金木犀と物書きのなり損ない 小説というものに出会った時、私はそこに『堕ちた』。
義務教育時代、私には人権が無かった。いや、剥奪された覚えはなく日本国籍も持っているのだから間違いなくあったのだと思うけれど、認識されてない以上は無いものと何ら変わりが無かった。
当初は、どうにかしようと思っていたと思う。抵抗していたと思う。戦っていたと思う。
けれど遊びと称されたリンチから逃れる為に隠れた図書室で『堕ちた』とき、それまでの努力が全て馬鹿馬鹿しくなった。
その世界は、美しかった。
喜びも
怒りも
悲しみも
楽しみも
その世界には、私の望む全てがあった。
嘆きでさえも、諦観でさえも、絶望でさえも、美しかった。
深く、深く、すうっと、その世界へ堕ちていく感覚が、その時の私にはあった。
それからは、それこそが私の世界になった。
現実の醜い世界を認識上で完全に切り捨てて、その美しい世界に、何度も、何度も、すうっと、奥深く沈むように、堕ち続けた。
堕ちていた意識が戻ってくるのを感じた。
正しく言えば、集中力が途切れて現実に引き戻されてしまった。
書きかけの原稿を見ている目が途端に霞み始めた。
執筆中の場面は完全に途中であり、まだ小休止には切りが悪かったけれど、こうなっては仕方がない。こういう状態で書き続けた所で、後で修正する手間が増えるだけなのを私はよく知っている。
昼寝から目覚めたばかりの猫のようにゆっくりと伸びをする。すると、身体の節々から音が鳴った。
首を回しながら、視線を横に向ける。
閉まっている窓越しに外を見た。
暦としては秋に入り、空も高い。気を失いそうな青空の中に、どこか気の抜けた雲が気持ち良さげに浮かんでいる。いま散歩に出たら、とても気持ちがよさそうだ。
進捗的には締め切りに余裕もある。行こうと思えば行けるし、精神衛生上の観点で言っても効率上の観点で言っても、散歩に出るのはそう悪い話じゃない。そう、一般的に言えば。
ただ私に関してだけ言えば、そうじゃない。
この時期に外に出るという事は、出来ない訳ではないがあまり進んでしたくはない。金木犀の香りが鼻に入り込んでくるうちは、外を出歩きたくはない。
結果として適当に胃に物を入れ、仮眠をとる事にした。眠気があった訳では無いけれど、そうすれば『彼女』の夢を見られるかもしれないから。
それだけを期待して、横になった。
正直、思う。
彼女を知る前の記憶なんて、無くなってしまって構わない。
それ以前の記憶は、私の行動を制限するトラウマが大半を占めているのだから。
金木犀の香りだってそうだ。
あの香りを嗅ぐと、思い出してしまう。
当時大事にしていたウィリアムモリスの本を、リンチの末に沼へ投げ捨てられた日のことを。『これは、今だけなんだ。今を耐えれば、将来はきっと報われるんだ』と、あるはずの無い薄っぺらな希望に、金木犀の香りの中で縋ったあの時の事を。
それから大人になり、上司から罵声を浴びながら無能扱いされ続けたある日に、その金木犀の香りを嗅いでしまったあの時の事を。『報いなんてなかった。死んでしまうなら、今日だ』という結論に至った、あの日のことを。
きえろ。
きえてくれ。
たのむ。
たのむから。
彼女を知ってからの記憶だけでいい。
俺の過去なんて、なんの価値もない。
「あぁ……」
思考がまどろんでいく中で、あの『堕ちる』ような感覚があった。
夢の中に彼女が出てきてくれる。
そんな気がした。
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秋の空は高いという話がある。しかし、実際のところそんな事はない。空気の関係上、そういう風に感じるだけであり、むしろ他の季節よりも低くさえあるらしい。まあ、あくまで聞き齧りの知識だけれど。
コンビニで買った缶コーヒーを啜りながら、あてもなく歩く。執筆中の息抜きはこれが一番良い。
部屋の中に居るとどうしても『書かなければ』という強迫観念に駆られてしまうものだし、それによって書かされた物は須く良いものにはならない。たまには書けない状況に身を置くことも、普段は手に取る事もない嗜好品を買うことも、時には必要なのだと最近わかってきた。
とはいえ、流石に買い過ぎてしまった。常温保存できるお菓子は良いとして、アイスを5個も買い込んでしまったのは考えるまでもなく多い。いや、いけると思ったのだ。一つ目を食べ終わる前までは。
「まいった……」
苦労の末に3個は胃に入れたものの、残りは中々に厳しい。と言うか既に厳しい。正直もう少しブラついてから帰りたかったけれど、そんな事をしたら秋とは言えアイスは見るも無残な形に変わり果ててしまうだろう。食べ物を粗末にするのは心苦しい。仕方なく、一度家に帰ることにした。
無計画な自分を軽く呪いつつ帰路につくと、前方に見知った後ろ姿があった。私のアパートの隣室に住む女性だった。
声を掛けても良いものか、少し迷う。いや、挨拶くらいなら誰にも咎められないはずだ。きっと。たぶん。
少し早歩きになり、その背中を追い越す。
「あ、こんにちは」
そこで声を掛けた。まるで今気付いたという風に。
彼女は一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐに歩くのを止めて「こんにちは」と笑ってくれた。
その笑い方はやはり覚えのあるものに違いはなかった。いや、隣室の女性で間違いなかったという意味だけじゃなく、別の場所での彼女を、私は知っている。彼女が人間では無いことも、また知っている。
けれど、それを気付かれてはいけない。何事にも超えてはならない一線というものはあって、それを超えるか否かが『ファン』と『自分をファンだと勘違いしている無法者』の決定的差だと確信している。
「調子に乗ってアイスを買い過ぎちゃって。でもうちの冷凍庫、もういっぱいで入らないんです。良かったら貰ってくれませんか?」
アイスの入ったビニール袋を軽く持ち上げ、嘘を言った。
私は多くは望まない。観測者の一線も、隣人の一線も越えるつもりはない。
そのうえであっても、彼女の視線が少しでも欲しいと願うことは罪なんだろうか。それについては、あまり考えたくはなかった。
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明らかにアイスの食べ過ぎで腹が痛い。それでも私は笑顔が引き攣ってしまわないよう事に全神経を注ぎつつ、モナカアイス(チョコ無し)を齧っていた。
苦しさのあまり、どうしてこんな思いをしてアイスを押し込んでいるのかという疑問が浮かびかけた。しかしそれは一瞬も間も無く消え去る。
ロケーションは近くの公園のベンチ。
空は気を失いそうな程に青く、呑気に浮かぶ雲がとても牧歌的だ。
吹いてくる風に湿っぽさはなく、それでいて寒くもなく心地良い。
ちらりと横を見る。
横には先の女性がいる。
手には自分と同じモナカアイス(あちらはチョコ有り)。
ああ、完璧だ。完璧すぎる。
腹痛と、金木犀の香りが漂ってくる事を除けばこれ以上に幸せな空間が果たして地上に存在し得るのだろうか。
だからこそ聞くが、腹痛如きでこの空間を逃すことがどうしてできるだろうか。
『二つも貰ったら悪いので、一緒に食べませんか』という誘いを、腹痛如きでどうして断ることができるだろうか。
親兄弟や近しい人が危篤だったりしたなら流石にそっちを優先するけれど、自分が死にそうな程度の事だったら確実にこっちを選ぶ自信がある。
なにかおかしな事を口走っているような気もするが大目に見て欲しい。あまりの嬉しさで錯乱しているんだ。
しかし、浮かれ過ぎたせいか、私は世間話の中で完全な失言をしてしまう。
「今日はお休みだったんですか?」彼女の何気ない言葉に、馬鹿正直に答えてしまった。「いや、恥ずかしながら今は失業中でして。なので、最近は賞に応募するための小説を書いているだけですよ」
小説、そして失業という単語を聞いた途端、彼女の表情が微かに変わったような気がした。その二つの言葉は私が私であると直接示すものではないが、それでも結び付けるキッカケとしては十分すぎた。
話題を変えるために頭を回した。私が私であるとバレてはいけない。この一線は意地でも超えてはならない。私は遠くで見守る一介の観測者で居続けなければならない。
「小説、好きなんですね」
「嫌いですよ」
私の吐いたその言葉に対して、彼女は驚いているようだった。そんな顔をさせてしまった事に対し、純粋な責任を感じてしまう。しかしそれ以上に、言った私自身が驚いてしまっていた。
その私の声には自分でも驚く程に抑揚がなく、そもそもとして言おうとして言った言葉ですらなかった。脊髄反射的に、小説に対しての呪詛を吐いていた。
沈黙。
話題を探す。
しかし牧歌的な雰囲気が恨めしく思えるほどに、その場の空気は壊れてしまった。
いや、私が壊したのだ。
話題を探す。口を動かそうとした。頭を動かそうとした。
それなのに、全く動かない。
口も。頭も。
いや、頭は動いた。
勝手に、動いた。
勝手に、あの時の記憶がぐるぐると頭を駆け巡った。
「……私にとって、小説の世界こそが私の居場所でした。そんな学生時代を送った私が小説家を志すのは無理もない話で、高校を卒業する頃には既に幾つもの賞に応募していました」
もう彼女の姿を見る事は出来なかった。
頭を抱えるように、俯いて、壊れた機械のように言葉を吐く。それしか私は出来なかった。
「私には小説しか無かった。だから、小説ならば認められると思った。そうでなければ、あんな地獄を見せられた意味がない。小説家になるための必要事項として、あの地獄があったんだと、そればかりを考えて書き続けた。」
胃から内容物が迫り上がってくるのがわかる。口の中に酸味が広がる。それでも、私の口は止まらなかった。
それが、なにを求めての行動であるのかは自分でもわからない。
「『自分の世界を肯定してもらいたい願望の発露にしか見えない』『読み手は興奮、感動を求めている。つまり自分のために読んでいる。筆者の世界を肯定するために読んでいるのではない。』……とある賞の最終選考に残った際の、選考員からの一文です。」
言葉が上手く出ない。
「私は、挫けたんです」
目から勝手に涙が溢れ出て地面に落ち始める。
「図星だったからです。才能なんてなかった。私にあるのは醜い自己愛と承認欲求だけだった。それを思い知らされた瞬間、私は一切小説が書けなくなった」
私は、なぜこんな事を話しているんだろう。
「でも、小説を書けるようにしてくれた人がいるんです。その人のおかげで、私は初めて自分以外のために小説を書く事が出来たんです。」
あぁ……そうか
「俺がこれまで歩いてきた道のりには、何の価値もない。ただ、それでも、そんな俺がもし賞を取れたなら、初めて価値を得られる。その人に、価値を示して礼を言う事ができる。その人にどうしても喜んで欲しくて、俺は––––」
俺は、この人に、お礼が言いたかったのか。
「帆立さん」
声が、聞こえた。
私が、とても好きな声だ。
何度も、何度も、私を救ってくれた、優しい声だ。
「価値がないなんて思わないで。自分が歩いてきた道に価値は見出せないかもしれない。もし仮に、これで受賞出来なかったら、そう強く感じると思う。」
俯いたまま動けないでいる私の顔に、彼女の手が触れる。そのまま、顔を持ち上げられる。
「でも、それだけの道を歩いてきた帆立さん自身に、価値がない訳ないじゃん」
金木犀の香る公園の中で
彼女は、私と同じように泣いていた。
でも、それ以上に、笑ってくれていた。
あぁ、だから、だからおれは––––
「だから、帆立さん。またね。また会おうね。」
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眠りから覚めた私は、しばらく開けていなかった窓を開ける。
金木犀の香りは、もう忌むべき存在ではなくなっていた。
あの香りで、ニーナさんを思い出せるから。
さあ、小説を書こう。
とびきり良いものを書こう。