後に"ソレ"は紫の炎で燃やされるどうにも、胃の調子が悪い。イガイガというか、妙な気持ち悪さがずっとあって食欲もわかない。
帰ってきてからというもののずっとその調子で何もする気になれずただ自室で転がっていた。
そこに控えめなノックの音がトントン、と響いた。
「ミスタ〜?ちょっといいかな?」
ミスタはだらりとベッドに転がったまま瞳だけをドアへ向ける。珍しい、シュウの訪問だった。
いつもこういうときはソッとしておいてくれるのに。なんて思いながら「入っていーよ」と雑に返事を返した。
「はぁい、ごめんね、休んでるところ。ちょっと気になることがあって」
やっぱりまだ体調は良くなさそうだね。
シュウはベッドに転がったままのミスタを見てふむ、と思案顔をする。持っていたコップをサイドデスクに置いた。
「そー。あんまり良くはないな。んで、気になることって?」
「あぁ、そう。ミスタ、今日なにか変なもの食べたりした?」
「何?俺のこと拾い食いする犬とでも思ってんの?事務所で貰った土産くらいだよ。」
「あながち間違いでもないでしょ」
じとりとした目で見つめるミスタをよそにシュウはきょろりと周りを見渡してミスタの部屋のゴミ箱を引っ掴んだ。
「ミスタ、ちょっと起き上がれる?」
「おー?いけっけどなにやんの?」
ミスタはのったりした動きで起き上がって、ベッドの上であぐらをかいた。
「う~んとね、そのお土産が原因かはわからないけど、良くないものが入り込んでると思うんだよね」
だからコレ。ただの塩水なんだけど簡易的なお清めにはなるから飲んでみてほしいんだ。
「は?呪術的な?探偵事務所の方で謝礼品にもらったヤツだからんなことねぇと思うけど……」
シュウから差し出されたコップを受け取る。
「まぁまぁ、何もなかったらすぐ吐き出して良いからさ、保険だよ保険。」
んへへ、とお馴染みの笑いを横目に見ながら続いて差し出されたゴミ箱も受け取り、あぐらの中に抱え込む。要はうがいの要領でいいってことだろうし。ちゃっちゃと済ませよう。グイッと塩水を煽る。
と、同時に胃が激しく痙攣してそのままゴミ箱に吐き出した。
「あちゃ、やっぱりいるね。拒絶反応が出るってことは効果があるってことだから……ミスタ、飲み込めそう?」
未だに自分に何が起こったのか分からずに目を白黒させているミスタはわけも分からず「飲めばいいの……??」とぽそりと返した。シュウが頷くので、今度はゆっくりと口に含んで飲み下す。
口に入れた瞬間、肌が粟立つ感覚がして気持ち悪くなる。吐き出したくなるのを堪えて少しずつ喉を通すと胃の中がひっくり返るように吐き気が襲ってきた。どうにか飲みきったもののミスタはグロッキーで、吐き気に伴って唾液が溢れてくる。
「ミスタ、どんな感じ?」
「ぎも"ぢばる"ぃ"…」
「あら〜」
シュウはしまったなぁという顔をした。ここまで厄介なものだとは思わなかったので塩水でお清めできる範囲だと思っていたのだ。恐らく効いてはいるのだろうけれど、消滅するまでには時間がかかりそうだった。これは吐き出してしまった方が楽だろうな、と判断して「ちょっと離れるね」と声をかけて部屋を出ていった。ミスタはゴミ箱を抱えたまんまダラダラと出てくる唾液を吐き出してオエオエ言っていた。
パタリ。戻ってきたシュウは3本のペットボトルを持っていた。
「ミスタ、このままだとしんどいから吐いちゃおう。ナカに居るやつを出せば治るから」
塩水を飲んで、吐き出す。吐き気のある状態で塩水を飲み下すのは難しくて、ビシャビシャと塩水と唾液が混ざったものがごみ箱の底に溜まっていく。
塩水を胃が拒絶している感覚があって、ほんとに得体のしれない"モノ"が居ると思うとゾッとした。
焦って吐き出そうとするけれど、胃の中がグラグラとするだけでなかなか上手く出てこない。気持ち悪い。グラグラする。しんどい。つらい。
息が乱れる。苦しい。視界が狭くなって背中を丸めた。
「大丈夫、大丈夫だよミスタ」
シュウは落ち着いた声を意識的に出して、ミスタの背中をゆっくり擦りながら冷え切った指先を握った。
「食道から喉、口までを筒みたいにイメージするんだ。舌をなるべく伸ばして、喉から誘導するんだよ」
「嘔吐くフリでもいいから、ゆっくり、やってみよう」
顔色の悪いミスタがコクリと頷いて、ゴミ箱と向き合う。
「う、ぇ」
「そう、上手だね」
「ぇ、れ」
「うん、うん、その調子」
吐き気で溜まる唾液を舌に伝わせてこぷこぷと吐き出していく。喉まで来ているのに、あといっぽ、気持ち悪いモノが出てこない。滲んだ汗が前髪を額に張り付けていく。
「ミスタ、大丈夫。大丈夫だよ。」
シュウが背中をさする。背骨がゾワゾワと粟立って、来る、と思った。
「 、ぇ、げぉ、かはっ、」
喉の奥から流動体が、溢れる。胃酸が喉を焼いて、口内に嫌な酸っぱさが広がった。
かっぴらいた瞳から雫が落ちて、吐瀉物に混じっていく。
「しんどいね、大丈夫、大丈夫だから。」
一度吐き出すと、胃の痙攣は止まらず、返事もままならないまま立て続けに2回目の嘔吐が始まった。
げぼ、とか、かぱ、やら、ぴしゃぴしゃゴミ箱に合流していく流動体の音。饐えた臭い。
シュウは鼻を覆うこともせず、ただミスタの背中を擦っていた。
体力と気力、どちらも消耗する嘔吐でミスタはぼんやりしていて、もうただこの苦しさから開放されて、泥のように眠りたかった。胃のそこで渦巻いている大元がまだ気持ち悪さを訴えていて、ゴミ箱に頭を突っ込む。
「お、ぇ、けほっ、」
出るのは空嘔吐で少なくなった体積はうまく吐き出されない。ミスタも消耗している。クッタリとゴミ箱を抱えて、背中はじっとりと湿っていた。
仕方がない、最終手段だ。
「ミスタ、ごめんね。少しだけ我慢して」
ぼんやりとした瞳がシュウを捉えていないことが明白だった。胃液と唾液で湿った口腔内にシュウの指が入り込む。反射的にビクビクと舌や身体が暴れたがシュウは淡々と抑え込み、舌の付け根をクッと押し込んだ。喉が痙攣して、引き抜かれる指を追いかけるように喉を開いて、雪崩のように迫るそれを吐き出した。3回目の嘔吐である。ぼんやりとゴミ箱の中身を見つめようとした矢先。
「ミスタ、"ソレ"は僕が片付けておくよ」
スルリと長い指が視界を覆った。ヒンヤリとした体温が火照った身体には丁度良かった。
ミスタの身体は連続しての嘔吐に疲弊していて、ジワリ、ジワリと沈んでいく。
「うん、大丈夫。そのまま寝ていいから」
ゆっくり休んで。
シュウの優しい声と、口元が優しく拭われる感触で、意識はブラックアウトした。