花怜 鬼と桃源 更新9/22夜→9/23夜 むかしむかし、海の向こうへ思い馳せる少年がいた。
育った村から少し歩き、家々の屋根が見えなくなるところまで行くと、潮のにおいがする。徐々に低くなる土地を川に沿っていけば、そこには海が広がっているのだ。
今日は曇り空だが、晴れていれば海が見えた瞬間には陽の光が反射して、この世のものとは思えない景色が広がる。これが林に囲まれ、静かに寂れた村の近くにあるものだから、尚更別世界だ。
見えてきた海は雲を通した薄い陽の光を反射してた。平坦な林道は姿を変え、一本道の先にあるごつごつと角ばった岩場を彼は身軽に抜けていく。
そうして屈めば海に触れられる距離まで行くと、少年……謝憐は潮風に目を閉じた。天気は良くないが、風は凪いでいる。平凡な一日だ。
打ち付けられた波が時折、足元を濡らしていく。寂れた村の中では上等な布で織られた衣服だが、彼は気にしなかった。
この海辺に、村人は殆ど来ない。海の向こうに鬼の住む島があるからだ。恐怖心と警戒心からくる好奇心で時折見に来ることはあるが、足場の悪い岩場まで足を運ぶことはない。
ここは謝憐が一人になりたいときに訪れるとっておきの席だった。
勿論ご近所というわけではなく、目を開けてみてもこの天気では島の影すら見えない。
天気の良い日に見える鬼ヶ島。太陽の光を反射し輝く海の先にある、伝説の島。
謝憐は将来、その島に入り鬼を退治しなければならない。
「……そんなことをしてどうするんだか」
鬼退治の定めがあると言ったのは、隣の村にいる老いた祭司だという。
ある日、川に流れてきた巨大な桃。中を割れば出てきたのは種ではなくあかこだった。斧で割ったというのに怪我一つなかったその姿は赤子にして珠のように美しく、とても徒人とは思えない。その子供は奇妙なことに読み書きも算数もでき、剣を握らせれば剣術が上達し、筆を握らせれば学問に秀でた。
桃には破邪退魔の力があるのだから、これはきっとかの鬼ヶ島を退ける、天から使わされた特別な子に違いない。
……だ、そうだ。
しかし謝憐の記憶上、鬼が村を攻めてきたことはない。周辺の村もそうだ。ただ、物が消えたり畑が荒れると鬼のせいにされることはあるが、これは野盗や獣のせいである。
――周辺に悪さをする鬼たちから奪われたものを取り返し、金銀財宝を持ち帰ってここら一帯の村を豊かにする。鬼を退治すれば都に住む姫からも声がかかるだろう。
なんて都合の良い話を、はいそうですかと鵜呑みにするほど謝憐は子供ではない。もう十六なのだ。
仮に鬼が本当に住んでいて、事実悪事を働いていたとしよう。
それで、相手の住処を荒らし、場合によっては命を奪って金銀財宝を持ち帰る?
「人はそれを強盗というんだ……」
やることに差はない。
盗んだもので豊かになってどうするのだ。年寄りばかりの辺境の地で豊かになっても、生い先短い彼らが富を使い切れるのか? 使い切れない富を手に入れてどうする。そもそも、その金銀財宝とやらを金銭と交換できる村は周辺にあるのか。
ない。
では、都の姫から声がかかって婿入りしたあとの自分の人生はどうなるのか。贅沢な暮らしはあるだろう。でもそこに己の意思は? 自由は?
ない。
「憂鬱だ」
ぽつりと零した彼は屈んでぼうっと海の向こうを眺めた。
正直な話、行きたくない。行くふりをして消えてしまいたい。だが育ててもらった恩を忘れるほど面の皮は厚くない。だから行く。十七になるその日に。
ただ、一つ思うのだ。
不意に謝憐の耳に足音が滑り込んだ。こんな場所に人の気配とは珍しい。
ぱっと音のした方へ目を向けた彼は、そこにいた一人の少年をその瞳に釘付けた。
見たことのない、一目で分かる上質な紅の衣。整って艶のある黒髪。息を飲むその容姿の美しさ。
村の通りを歩けば誰もが自然と頭を下げるだろう。上流貴族の出立ちに恐れを成し、惹きつける立ち振る舞いに無礼せしまいと。
しかし謝憐は思わず立ち上がった。胸の奥で予感があったのだ。
「きみ……」
「わあ、こんなところで人に会うなんて。近くに住んでる人?」
愛想よく笑った少年は、まるで散歩の途中のようだった。
「向こうの浜辺から岩場を渡ってきたんだけど……ここはあまり漁に向いてないね。逆の方角に行けば良かったかな」
不躾に少年を凝視してしまった謝憐は我に返ると、少年が歩いてきたであろう方向に目を向けた。確かにあちらには漁業が盛んな村があり、その更に向こうは街がある。
道を間違えてしまったらしい彼に謝憐も笑みを浮かべた。
「もしかして迷子か? もうじき日も傾いてくるし――」
少年に視線を戻そうとした謝憐は、その途中で茶色い物体が岩場の間から覗いているのを見かけてしまった。それでも目は止めずに彼を映しこんで林道を指す。
「うちの村で休んでくのはどうだろう。大きな村ではないけど」
「いいの?」
「勿論」
良くはなかった。悪いことだと本能で分かってはいる。でも信じられるだろうか?
口を閉じた後も謝憐は彼をじっと見つめた。美しい、少し年下の少年だ。自分と同じ、人の形をしている。ツノもなければ、山賊のような格好もしていない。虎柄の下着? 何の話だったか。
動けずにいる謝憐に、少年は僅かに目を細めて首を傾げた。
「行かないの?」
鬼ヶ島には行く。
ただ、謝憐には一つ思うことがあった。息苦しいような、心臓が痛いような、如何ともしがたい苦しみが身体の奥そこに生まれる。
もしも。もしもの話。
川に誰もいなかったら。桃がそのまま流れていったら。海に出て、どこかに辿り着くとしたら。
(そこは鬼ヶ島だろう)
どんな出会いをして、どんな生活をして、この村のことは何と聞いていたのだろう。
鼓動が早い。会って数分、交わした言葉は手で数えられるほど。だが、彼に聞きたいことは沢山あった。
意を決した謝憐は、しかし決まりの悪い顔で茶色の物体の方を目で示した。
「その前に、アレをもう少し隠せたりしない?」
木舟だ。一人が乗れる程度の小さな舟。いつもはあそこに何もないと、謝憐が一番知っている。
きょとんとした少年は一瞬遅れて舟のことだと気付き、それから謝憐が初めて少年を見たときと同じような目をした。
「……待ってて、もう少し押し込んでくる」
「うん」
しっかりとした足取りが謝憐から離れていく。その背を見送った彼は、詰めていた息を盛大に吐いた。
「冗談じゃない。人と同じじゃないか」
どこに攻め込んで、何を奪い合うって?
助けてほしかった。
何が目的でここに来たのか。鬼ヶ島はどんなところなのか。人間のことをどう思っているのか。
聞きたいことはあれど、どれも聞いたらいけない気がした。きっとお互いが正体に気付いていることを分かっているのに、どちらもそこに話を振らないので奇妙な綱渡りのような会話しかできない。
辛うじて絞り出した謝憐の問いはこうだった。
「三郎のその服、都で買ったのか?」
自己紹介をした際に教えられた名で呼ぶと、三郎は己の服をちらと見てから謝憐のものと見比べた。
謝憐の着ている服は悪くはないが、良いともいえない。大きな街の商人なら勝るとも劣らない質の衣服を纏えるだろう。つまり、上京すれば普通だ。
「正確には、都から仕入れたものを買った、かな。交易があるんだ」
「え、仕入れた?」
鬼ヶ島がまさか都と商売しているとは。謝憐は驚きの声を上げてから、自身の身なりを見て急に恥ずかしくなった。
何度でも言うが、謝憐の育った村は寂れている。不作があると少し明日を心配するような村だ。彼が着ている着物は村の中では上等、つまり他の者が着ているものなど程度が知れている。
鬼ヶ島は、謝憐が聞いた話よりずっと豊かなのだ。もしかしたら、村から物を奪う必要もないほどに。
「大丈夫、笑わないよ」
「心配してない。むしろ呆れるはずだ」
謝憐の気は村に近付くにつれ沈んでいった。
ぼろぼろとは言わないものの、老人の多い村では家の建て直しが難しい。日用品だって村人の手作りか、隣の村から仕入れるもので済ませている。その日用品の中に字の読み書きをするものはあれど、最近は専ら謝憐が使う。
「文字を読める人もあまりいない。村長の一家と商人、私くらいだ」
「……なるほど、兄さんは村の中では特別なのか」
いつか殺めるかもしれない相手に、一体自分は何を話しているのか。
「同年代もいないし」
「それが僕を村に誘った理由?」
「そういうわけじゃないけど」
ないとは言い切れない。三郎と話してみたかったのは本当だ。だが話した後どうしたかったのかは分からなかった。
どうせいつか殺し合うのに、彼を知って何になるのか。
村の柵が見えてくると、いよいよ謝憐は嘆息して愛想笑いを浮かべた。
「ああ、おかえり未来の英雄さま!」
「坊ちゃん、また見張りに行ってたのか?」
「隣の少年は誰だ?」
「都の役人にも見えるぞ」
誰かがそう言うと頭が次々に下がっていった。
通りがかる者たちに愛想よく応えながら、謝憐は我が家へ向かう。その隣を歩いていた三郎は内心で苦笑いした。夕飯の準備をする時間だろうに、まるで親しげな王族が通りを歩いているようだ。
三郎はこっそり彼に耳打ちした。
「見張りって何?」
村の奥へ進むにつれ人が少なくなってくると、謝憐が居心地悪そうに返した。
「鬼ヶ島のだろう」
「……うん?」
「知らないうちに、鬼が来ないか見張ってることにされてた」
ぶは、と三郎が盛大に吹き出した。ここで水を飲んでいたら、間違いなくそこらの草花に恵みを与えていただろう。
謝憐が屈んで海を眺めている姿を三郎は目にしている。あの背中は断じて見張りなどという大層なことをしている姿勢ではなかった。あれでは足元を蟹が通っても仕留められない。
「笑わないって自分で言ったのに」
「ごめんごめん」
笑いを堪えながら謝憐を見た三郎は、彼が少し冷たさを纏ったような諦め顔をしていたので、すぐに笑いを引っ込めた。
「……ごめん」
「気にしないで。君の気持ちも分かる」
三郎を一瞥した謝憐が足を止めた。少し進んだところに、ぽつりと一軒家がある。そこが謝憐の家だ。
「私の方こそ、気を悪くさせたらごめん。この村は……鬼が嫌いみたいだから」
その返答を聞くのは恐ろしかった。謝憐は足早に家へと歩き始め、何かを言おうと口を開きかけていた三郎が彼を追いかける。
夕飯のにおいを辿って家の中に入れば、まず目に入ったのは巨大な桃の半分だった。何か高級な掛け軸のように、大事に壁にかけられている。それは無論、謝憐をかつて包んでいたものだ。
「お婆さん、お爺さんただいま。客人を泊めてもいいかな? 寝る場所は……」
「縁側でも外でもいいよ」
三郎はあまり広くない家の開けた空間を探していた謝憐を遮った。困り顔で反論しようとする謝憐の唇に指を当て、二人を迎えた老夫婦に微笑む。
「こんばんは。旅の途中で会ったら意気投合してしまって。まだ話し足りないから、夜はお二人の邪魔にならないよう外で大丈夫」
「おお新しいご友人かね? それはまた……」
三郎の着ている服から身分を察した老夫婦は慌てて身を正した。小声で二人がやり取りしているつもりなのかもしれないが、やはり歳なのだろう、お互いの声が聞こえず次第に大きな声になっていく。
「あんた秘蔵の酒があるじゃろう」
「何を言う、婆さんこそ秘伝の漬物が……」
鬼の少年は黙ってこの家の息子を見た。恥ずかしいのか、そっぽを向いた謝憐の耳は赤くなっている。しかし、彼なら三郎を招待した時点でこうなることは分かっていたはずだ。
何故鬼だと知りながら、宿を提供してくれたのか。
話し終えた老夫婦は咳払いをすると少年二人をささやかな食卓へと案内した。追加で料理が運ばれて、最初は所在なさげに話していた彼らも、謝憐の話になると緊張が解けたのか嬉しそうに話し始める。
つまり、伝説という名の羞恥の始まりを。
「じゃあ、そこの桃に兄さんが入ってたんだ」
興味津々の三郎は、料理を食べ終えると例の桃の傍でしげしげと観察した。三郎は男性の中でも背は高い方だが、この桃は三郎の半分近くはある。川から流れてきたのが十六年前だというのに未だに腐らないので、村人たちが時折お参りするらしい。
「謝憐はそれこそ神の遣いじゃ。いずれ鬼を退治し、英雄となる」
「鬼退治ねえ」
含んだ物言いをしてから横目で謝憐を見れば、彼は言いたいこと百万語は詰めていそうな顔で俯いていた。
村が鬼を嫌っていると謝憐は言っていた。初めて目が合ったとき、彼は目が渇くのではというほど見開いていたので、何故かと思ったが。あのとき既に三郎が鬼ヶ島の者だと気付いていたのだろう。鬼の話を聞かされて育ったのであれば頷ける。
合点がいかないのは、彼が三郎を招いたことだ。この状況も本人としては目も当てられないだろうが、そもそも敵視する存在を村に入れるだろうか。
いや、その前に。
(敵意を感じない)
どうして彼はあのとき、海の向こうを眺めていたのだろう。その背中から敵意や悪意といったものは感じられず、ただその果てをぼんやりと眺めていた。
乗り込んで攻めてくる威勢など微塵もない。
「この桃、どうして半分なの?」
「それが数年前、干ばつで食べ物がなくてのう。苦し紛れに村で分ければ、なんとたったの一口で冬を越せたのじゃ」
「ふむ」
ありがたやと桃に感謝している老夫婦を他所に、三郎は顎に手を当て思案した。ただの桃でないことは一目瞭然だが、話を聞けば聞くほど、どこの桃なのかが気になる。気になるが、三郎の中ではもう殆ど、確信といっていい状態で正体は分かっている。
有名な地の桃だ。まさか知らないはずはあるまい、人間なら一度は聞いたことがあり、足を運んでみたいと思ったことがある。
「信じられないだろうけど、干ばつでの話は本当だ」
考え事をしている三郎が不安になったのか、謝憐が口を開いた。それにくすりと笑ってから、三郎が彼に笑みを向ける。
「疑ってないよ。そういう伝承はあるから」
「伝承……?」
聞いたことがなかった謝憐は老夫婦を見た。だが老夫婦は軽く笑って首を振ると、頃合いだと言わんばかりに食器を片付け始めた。
「さて、儂らもあまり学がなくての」
目を細めた三郎は腕組みすると黙って桃を眺め、それから謝憐に手で外を示した。食器を洗っている老夫婦に気付かれないよう音も立てずに外へと抜け出す。
謝憐が後ろにいるのを確認してから、彼はどんどん家から離れていった。
今からする話はあの老夫婦に聞かれない方がいいだろう。本当に伝承を知らないのか、隠しているのか。あの態度からして後者だろう。言い伝えを人間が伝えるだけならただの言い伝えで済むからいい。しかし三郎は鬼で、謝憐もそれに気付いている。
「なに? 結構家から離れたけど」
川が見えてくると、二人の歩みは自然と止まった。
三郎の目は遥か上流を辿っている。
「兄さんは、自分が何者か知らないんだね」
どきりと胸を鳴らした謝憐は目の前にいる鬼を凝視した。昼と違って雲が流れ、空には月が浮かんでいる。彼の肌は月の光で青白くも見えるが、それが美しさをより際立たせた。
己の出自に疑問を抱いたことはあるが、探究は諦めていた。学を授けてくれる隣村の師は、神や妖の仕業だろうと言っていて、その専門は陰陽師だ。陰陽師がいるところなど限られるから、謝憐もその先の情報を望めなかったのだ。
「三郎は知ってるのか? 伝承って……」
思いもよらなかったところから情報が降りてきた。固唾を飲んだ謝憐は、ふっと力を抜いたように笑った鬼が腰を下ろしたので、何となくその隣に自分も落ち着かせる。
「桃源郷。知らない人はいないと思ってた」
まさか本人が知らされていないとは。
続いた言葉に、謝憐は視線を落とした。村は小さく、閉塞的だ。彼らが得る情報は限られ、謝憐もまた限られた情報しか得ることができない。隠されていることに気付けるほどの情報がなかった。
「桃の林に囲まれた理想郷。争いがなく、善人が住み、満たされ、花も実も尽きることがない。そこに住む者は桃から生まれ、外からは桃源人に選ばれた者だけが入れる」
「そんな場所……」
「ある。少なくとも鬼ヶ島は、十五年ほど前まで交流があった」
十五年といえば、謝憐が拾われて少し経ったころだ。三郎が生まれた年でもある。
「十五……」
急速に謝憐の頭が回り始めた。鬼ヶ島は海に囲まれている。桃はこの川に流れていたのだから、当然上流のどこかの川沿いにあるだろう。この近辺で交流が行われているなら、この村も、隣村だって、何も知らないはずがない。
だがその考えを打ち消すように三郎が続けた。
「庇うつもりはないけど、桃源郷はあまり人里と交流はしない。だから村の人も、桃源郷の存在は知っていても交流はしていないはず。……交流も川やその向こうの陸を使ってたっていうし」
何となく、桃源郷との交流がない理由を察した謝憐だった。人間は欲深いところがある。鬼ヶ島の財宝を狙うなら、桃源郷だって狙うだろう。
そしてただの伝承だった桃源郷は、謝憐の登場により実在する場所となったのだ。
考えたくはない。十五年前まで交流が「あった」ということは、何かがあって終わったということだ。よもや自分のせいで、郷の場所が特定されたのでは。
いや、でも。外の者は選ばれないと入れないはず。
「十五年前、鬼ヶ島はなぜ交流をやめたんだ?」
「さあ。ぱったり連絡つかなくなったんじゃないかな。鬼ヶ島にはどこと何の交流や交易を行っているかの記録が付けられているけど、前触れもなく終わったんだ」
「…………そう」
もしかしたら、自分のせいで知らないうちに郷が滅んだのかもしれない。兄弟たちや、育て親になるかもしれなかった人達もそのときに。
心臓を鷲掴みされたような息苦しさを覚えて膝を抱えると、眉尻を下げた三郎が慌てて慰めてきた。
「貴方のせいじゃないでしょう。好きで川を流れたわけでも、拾われたわけでもない。まだ滅んだと決まった訳ではないし、仮にそうだとしても実行した奴が……」
最後の一言は更に謝憐を刺してきた。勿論、三郎にそのつもりはないだろう。彼は老夫婦の話を聞いたとはいえ、謝憐の事情に詳しいわけではない。
消え入りそうな声が言う。
「実行した奴が悪なら、私も悪だ。君たちを滅ぼしにいくんだから」
鬼退治を実行するよう唆したり、行為を止めなかった奴も悪なら、やはりこの村に拾われた謝憐も悪だろう。
「私が悪い。桃源郷も鬼ヶ島も、私が滅ぼす」
言い切った謝憐はわなわなと唇を震わせるとうずくまった。ともすれば嗚咽が漏れそうになるのを深呼吸で抑える彼に対し、三郎はかえって追い詰めてしまった自分を呪いながら謝憐の肩に手を乗せた。
鬼退治をするよう言われて育った人が、こんなに優しくて、本当は鬼退治を嫌っているとは思わなかったのだ。自分だけが周りと意見が異なる中で生きるのは、きっと息が詰まっただろう。
「……ありがとう、兄さん。僕たちのために泣いてくれて」
「まだ泣いてない」
「え、あそう?」
嗚咽だけだったか、と思ったところでぐすりと鼻をすする音が聞こえてきたので、三郎は瞳を和ませた。どうしてかこちらまで目頭が熱くなってしまい、堪えながら彼の背中をさすってやる。
しかしそれも逆効果だったようだ。
「君に慰められたくない。私がいつか、君を殺しに行くのになんで……」
涙を限界まで溜めた謝憐が瞳に鬼を映した。優しい秋の色をした瞳の鬼と目が合うと何も言えなくなってしまい、悔しそうに顔を歪ませる。
それに微笑んだ三郎は手を伸ばすと溢れた瞬間の涙を拭いた。柔らかい手つきだ。もっと泣いてもいいと言っているようにも、もう泣かなくても大丈夫だと言っているようにも見える。
彼は嬉しそうに、そして少し申し訳なさそうに口を開いた。
「鬼ヶ島は、兄さんだけでは落とせない。僕はむしろ、やって来る貴方の方が心配だ」
「そんなに鬼は強いのか?」
「じゃなくて、貴方が苦しそうだから」
きっと殺したらとても後悔するだろう。彼には鬼を殺す理由がない。彼にあるのは押し付けられた教えと願いだ。
涙を拭いた手が謝憐の頬を撫でてから顎に添えられた。二人の距離が縮まり、謝憐は己の鼓動が跳ねたのを感じた。悪戯っ子のように触れ合う直前で止めた彼が小首を傾げる様は、まるで誘っているようだ。
「兄さん。鬼ヶ島に来るなら、僕が連れて行くよ。どんな島で、どんな生活をしているのか。興味あるでしょ?」
三郎のもう片方の手が、地についた謝憐の手に触れた。指先が微かに触れただけだったが、謝憐の手は驚いてぴくりと動き、それを逃さなかった三郎の手がゆっくりと彼の手を絡め取っていく。
謝憐にはもうどうすればいいのか分からなかった。少しでも動いたらいけないような気がして、息をしているのかも自覚できない。
だが、与えられた選択肢は悪いものではない。それは間違いなかった。どんな島で、どんな生活をしているのか。それは謝憐にとってもう一つの可能性だ。
「どんなところなんだ?」
「ん? そうだな、都に近いよ」
「みやこ……」
謝憐の目が輝いた。縁のない場所だ。あるとしても、そこを訪れるとき謝憐に自由はない。
「一緒に行く」
「良かった。絶対退屈させないって、約束する」
嬉しそうに笑った三郎は、次の瞬間には真面目な顔になっていた。二人の距離が戻る。
「その前に、桃源郷がどうなっているか調べないと。僕はそれを調べにこっちへ来た」
あの距離で何もなかったことに何だか惜しい気持ちになりながらも、謝憐も納得はいった。老夫婦に旅の途中だと言っていたのが気になったのだ。
「なら、調べたら三郎は帰るのか」
「兄さんは十七になったら鬼ヶ島?」
「そうだ。私を拾った日が村の記念日になってる」
うんうんと何かに頷いていた三郎は、まだ絡んだままの指を見て笑った。
時折、先ほどのように相手との距離を詰めることはある。大抵の者はそれで快諾するからだ。だが事が済んでからも触れていたことはない。
「生誕日の贈り物、用意しておくよ。それから……」
一度言葉を切った三郎は謝憐を見つめた。
鬼だと知っても、変わらず接してくれた彼。いつか敵対することに怯えながらも、心を砕いてくれた。嘆いてくれた。
「ありがとう。兄さん」
「私は何もしてない。屋根を提供したくらいだ。正確には、お爺さんたちに提供させた、だけど」
「ふふ。関係ないよ。兄さんの心意気に感謝してるんだ」
「そう? 私も……」
ありがとう、と続けた謝憐はふとあることを思いついて三郎を真剣に見つめ返した。
「あのさ、三郎。桃源郷に、私を連れていってくれないか」
黄金色がゆらゆらと揺れている。不安の混じった、けれど強い光のある目だ。
きっと、そこにある結果がどうであれ受け止めたいのだろう。自分の故郷のことだ、知りたいはず。
これは三郎にとっても都合がよかった。一人では桃源郷の行方など噂や微かな記録を辿ることしかできないが、彼がいれば郷に入れるかもしれない。こういうのは直で見れるに越したことはないのだ。
「そうだね。一緒に行こう」
翌朝、二人は小さな旅に出た。