花怜 鬼と桃源2 更新日10/18 目の前の惨状に謝憐は言葉を失った。本来であればこの家は、畳と木の匂いに包まれ、心地よい静寂に満ちている。
「こんなの……」
だが部屋を満たすのはむせ返るような鉄のにおいと埃っぽさ。同じ静寂でもこちらは生命を脅かすものだった。
「昨日の朝、見知らぬ客が訪ねて来たのよ。朝になっても先生の姿を見ないから、様子を見に来たら既に……」
でもこれ、本当に先生なの?
恐る恐る訊ねた近所の女性は、奇妙な現場から目を逸らした。今でも信じられないでいるのだ。
そこに遺体はない。あるのは1箇所に大きく壁と床に広がる血溜まりと、灰の塊だ。血があるなら確かに人は居たのだろう。だがこれでは、本当に亡くなったのだと思えない。酷い現場ではあるものの、悲しいことに現実味がなさすぎて、息を呑む程度で終わってしまった。
だから最初、家主は争った後どこかに行ったのかと思って村人数人で探していたのだ。
そこで、定期的に訪れる謝憐のお供だった紅い衣の少年が言ったのである。この灰が遺体だと。
二人は桃源郷を目指していたが、何か事情を知っているのではと謝憐の師を訪ねた。まさか昨日何者かに襲われているとは、偶然ではあるまい。
「すみません、少し調べてもいいですか?」
謝憐に頷いた女性は気味が悪そうにそそくさと出ていった。
家の戸が閉まり人の気配がなくなると三郎が口を開く。
「これは鬼火で焼かれた跡だ」
その声音は硬かった。身内の仕業かもしれないからだろう。剣呑に目を細めた三郎は屈むと灰を少し摘み、何かを確認するようにさらさらと下に落としていく。
「昨日の朝……」
「三郎が来たのは夕方だ。桃源郷の調査をすると知ってる鬼が先回りしたのか?」
「だろうね。今燃やしたところで、兄さんと合流すれば桃源郷には辿り着けるのに」
邪魔をしたいならあまりにも浅慮だ。証拠隠滅するにしても、何を隠したかったのかが分からない。
ただ同時に、それが鬼でもある。知恵が回る鬼ばかりではない。そのときの感情で動く鬼もいる。理解しようとする方が無駄だった。
「灰に含まれる残滓からして、犯人は僕の知らない鬼だ。島の鬼じゃない」
手を叩いて灰を払った三郎は、自身も鬼火で部屋の血溜まりを蒸発させると部屋の換気をする。彼が何か他に犯人へ行き着ける情報がないと部屋を漁り始めたのを横目に、謝憐はその場に屈んだ。
鬼は島だけにいるわけではない。都にも鬼は出ると師は言っていた。三郎が鬼ヶ島の鬼を全て把握している口ぶりなのはさておき、師がどこかの鬼の恨みを買っていたとは知らなんだ。
灰だけになってしまった師を見ても、先程の女性と同様あまり死を実感できず、謝憐はぼんやりと跡を眺めた。
故郷もこうなってしまっているのだろうか。灰だけの故郷を見て、自分は何を思うのだろう。思い入れのある師ですらこうなのだ、足を踏み入れたことすらない地にどんな感慨があるのか。
桃源人は善人だという。目の前に死があるのに悲しみもないなど、同じ血がこの身体に流れているとは到底思えなかった。彼らが善人なのは、善人になれる場所で育ったからだ。
あまり情が動いていないことに嫌気がさしていると、不意に三郎が口を開いた。
「どんな人だったの?」
その声に意識を引き戻された謝憐は、記憶を手繰り寄せながらも、自分も手掛かりを探そうと近くの棚に手を伸ばした。
「飄々としている人だ。文武両道で、穏やかだが、狸や狐のような。恨みを買う人ではないと思うんだけど」
師は元々、都から来た人だ。以前、どうして都からわざわざ辺境の地へ来たのか訪ねたことがあるが、彼は「やることができただけ」としか答えてくれなかった。
「そうだね。恨みは関係ないかもしれない。聞く限りだと兄さんの師は、桃源郷に関わる人のようだから」
そうでなければ故意に桃源郷について教えないはずがない。他にも人がいるのに、彼だけが狙われる理由もないだろう。
三郎は桃源郷に関わる人と言ったが、謝憐の中では桃源人だろうと確信していた。
「でも争った形跡はないだろう? その鬼は師の知り合いだと思う」
漁っていた文机を一瞥した三郎は、現場以外は綺麗な部屋に視線を巡らせ、最終的に謝憐の様子を窺った。
師を失っても彼は淡々としている。返ってきた答えからも、彼があまり動揺していないのが窺える。意外と淡白なところはありそうだが、鬼を殺すのを嫌がる人だ。見えないところで傷付いたりしていなければいいが。
何かの記録が書かれた冊子を本棚から見つけた三郎は、ぱらぱらと捲ってから首を捻った。何かの取引の記録だ。場所と依頼主、契約金と日時が書かれている。
「兄さんの先生って、何歳くらい?」
「年齢不詳。いつもはぐらかされてしまう。村の人も誰一人知らないんじゃないか? 容姿を考えると、私が初めて会ったときが二十くらいだとして、三十代かな……」
「ああ、なるほど」
記録に書かれた日時を辿ってみれば、優に百年は前の記録もある。誰かから引き継いだものなのかとも思ったが、字の癖が若干変わりつつあるも似ている。
これは、同一人物による百年以上の取引記録だ。
「桃源人だね。二十代頃に不老期がきて、見た目が変わらなくなったんだ。居場所を転々としているみたい」
「……不老?」
血の気が引くのを感じながら謝憐は三郎を振り返った。だが彼はそれに気付かず別の書を手に取ってぱらぱらと紙を捲っている。
「桃源人は仙人だから」
「待って。じゃあ私も?」
「そうなるね。……大丈夫?」
屈んだまま顔面蒼白になっている謝憐に目を丸くした三郎は傍らに寄ると彼の顔を覗き込んだ。
眩暈がする。と、ぼそりと呟いた謝憐は額を抑えて深呼吸を数えていく。
鬼退治に行って、功績上げて、金持ちになり、都に婿入り。そのあと不老でどう過ごせというのだ。歳を取らない人が都に居続けるのは無理だ。気味悪がられるのが目に見えている。
では、本当に村の人は謝憐をだしに豊かな生活を営みたかったのか。
「どうして師はこのことを教えてくれなかったんだろう」
「さて。一番新しい取引は、今から十八年ほど前みたいだ。この取引だけ走り書きで何か書かれている」
郷を狙う鬼あり。
「十八年前だと、私が生まれる前だ」
「内容からして、村人が取引相手じゃないね。依頼相手は……」
三郎が突然口を閉じたので、眩暈が落ち着いてきた謝憐は眉間を揉みながら手元を覗き込んだ。
島主。
見慣れない単語だが、脳裏に浮かんだのは鬼ヶ島の主だ。
「島主って……」
「鬼ヶ島の島主だ。なるほど、僕はそいつの命令でここにいるんだけど……」
謝憐も思わぬ縁の巡りに口を噤んだ。
つまり、こうだ。鬼ヶ島は桃源郷を狙う者について師に警告と依頼をしていたが、桃源郷と連絡がつかなくなり、数年越しに三郎を寄越した。すると依頼を受けていた師が鬼に殺されてしまった。そしてその鬼は師の知り合いである。
「……桃源郷は、もう残っていなさそうだ」
謝憐は静かに呟いた。
これは勘という名の憶測だ。
外部の者が桃源郷に入るには、桃源人と親しくなければならない。師は恐らく桃源人で、詩を殺した鬼は師の知り合いだ。この鬼が師と親しいのなら、桃源郷にも入れただろうし、好き勝手できたはずだ。
(騙されたのか)
親しくなりつつある三郎をちらと見遣ってから、謝憐は視線を下げた。そしてその瞬間、二人の耳に騒がしい声が届き、顔を見合わせる。
「ちょっと見てくるよ」
ぱっと立ち上がった三郎は謝憐の具合を軽く見て、大人しくしているよう言い残して家の外へ出ていった。
遠くの喧騒を聞きながら、謝憐は血の染み込んだ畳と畳の隙間に指をかけた。
少し気になっていたことがあるのだ。どうして師はここで死んだのだろうと。
畳を持ち上げて傾けると、その上に乗っていた灰が零れていく。人の遺体も気にせずこんなことをするなんて明らかに不謹慎だ。きっと他の人ならやらないだろう。だから謝憐も三郎が席を外したのを機にやっている。
とはいえ、すぐに彼も戻ってくるだろう。そのときの反応をあまり想像したくはない。
完全に畳を壁へ立て掛けた謝憐は、床の隠し戸に目を細めた。ここにこれがあるのを、実は随分前から知っていた。
ただ、中を見たことはない。
固唾を呑んで戸を開けた謝憐は、そこにあった工芸品に目を惹かれた。鮮やかな色遣いの、何かをしまう陶箱のようなものだ。そこには桃の絵が描かれていて、一目でそれが桃源郷で製作されたものだと分かる。
この家は落ち着いていて、あまり色鮮やかなものが置かれていない。その中で一際目につくこれが、師にとっても、己にとっても大事なものなのだと胸が熱くなった。
「わあ。大胆なことしているね兄さん」
音もなく戻ってきていた三郎にびくりと肩を震わせた謝憐は、弾かれたように彼を見た。が、特に彼は口にしたもの以上の感想がないのか、先程までと変わらぬ様子で隠し戸を見下ろす。
「知ってたの?」
「昔から。畳と畳の隙間でつんのめって転んだことがあるんだけど、そのときにね。師が慌てて畳を戻していたのを覚えている」
少し恥ずかしい思い出だが、三郎はくすりと笑っただけで、すぐ陶器へと視線が注がれた。
「桃源郷のものだ。島にも品がある。今は店で見なくなったけど、上品だから皆の家に残ってるんじゃないかな」
「鬼ヶ島に……」
「来たら見せてあげる。僕の家にもあるんだ」
感慨深い話だ。故郷はもうないかもしれないが、故郷で作られたものが鬼ヶ島にある。それだけでも、鬼ヶ島には行く価値があった。
しかしこれでは観光で行くようなものだ。本来なら鬼退治がどうのという話だったのに、一体何がどうなって観光で遊びに行く場所になったのか。
「君に会えて良かったよ、三郎」
「よかった。僕も来た甲斐がある」
陶箱の蓋を開けた謝憐は、中に入っている紙を手に取った。一枚ではない、複数枚の束だ。少し古くはなっているが、何十年も昔というわけではなさそうだ。
広げてみれば桃の香りがふわりと広がる。そこに並んだ文字は誰かに宛てたもののようだ。つまり、文である。悲しいかな筆跡は師のもので、どうやら師は文を書いても出すことができず、ここにしまっていたのだ。
牡丹の君、と始まる文は恋文と思われた。
二人で他人の恋文を読み漁っていくうちに、徐々に状況が読めてくる。これは恋文の形を取った日記のようなものだ。
「牡丹の君というのは、恐らくあだ名だろうけど」
この村に来る前、師は恋に落ちたようだ。そして村に来た後も彼女に想い馳せていた。ちゃんと出せた文もあるのか、会う約束をしていたらしい。
都にいる女性と会うなら、やはり都の方がいいが、師はこの村から離れられなかった。この頃には謝憐が村に受け入れられ、師としても予想外の状況だったのだ。
文を読み進めていた謝憐は、そこで己の出自を知ることになる。
「誰かが運悪く私の宿った桃を落としたなんて……桃を川で洗おうとするな、私は洗濯物じゃない」
「洗濯物?」
「いつもお婆さんが川で洗濯するんだ」
「ああ。それで洗濯物」
口を尖らせている謝憐に三郎は苦笑いした。つまり桃源郷と連絡が付かなくなったのと、謝憐の生まれは、全くの無関係だ。彼は巻き込まれただけに過ぎない。
本当に運が悪いが、彼が気にしていたことが一つ杞憂で済んだことに、三郎も謝憐と同様胸を撫で下ろした。
粗方読み終えたところで二人は状況を整理した。
「師が恋した人こそが鬼だったということか」
「そしてその鬼を桃源郷に招いた。それが計画だと知らずに。滅びた桃源郷に償うために、彼は兄さんを弟子にして育てた」
桃源郷は複数箇所にある。謝憐の故郷と師の故郷は異なる桃源郷だったが、外で活動しているのを理由に、要請を受けてこの村にいた。
だから彼は、同じ目に合わないようにと桃源郷のことを謝憐には秘匿した。一つ疑問なのは、師が秘匿していたのは個人的な理由であり、村人が謝憐に話さなかったのとは別問題ということだ。
「それについては予想がつく。これも多分、兄さんが問題ではなく鬼同士の争いが原因かもしれない。……巻き込んでごめんね」
三郎の表情が心底申し訳なさそうに沈んだので、謝憐は頬を緩めた。
「気にしないで。君が悪いわけじゃ……」
そこまで言ってから謝憐は気付いた。君が実行したわけではないのだから、君は悪くない。そういう意味で言おうとしたのだ。
昨日、三郎は同じように謝憐に声をかけた。巡り巡って、漸く謝憐は三郎がどんな心情でそう言ったのかを知ったわけである。
ただ思い詰めないで欲しかっただけなのだ。少しでも気が楽になって、笑う余裕ができればいいと。
「君が悪いわけじゃない。私も君も」
言い直した謝憐の眉尻は下がっていたが、それでも彼の心情は変わっていた。少なくとも、彼は自分を許すことができたのである。
謝憐の言葉に何かはっとした三郎は瞳を揺らし、何かを決意したように小さく頷いた。