第二部 第四話 『襲撃』「くろがねさん……おつかれでしたー……」
「うぇい、おつじゃした。またよろしゃすおつじゃした。うぇいうぇい、じゃすじゃす」
同僚が足を引き摺るようにして店を出て行った。何とか言葉を返したつもりだけども、正直日本語を喋れていた自信がない。存在しない言語を口走っていた気がする。
今日は散々だった。前回みたいな地獄は、もう向こう半年は来ないだろうと踏んでいた。なのに一週間後に来やがった。週刊少年ジャンプかなにかかよチクショウ。
もう今日は家に帰らずここで眠ってしまおうか……そんな事を考えていた時、スマホが短く震えた。またニーナからのメールだろうかと思ったけれど、違った。
送り主は不明。それは知らないアドレスからという意味じゃなく正真正銘に不明で、非通知と表示されていた。
電話ならまだしも、メールでこんな事ってできるのか?
真っ先に浮かんだそんな疑問はそこに書かれていた内容によって即座に吹き飛ぶ。
『自律思考型電脳人形No.217が、ある組織に狙われています。
自律思考型電脳人形No.217の無事は保証されていますが、逆に橙星あかつきさんは高確率で命を落とすことになります。
しかし黒鉄メタルさん。貴方が行動する事によって、二人とも助かる可能性が生まれると言ったら、どうしますか。
自律思考型電脳人形No.217が、ある組織から狙われている以上、行動を起こした貴方の安全を完全には保証できません。
それを踏まえて、もう一度お聞きします。
貴方が行動する事によって、二人とも助かる可能性が生まれると言ったら、どうしますか』
「なんだよ、これ……」
口から勝手に出た言葉は、自分でも驚くほど言葉は震えていた。
得体の知れない気味の悪さと、逃れようのない現実を突き付けられているような感覚のせいで、呼吸が苦しくなった。
綯い交ぜになった頭の中から疑問を何とか掴み出して形にする。それなのに形にした疑問をぶつける事は出来なかった。送り主のアドレスが非通知設定なせいで、こちらから返信をすることが出来ない。
「どうしろってんだよ……何がどうなってんだよ……!」
焦りと苛立ちのせいで、さらに呼吸が苦しくなった。意識が遠のく様な感覚の中で、スマホがまた短く震えた。送り主は、また非通知。
『答えはそのまま口に出して下さい。
それで、こっちに届きます』
「お前、なんなんだよ……!」
誰なんだよ、ではなく、なんなんだよという言い方に自然となっていた。わからないことだらけの中でただひとつ、このスマホの先に居る存在が人間ではないという事だけは何故だか確信が持てた。そしてまた、スマホが短く震える
『今はまだ、答えられません。
ただ、あなたたちの敵では無いという事だけは信じてください』
スマホに表示されたメールを、まるで喰らいつくようにして読み込んだ。天井を見上げる。ぐちゃぐちゃになっている頭の中を、どうにか鎮めようとする。
そのまま一度、深く呼吸をしたけれど、心臓は全力で走った直後の様に暴れ回ったままだ。
それでも、答えは決まっていた。
「いいさ。お前に騙されてやるよ。俺は、何をすれば良い」
心臓と同じように暴れる思考の端で、俺は何故かあの夜の事を思い出していた。
今夜、俺はロックン・ロールスターなんだ
今夜、俺はロックン・ロールスターなんだ
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あかつきは既に、夜道を歩くニーナの背中を捉えていた。距離は五十メートルほど。こちらに気付いている気配はない。
しかしあかつきは、手の中にある【HPEM ––Generator】の安全装置を外す事すら出来ずにいた。
このまま何かの手違いで、特務の襲撃が来ないまま過ぎてくれるんじゃないか。過激派の作戦は中止になってくれるんじゃないか。
そんな事ばかり、考えてしまう。
もう一度、通信デバイスを確認する。当然の如く、過激派の作戦が中止されたというような報告は届いていない。
そのまま、ニーナの後を追った。
彼女を壊す事も、逆に命令を放棄する事も出来ない宙ぶらりんのまま、その背中を追い続けた。
現実から逃れる様に、もう一度デバイスを見た。不意に、あの楽しかった夜の録音データが目に入ってくる。
Tonight, I'm a rock 'n' roll star
Tonight, I'm a rock 'n' roll star
It's just rock 'n' roll
再生はせずに、頭の中だけでメタルの歌声を思い返す。
それほど前の事では無いのに、とても遠い記憶になってしまった気がした。
もう、あの様には戻れないとわかってしまっているから、そう感じるのだろうか。
視線を前に戻す。ニーナは先程と変わらない距離で前を歩いていた。しかしそのさらに30メートルほど先、そこにあるものを視認した瞬間、あかつきは全身が粟立つのを感じた。
歩いていくニーナの直線上。そこで、夜だというにもかかわらず陽炎のような物が揺れた。それは並の人間であればまず気づく事はない微かなものだ。しかし十分すぎるほどに『それ』を警戒していあかつきだったからこそ看破する事が出来た。
陽炎の正体は文明レベル10の特殊兵装。その名を『電磁光学迷彩』。
もう無理だ。
あかつきも、そう判断した。
上官が判断した通り、ニーナの死守は不可能。
交戦したところで、万に一つも勝ち目はない。
そうなっては、ニーナは過激派の手に落ちる。素体だけではなく、ニーナの人格までもが蹂躙される事になる。
それを防ぐために出来ることは、一つだけしかない。間違っているとわかっていても、さらに間違った結果を回避するために間違うしか道はない。
ニーナを効果範囲内に入れるため、全速力で駆け出した。特務はこちらに情報が漏れている事を知らないはずだ。先手を打てば、出し抜ける。そう踏んだ。
走りながら【HPEM ––Generator】の安全装置を外した。
装置が発動シーケンスに入る。
カウントダウンが、始まる。
『正解も不正解も無いんだよ。そこまで世界は残酷じゃないし、単純でもない。』
カウントダウンが三秒を切った時、あかつきの頭に、誰かが言った言葉が浮かんだ。
これは、誰が言った言葉だっただろうか。
『さっき俺とメタルさんがやった事だって、正解かなんてわからないよ。ただ、そうしたかったからそうしただけ』
ああ、これは––––これは、俺だ。
あの幸せだった夜に、俺が、言った言葉だ。
自律思考型電脳人形No.217が、【HPEM ––Generator】の効果範囲内に入った。
カウントダウンが、終わった。