍りつくような見たこともない怖い顔に思えた。
「みんな心はあるものだよ」
次の瞬間。
そう答えた睿様はもういつもの穏やかな睿様の表情に戻っていた。あの怖い顔は見間違いだったのかも。あんなに怖い顔をしている睿様を見たことがなかった。そうだ。たぶん影が差してそう見えただけ。
揺らめく視界はますますぼやけ出しいよいよ何も写さずに真っ暗になった。睿様はまだ幼い僕に話しかけてくれていたけれど、視界と共にその声もだんだんと小さくなり遠くなっていく。
らしくない怖い顔の睿様だけが目に焼き付いて離れない。目が覚めるならそれを夢の中に置いていかせて……
そして夢は終わる。戻らない時間のように。