音の覚書このところ睿様がどうにもよそよそしく、何か隠し事でもあるのかと不安になることがある。
しかしながら。世話役が下の者に全てを話す義務も義理もない。本来こちらがいちいち気にかける必要もないことだ。だが、そうとわかってはいても不安になるのは側で仕えているからこそのものだと直感が告げる。尋ねるべきか。気付かぬふりを続けるべきか。その僅かな戸惑いさえ睿様に気付かれていようものだが、お互いあえて普段通りを装う。
そんな他人行儀を平静で覆い隠したままの日々を過ごすのにももう慣れたものだ。
その日は楽が西火へと旅立つ日であった。早朝から用意しておいた饅頭を紙で包み、小さかった頃の楽を思い出す。文使の弟子入りは5歳からだが、おそらく楽は3歳かそこらだったのではないか。先輩がどこからともなく連れてきた当時の楽は体も小さかったが言葉もまだたどたどしく、とにかく手がかかる子ではあった。しかし愛らしい顔立ちが幸いしたのか兄姉弟子たちがこぞって世話を焼き、常に誰かしらに手を引かれて過ごしていたものだ。ここへ来る前のことを思い出すのか夜中にわんわんと泣き出すこともあった。そんな時は夜番の先輩に抱かれてあやされていたり、時に睿様に泣き疲れるまで背負われていたりもした。そんな楽を遠目で眺めながら、私も背負う時がきたら子守唄でも歌って庭を歩いてやろうと思っていた。だがそんな日はこないまま楽はどんどん成長していった。他の子供たちと同じように。時は待ってはくれないものだ。
弟妹たちを見ると自分たちのことを思い出す。寂しかったこと。辛い時もあったこと。同じ目線を持つ仲間たちとの楽しく有意義な時間のこと。そして先輩たちの掌のあたたかかったこと。それがあるからこそ自分たちは次々にやってくる幼い弟妹たちを愛おしく思えるのだろう。
感慨深い。
そういえば。
睿様がよそよそしい。そう感じたのは一年ほど前からか。文使を引退した年配の先輩方がやたらと睿様を訪ねてくるようになった。秘密裏にというでもなく、昔を懐かしむように実にお気楽に訪ねてきたように見えた。睿様と敷地内を歩きながら年若い後輩や幼い子弟たちにも気軽に声をかけ、庭で茶を飲みながら団欒している。その姿には特に何も怪しいことなどなかった。初めのうちは。
しかしそれもあまりに頻繁だと何かあるのではと疑ってしまう。
疑うきっかけは。そうだ。訪ねてきた先輩方が幼い子弟を一人二人と連れ帰っていると気付いた時だ。今までもここでの生活に馴染めない子弟を養子がわりにと引退した先輩方が引き取って下さることはあったが、あまりにも頻繁だ。
一度だけ。睿様にそれとなく訊ねてみたこともあったが、人好きのするいつもの当たり障りのない笑顔でかわされて終わった。それ以来訊ねることは止めたが、疑問は残る。
何か深い事情があるだろう。
私にできるのは、そう自分に言い聞かせ疑問を心の奥深くに封じ込めることくらいだ。
文使たちは引退した先輩方を叔父叔母と呼ぶ風習があるが、芯の芯まで染み付いたこの擬似家族根性のようなものは到底抜けることはないのだと知る。睿様でさえだ。叔父叔母たちのほうが信頼できると判断する何かがあったのだろう。弟子には任せられない案件も時にはあるに違いない。個人的にはもっと信頼してもらいたいと思うことがある。子弟たちが全身全霊をもって睿様を信頼しているように。
まぁこれは私の我儘なのではあるが。
午後は宮廷への定期報告に向かう。書としてしたためた報告を五役宛てに提出し、その後は世間話という建前のもと小明姉様と情報交換を行うのが常。
小明姉様は文使上がりだ。独り立ちして数年経った頃、視察に来た当時まだ王子であった宗傑様に見染められ側室となった。文使にはもったいないほどの美貌を持ち、文使にしておくには惜しいほどに聡明な女性。
全身から溢れる初夏の太陽の如き瑞々しい輝きと佇まいに、夜空にかかる天の川を思わせる豊かな黒髪と、琥珀をそのまま埋め込んだかのような深く優しい瞳。
昔まだ若かった明兄さんがそう評した小明姉様。あまりにも陳腐で青く、そして愛おしいその文句には正直賛同出来兼ねるが、彼女を知る者を頷かせるには十分だ。
豪奢な着物に宮女らしい濃いめの化粧で隠しているのは小明姉様のあらゆる素顔だ。彼女が素顔を見せる相手はただ一人だけ。
部屋に通されると、侍女に勧められるまま飾り彫りの施された黒檀の卓を挟み小明姉様と向かい合って座る。
小明姉様は華やかな金糸の刺繍が施された絹の袋と、厳重に封をされた睿様宛ての手紙を一通用意して私を待っていた。手にした袋はずしりと重く中身が金子だと容易に想像することができた。
手紙はさておきだ。金子を渡してくるなどこれまでなかった。私は少し不審に思い、またそれが多少顔に出たかもしれない。小明姉様はくすりと小さな笑みを浮かべて言った。
「お守りと思いなさい。貴方の」
姉と弟であること。文使であること。それを知らねば私は賄賂でも受け取ったように見えるだろうなと、不機嫌を隠さずため息をついた。しかし彼女は私の無遠慮な態度を気に留めるでもなく笑みを湛えたまま続ける。
「必要になります。近いうちに」
「文使にこのような大金など……」
そこまで言ったところで、私の口は小明姉様の指に遮られた。白く細く滑らかな肌をした形の良いその指は白粉の香りを纏いひんやりとしていた。
「私が刺繍したものです。素敵でしょう。だから袋は無くさぬように」
それだけ言うと小明姉様は乗り出した体をすっと静かに、何事もなかったかのように戻した。側室とはいえ国主の妻ともいえるお方自ら施された竜胆の刺繍も恐れ多かったが、それよりもだ。それよりも。姉様の指が私の唇に触れたことがしばし私に言葉を失わせた。恋心などあるわけではなかったが、それでも唇から体中に熱が広がっていくのを感じた。
「私の弟。可愛い音。頼るところを間違えぬように。そしてどうか息災で」
「大げさな。また来月来ますよ。いつものように」
私の皮肉めいた返事に、小明姉様は寂しそうな、それでいてどこか悲しそうな潤んだ瞳でただ穏やかに微笑んだ。そしてそれ以上はもう何も語ってはくれなかった。
文舎に戻るとすぐに睿様からお呼びがかかる。
早朝楽を送り出した後、いつものように手紙に目を通して弟妹たちにその仕分けを指示する。午後は宮廷へ定期報告に出て小明姉様に会い、今度は睿様の元へ。今日の私は食事をする暇もない。どうせ小明姉様の手紙を届けると分かっているはずなのだから、休む時間くらい少しは気を遣ってくれと思わず笑いが漏れた。
声をかけ返事を待たずに睿様の執務室へ入ると、そこには暗い影を背負ったような深刻な面持ちで俯く睿様がいた。私の呼びかけに気付いているのかいないのか。
私はもう一度睿様の名を呼び、小明姉様からの書状を文机に置いた。
「音」
書状には目もくれず、俯いたまま睿様は静かに返事をした。反応は薄かったが私の呼びかけが聞こえていないはずがない。何か得体の知れない不安が汗となり私の背を流れ落ちるのを感じた。
「急務がある。受けてくれるか」
常に先の先まで見通している睿様の口から、私相手に急務などという言葉が出てくるのは珍しい。私は動揺した。楽も無事旅立ち、次の独り立ち予定もなく、しばらくは平穏な日々になるはずだ。
そうあるべきだった。
急務というくらいだ。陛下直々の任務かもしれないし、あるいは何か複雑な手紙の解読か、深刻そうであるとはいえそのあたりが私の脳裏をよぎる。しかしその予想は見事に外れた。
「すぐに東土を発ってほしい。誰にも何も知らせるな」
内務の私が外へ出るような任務をこなせるとは思わなかったが、睿様直々にそう頼まれては断ることも断る素振りすらもするわけにはいかなかった。それでも一瞬、口を開きかけたままどう答えるべきか躊躇してしまった。
「必要なものは用意した。身を隠すのだ。誰にも居場所を知られるな。そしてしばし文使であることを忘れよ」
睿様はいつになく厳しい声音でそう言うと、いくつかの書の束と最高文使の証である印の入った小箱を差し出してきた。理由は述べてはくれなかったが、昼間の小明姉様とのやりとりを思い出しその一角程度は察することができた。
そして睿様はすっと一枚の書き付けを私に握らせた。少し汗ばんだ大きく温かい手は知らないうちにしみとしわだらけになっていて今更ながらその年齢を感じさせた。睿様に手を握られたのは幼い頃に手をとって文字を教えていただいた以来だ。その手は僅かに震えているように思えた。
私は一礼し書き付けを受け取る。睿様は無言で蝋燭の明かりを指差した。読んで燃やせということだろう。
「すまない音よ……」
視線を睿様から書き付けに移すと、私の目に飛び込んできたのは数行の文字の羅列。想像したこともない、したくもない、ありえない、信じられない、言葉。その瞬間私は何も考えることができなくなり、頭が真っ白になった。自分の中の何かが体からふわふわと抜け落ちるような感覚に、いつの間にか漏れ出ていた自分の嗚咽をただ他人事のように聞いていた。
「すまない音……」
睿様はもう一度謝罪の言葉を口にすると、みっともなく咽び鳴く私の背を優しく撫でた。その手は残酷なまでにただただ優しくあたたかかった。
大事にしていた筆は睿様の弟子である証。琥珀色の制服は東土の文使の証。文箱に納められた書の束は長い年月を皆と過ごした証。
私はそれらをすべて東土に残し、別れの言葉も言えず、見送りもなく、ただ一人まだ暗い空の下東土を発つ。もう一生分の涙を流したであろう目元が赤く腫れあがっているのは想像にたやすい。
馬に乗るのは久しぶりだ。
仔馬の頃から世話をしていたうちの一頭が好奇心を溢れさせた目で私を見る。ようやくあなたが乗ってくれるのですねとでも言ってくれているように思えた。顔をすり寄せ甘えるような仕草で私を促す。あぁこいつも文使の一族なのだなと、私はその横っ面を撫でた。覚悟は決めた。東土の最後の思い出としてこの先の共は君に決めよう。
私にはこの先の未来を見通すだけの知識も知恵も経験も余裕すらもない。こんな私にこうして一人旅立つ価値があるのだろうか。弟妹たちをおいて。先輩たちをおいて。睿様を見捨てて。
しかし私は決して絶望はしない。
こうして私は名もない放浪者となった。
愛おしい東土よ。兄弟姉妹たちよ。生きて再会できることだけをただ請い願う。