海に梯子はかからない 海に梯子はかからない
自分の輪郭さえも見えないような、墨を溶かした夜の水面に、朝が、突然訪れた。
濡れた手の甲に、ぷっくりと浮かんでいた水泡さえも弾けるほどの眩しさに、驚いて思わず顔を上げる。
月が、出ていた。
今にも落ちてきそうな月が、知らぬ間に、夜の海の上に。
手を伸ばせば、掴めてしまえそうなほどの大きさに瞠目し、今にも吸い寄せられるような心地で、果たして朝の月とはこれほどまでに神々しく、美しいものだったかと感心したその時、漸く気が付いた。
朝が来たのではない。ただ、この満月があまりにも大きく輝いているから、自分の周りだけ、まるで朝が訪れたかのように明るくなっているのだと。
「やっと、お会い出来ましたな」
私の理解を待ち侘びていたかのような頃合で、月が口を開いた。
否、実際に月が喋り出したわけではない。
そこには、人が立っていたのだ。
海を裂くように、月が下した光の梯子に足を掛け、目も眩むほどの後光を背負った、男がひとり。
「■■■さん」
男の、柔らかな光を音にしたような声が、聞き覚えのない名を呼んだ。
「私」は、その音を上手く聞き取ることが出来なかったけれど、ただ相手が、逆光の中でひどく嬉しげな笑みを浮かべていることだけは、なんとなくわかってしまった。
例えば、浜辺で桜貝を見付けた子どものように。あるいは、小さな星が流れるのを見た、誰かのよう。
月の光に、氷の湖を思わせる涼やかな髪を透かせながら、海の上に降り立った男は、私を見詰めて笑っていたのだ。
その、あまりにも非現実的な光景に、暫しのあいだ私は呼吸を忘れる。
何故、と、今更ながら不安な疑問が胸に湧いて。
何故、この「人間」は、海の上に立っているのだろうかと。
ここは決して浅瀬ではなく、凍てついた冬のそれでもなく、にもかかわらず美しいその男は、あまりにも当然のように月明りの上に真っ直ぐ立っていたから。
そのまま、息をすることを忘れて、意識を失ってしまうかと思った。視線を、此方を見据えている相手に奪われたまま、ただ、巌のように固まって、静かに。
けれどそうならなかったのは、男が徐に海面を歩いて、私のほうへと近付いてきたからに他ならない。
此方が気を失うことも許さないほど、当たり前のような淀みない所作で、大股に、音もなく。
遠目には単衣のようにも見える若竹色の打掛を、見慣れぬ形状の衣服の上にふわりと羽織り、まるでそれを羽衣か何かのように翻しながら、男は私の視界の真ん中で、少しずつその像を大きくしていく。
ああ、これは夢だと、その瞬間に思った。
きっと私は、海に生えたこの岩場で、ひとり物思いに耽っているうちに眠ってしまったのだろうと。
そうでなければ、あまりにもその光景は美しく、恐ろし過ぎたから。
だって、海の上を悠々と歩く人間など、聞いたこともない。それこそそんな者は、神仙か、鬼か、魔か。
けれど、
「まさか今回の君がこんなところにいるとは……地球中の陸地を探し回っても見付けられず、もしやと思い海のほうへ来てみて正解でした。ふふ、まあ、君を探す時間が、俺は嫌いではないのですが」
男は、まるで昔からの知り合いかのようなことを言って、岩の上で凍り付いていた私の手を取った。
秋の海の冷たさか、或いは生まれながらの体質ゆえか、研ぎ澄まされた氷の皮膚に人肌のぬくもりを確かに感じ、咄嗟に手を引っ込めてしまいそうなほど跳び上がる。
幸い、相手は存外に力が強いらしく、反射で暴れた私の腕の動きなど素知らぬ顔でねじ伏せたので、彼を乱暴に振り払ってしまうようなことにはならなかったのだけれど。
否、これは本当に幸いだったのだろうか。
「どうしたんです? そんなに大きく目を見開いて。うっかり落としてしまっては勿体ないですよ」
目の前で起こっていることが理解しきれずに、ただただ目を丸くして目の前の男を見上げ続けていた私は、ふっと、困ったように零れた相手の溜息に、漸く自分にも肺呼吸をする機能があることを思い出す。
「え、あの……その……貴方は……」
久々に紡いだように擦れていた私の声に、そして戸惑いに形を成していない言葉に、けれど男は、何故だかとても真剣な面持ちで、耳を傾けてくれていた。
春の夜を切り出したかのような鮮やかな紫電の双眸は、不思議とどこかで見たような色をしている。
それは水底で忘れられた影の色か、それとも、嵐の夜の雷か。
その懐かしいような瞳が、私なんぞの言葉に、ふっと寂しげに細められた。
「やはり、また君は俺のことを忘れてしまっているのですな」
「また……?」
それはまたしても、初対面の相手に掛けるには、相応しくないような言い回しに思えた。
否、実は本当に会ったことがあるのかも知れない。
その目の彩に見覚えを感じたのも、佇まいの美しさと不可思議さに息が止まりそうになったのも、思い出せないだけで確かに自分の中に眠っている記憶故だとしたら、もしかすると、或いは。
暫しの沈黙に、月の光を受けて波が騒めく。只中にあって煩いほどの潮騒を掻き分けて、私は必死に、自分の中に、目の前の男へと繋がる糸口がないかを手探った。
無論、そう都合良くそんなものが見つかるはずもなく、その結果は、きっと間近で見詰め合う形になっていた相手にも、察せられてしまったのだろうが。
彼は、戸惑い、焦燥する私の様に、瞬きで寂しげな眼差しを押しやると、穏やかな、陽だまりのような声で囁いた。
「俺は、ずっと君を探す者です。そして君は、うつろいながら俺に見つけられる者。お望みでしたらいくらでも、これまで出逢ってきた君の話を語りましょう」
曖昧で、どこか大仰な相手の言葉に、無意識に眉を寄せる。
「あ、貴方が、私の話を語るのですか?」
まるで、私自身より私のことを知ってでもいるかのような口ぶりに、いっそう困惑が強まった。
親兄弟にならばともかく、会ったことがあるような、けれどやっぱりないような、そんな親しくもない相手に私の何がわかるのか、と。それは、怒りではなくむしろ、不安のような気持ちだったのだけれど。
しかし、今にもぴたりと閉じてしまいそうな喉を抉じ開け、おずおずと絞り出した言葉は、やんわりとした、それでいて力強く弾む声音に掬われる。
「どうか俺のことは『巽』と」
「巽……さん?」
舌に乗せると、その響きは不思議と甘かった。
先ほどまで強張っていた喉が、朝露が通り過ぎて言ったかのように楽になる。
綺麗な名前だと思った。
そして、恐る恐るその名を口にした途端に相手が見せた、うっとりと蕩けるような笑みもまた、美しいと。
その、慈しむような、愛おしむような、心当たりのない眼差しに当てられて、僅かに頬が熱くなる。
それが如何にも恥ずかしくて、私は不自然な仕草で視線を逸らすと、震える唇でたどたどしく言葉を探した。
「えっと、私は私のことならたぶん、それなりにわかっていると思うので、出来れば私の話ではなく、巽さんの話をしていただいたいのですがぁ……」
「今回の君は、こんな出会って直ぐに俺に興味を持ってくれるんですね。いやはや、嬉しい限りですな」
「はあ……?」
しかし、咄嗟に手繰り寄せた控えめな断りは、意外にも相手を喜ばせるようなものだったらしい。というか恐らく彼が、私が意図したのとは少しばかり違う解釈をしただけとも言えるか。
勿論、こんな世にも不可思議で美しく、眩しい相手に、興味がない訳ではないのだけれど。
と、そんなことを考えていた矢先。
「まあしかし、こんなところではなんですから、とりあえず俺の船まで行きませんか? 君のためにとびきりの甘い焼き菓子も用意しています。今回の君も、甘いものが好きだと良いのですが」
「ヒィィッ……! やっ、待って……! いえ、船は……! 船は困りますうぅ……!」
油断していた私の手を、男はぐいと少し強引に引っ張った。
ちょうど波間に屹立する岩に、上半身を預ける体勢で相手と話していた私は、彼の見目にそぐわぬ力強さの前に、悲鳴をあげながら岩の上へと引き摺り上げられていく形になる。
ずるり、ずずぅ。
ああ、まずい。見られてしまう。
彼に、この美しいひとに、私の一番醜いところを。
「大丈夫。船はすぐそこに停めてありますから、何も困ることなんて――」
案の定、そう言って此方を振り返った男の言葉が、その瞬間にぴたりと止まった。
整った、如何にも優しげな面立ちに、ありありと驚きの色が浮かぶ。
その表情の鮮明さに、何故だろう、恥ずかしくて悲しくて、眦がじわりと潤んだ。もし、私に彼の手を振り払うだけの力があったなら、きっとこの瞬間に逃げ出していただろう。
「いや……み、見ないで……」
けれど逃げることも、両手で顔を覆うことさえ叶わなかった私は、ただ、哀れを請うようなか細い声をあげて、相手の顔から目を逸らした。
ぱっちゃんと、水面を叩く高い音が響く。私自身の意志とは裏腹に、無意識に動いた尾びれが、海を叩いた音だった。
「今回の君は、個性的な脚をしているのですな。いや、脚と呼ぶのが正しいのかはわかりませんが」
彼の言葉に、羞恥で身体中に火が点る。
彼が、私の下半身を「脚」と称しきれなかったのも仕方がないのだ。腰から下が、正しく「さかな」である私のそれは、一見して彼のような「人間」とはその形状が明らかに異なる。
ささくれだったような、硬い、毒々しい紫色の鱗も、ボロ布が纏わりついているような半透明の鰭も、彼の――彼らのような二本脚のひとにしてみれば、まさしく異形のそれに違いないだろう。
「す、すみません……やはり巽さんも、私たちのような種族は見慣れないですよねぇ……! すみません、すみません、中途半端で、生臭くて、気持ち悪くて、醜くてぇ……」
その驚きを含んだ視線が、間違いなく、海面から引きずり出された己の下半身へ注がれているのをヒシヒシと感じながら、涙声の早口でまくし立てる。
私たちは、否、少なくとも私は、自分のような者が、他の社会において一般的な姿かたちではないことを知っていた。
夜に生まれ、歌を愛し、海と共に生きる――陸でしか生きられない人々は、私たちのことを『海の民』だの『人魚』だなどと呼ぶけれど、そこに、嫌悪とも嘲笑ともとれるような、どこかしら居心地の悪い響きを孕んでいることは、明白だったから。
私たちは、二本脚のひととは、違うのだと気付いた。
二本脚の人々とからすれば、私たちのような尾びれの生き物は、化け物に映るのだという、悲しい事実と共に。
そのせい、だろうか。
それに誰かが気付いた頃から、私たちの中にも、二本脚の子どもが産まれるようになったのは。
それは他種族との共存を望む故の進化だったのか、はたまた、圧倒的数を誇る陸の生き物に、擬態することで種の生存率を上げようという、遺伝子の意志か。
どちらにしろ、今では私たちの中でも、私のような『さかな』は少ない。それこそ、こんな醜い鱗の異形でも、身に余るような特別な役割を、皆から与えられてしまうほどには。
と、今にも逃げ出したい気持ちで忙しなく尾びれで水を掻いていたのだけれど。
「確かに、そういう下半身の君には俺も出会うのは初めてなので、少し驚いてはいますが」
「ヒッ……!」
そう言って、男は一旦手を離すと、今度は無防備にしていた両脇の下に両手を添え、明確に抱え上げるような形で私を抱き上げた。
不意打ちで引き上げられた身体が、慣れない重力に驚いて強張る。『さかな』の下半身は長く、大きく、重い。しかし、彼はそんなことなど気にした素振りも見せずに、軽々と私を横抱きにすると、まじまじと此方を見下ろして、目を細めた。
「……ふむ。やはり、君は少しも、醜くなどないでしょう。むしろ、とても綺麗です。深い、紫色の鱗が、キラキラと光を反射して、ひとつひとつが口に含むと甘く溶ける、宝石のようで……」
照れるでもなく紡がれる、過剰に装飾された言葉の数々に、さきほどとは違った意味の羞恥が、全身を熱くする。
煌々とした月明りの下、頭の先から尾びれの先までまじまじと観察するような艶めかしい紫電の視線に、堪らず、自由になった両手で己の顔を覆った。
「あ、甘くはないと思いますぅ……ただ魚の味がするだけで……う、鱗は硬いのでお口の中に刺さっちゃいますし……!」
「君の欠片が?俺に?それは如何にも興味深いですが」
「だっ、だだだだめですぅ……! 怪我しちゃいますからぁあああ……!」
自分でも、何を見当違いなことを口走っているのだと思った直後に、だがしかし、思いがけず相手に興味を抱かれ、思わず情けない悲鳴が漏れた。
そんな此方の反応が、もしかすると彼には面白かったのだろうか。男は、存外に意志の強そうな眉をふわりと下げると、私を抱きかかえたまま、ぽんと岩場から海原へと軽く跳び下りた。
沈む。そう思って目を閉じたのは一瞬で、直ぐに予想した衝撃が訪れないことに気付き、恐々と目を開ける。
すると彼は、臆病な私の反応に気付いた様子もないまま、口元に笑みを浮かべて海の上を歩き出していた。
そういえば、そうだった。
彼は歩けるのだ。この海を。否、彼が歩いているのは、もしかすると波の上ではなく、そこにかかった月の梯子なのかも知れないけれど。
そう理解して、呆けていられたのも束の間。私は今更ながら、今自分が大人しく運ばれている場合ではないことに気付き、はっとした。
「あ、あの……! すみませんっ、下ろしてください……っ! 私は此処を離れる訳には……!」
「安心してください。俺の船には基本的になんでもありますので、直ぐに君が不自由しないような水槽もご用意します」
「い、いえ、そういう問題ではなくて……!」
慌てて相手の腕の中から逃れようと身を捩るも、それこそ男は、手掴みしている魚が暴れ出したくらいにしか思っていないのか、よいしょと此方を抱え直す始末。穏やかな喋り口調や優しげな風貌とは裏腹に、存外強引な上此方の話を聞いていないようだ。
しかし、ちょうどその時。
遠く、薄らと月明りに照らされた陸地のほう――正確には浜辺で、突然、爆音と共に大きな炎が上がった。
「今のは……!」
さすがの男も、その場に足を止め振り返る。
反射的に振り返った私は、目に映った光景に、ヒュッと小さく息を呑んだ。
気付けば、海岸沿いが昼のように明るくなっていたのである。
無論、大き過ぎる月明りのせいではない。先ほどの爆発の名残りだろう大きな炎が赤々と燃えているせいで、太陽が落ちてきたような有様なのだ。
否、そればかりではない。よくよく見れば浜辺には、忙しなく動き回る小さな篝火が数えきれないほど踊っている。
「まさか……『潮干狩り』……!」
そのおぞましい俗称を口にした瞬間、ぞくりと背筋を緊張と恐怖が駆け上がっていった。
「潮干狩り……? こんな時間に、あんなに火を焚いて?」
「いえ、そうではなく……」
私は、衝撃で一瞬凍り付きかけた頭を、強引に加速させるその傍らで、半ば反射的に相手の問いに答える。
「あれは、夜襲です」
そう、『潮干狩り』とは、陸の民が、海の民を襲う行為、その略奪、殺戮のことを指す所謂隠語であった。
最近になって、この地に流れ着いた二本脚の人々の一団が、私たちを海の生き物、つまるとこと人ならざる生物として狩るために、都合良く使い始めた言葉なのだろう。
初めは私たちの持つ知識を、力を求めて、あくまでも友好的に。けれど少なからず此方が警戒を解いたのを見計らえば、彼らはまるでケダモノの如く豹変し、力を振るい始めた。私たちが、教え導いたことで得た、力を。
否、もしかすると、彼らもまた、焦っていたのかも知れない。
土地に歓迎されていない彼らの間広まった病を、治療する術を探して、死に物狂いで。
それこそ、その解決策を、私たちが知っているのだと、決めつけてしまうほどに必死に。
「私、行かなければ……」
私は、震えそうになる自らの肩をそっと抱くと、彼の腕の中でひときわ大きく身を捻った。
「え? あっ……!」
すっかり浜辺に気を取られていたせいで、男の力が僅かに緩んでいたことを幸いと、勢いよく真っ黒な海面に身を投げる。
大きな飛沫と派手な水音を上げて、私の身体は、あるべき場所へ。
身を貫くような冷たい海水に頭から尾鰭の先までくるまれて、急速に頭が冴えていくのがわかる。
今夜は、『潮干狩り』はないだろうと、予想されていた。
だからこそ、ここのところ緊張のしきりであった仲間たち――もう海中では生きられない、二本脚に生まれ付いた同胞たちも、今宵は「新月」の闇に紛れて、久方ぶりに浜辺で眠り、休息を得ていたはずなのに。
何故。
そう、疑問に思った瞬間、私ははっと海中から顔を上げていた。
「どうして……?」
振り向いたその刹那、改めて眩しさに目が眩む。それと同時に、それほどまでに強い光を放つ月が、本来ならばこの夜に昇っているはずなどないという事実に、背筋が粟立った。
「待ってください! 今はあの浜に近付かないほうが良い!」
私の驚愕を他所に、有りえざるべき月を背負って、冷たい髪の男が叫ぶ。
神秘的な紫色の瞳を大きく開き、不自然なほどくっきりと海面に罹る月光の中で、影として。
その光の梯子は、紛うことなく月へと続いているように見えた。
ひどく近くて、大きな月に。否、あれは本当に、月なのだろうか。
今宵は確かに、新月だったはずなのに。
「貴方は……何者なのですか……?」
今は、一刻も早く浜辺の同胞たちの元へ駆けつけなければならない。だから本来であれば、そんな言葉をかける余裕すらもなかったのだけれど。
――訊かずには、いられなかった。
その私の問いに、彼は一瞬だけ少し意外そうな顔をして、そしてきゅっと形の良い眉に力を込めると、どこか切実な声を張り上げた。顔に似合わぬほど、潮騒にも負けないほどの声量で。
「俺は、巽です。君はいつも、忘れてしまうけれど……」
今にも泣き出してしまいそうなほど、男の顔が歪む。彼は、一度、ほんの少しだけ躊躇うように唇を戦慄かせて、そして、結局は真っ直ぐに此方を見据えたまま、言葉を続けた。
「君の、伴侶です」
「は……ッ!」
予想外の単語に、一瞬、何かの聞き間違いかとも思った。
けれど直ぐに違うと思えたのは、そんなことを言った相手の表情が、あまりにも真剣で、そして、心細げに見えたから。
それは間違いなく、大切なひとを見失い、探し、求める者の眼差しだと、わかったから。
でも、
「ひ、人違いですぅ……! 私にそんな大層なものはおりません……!」
それは悲しいけれど、自分ではないということもまた、私には理解できたのだ。
何せ本当に、心当たりがないのだ。彼の顔にも、その言葉にも、何より、そんなふうに求められることにも。
そも、自分のような呪われた醜い存在が、あの、月と見紛う何かを背負う美しい男に、愛されるはずもないのだから。
ああ、そうだ。
私は、呪われている。
私は、醜い。
しかし、だからこそ、今は行かなくては。
「駄目だ……いけない……っ! 行ってはいけません!」
(未完)