「恋人として!もう一歩先に、進みたいと思うのだが!」
煉獄さんからそう告げられたのは、吹く風にも乾いた涼しさが混ざりはじめた九月の縁側でのことだった。
「一歩先、ですか」
突然に放たれた懇ろ宣言を俺は、片手にみたらし団子というとても情けない格好で受け止めた。任務の合間に煉獄さんの館で稽古をつけてもらい、その小休止に千寿郎くんが淹れてくれた熱い茶と団子を満喫していたところだった。
「君と恋仲になってはや半年だ!そろそろ、進展をしてもいい頃合いだと判断した!」
「はあ……」
今年の春に紆余曲折を経て恋仲となった俺と煉獄さんだが、任務が忙しすぎてろくに顔を合わせないまま半年が過ぎてしまっていた。
たまに互いの都合を擦り合わせることができてもほとんどの時間が鍛練に消えてしまうから、季節を二つ越えたあとも俺たちの関係は以前となんら変わってはいなかった。
「やはり、気が進まないだろうか?」
「え!あっ、いえ、そうじゃ」
予想外の申し出についぼんやりして返事を忘れていた。はっと我に返れば、判断の早い煉獄さんはすでに俺の答えを否と受け取ってしょんぼりしてしまっていた。
(ああぁ――――!違うんです煉獄さん!)
嫌だなどと思うわけない。むしろ願ったり叶ったりなんです。
(だって煉獄さん、二人きりになってもそういう感じがぜんぜん無かったしっ)
そりゃあ時々は手を握ったり、微笑んでくれたりとかはあったけど。それくらいは前から普通にあった。
煉獄さんの恋人になれた時、俺はどうしようもなく浮かれていた。奇跡みたいな幸福が自分におとずれたことに心から感謝した。そしてこの先に待つ、あれやそれやに思いを巡らせていたのだ。
それこそ飽きるほど何度も何度も。
なのに付き合うと決まったあとも煉獄さんの態度はまったく変わらなかった。どれだけ時がたっても、どんな状況であっても。そうして自分の勝手な期待を弾かれた回数が十を越えるころ、俺は期待することをあきらめた。
煉獄さんの中で同性と付き合うということは、これくらいの距離感を保った上に構築されているんだ。そばにいられるだけで幸せだと満足しなくちゃ。
過度な接触なんて求めるべきものじゃない。そう言い聞かせてきたのに。
(今さら先に進みたいなんてっ)
こちらはとうの昔にけりをつけたはずのものを今さら蒸し返されても。そんな憤りがむくむくと頭をもたげる。ここで俺がやんわりと接触を拒んだら、煉獄さんはどう反応するんだろう、なんて意地の悪い考えまで浮かんでくる。
「そう、だな……。俺が勝手にそう思っただけで、君はまだ心の準備もできていなかっただろう」
「え!?あの、煉獄さ」
「性急にことを進めた俺が悪い!すまなかったな!今の言葉は忘れてくれ!」
「ちょっ――――待って!!」
勝手に自己完結しかけている煉獄さんの言葉に思わず怒鳴っていた。しまったとすぐさま後悔したがあとの祭りだ。恐る恐る煉獄さんの方を見れば、尻尾をつかまれた猫みたいに目を真ん丸にして固まっていた。
「俺もっ、……煉獄さんと一緒に、この先へ進んでいきたいんです。嫌なんじゃなくて、もう諦めてたから驚いたんです。恋人なのに触れあえなくて本当は寂しかったから――」
勢いにまかせて吐き出した俺の気持ちを、煉獄さんは黙って聞いてくれていた。やがて小さくそうかと呟くと、安心したように顔を綻ばせた。眉尻がへにょりと下がった、気の弱そうなその顔は、俺が一番大好きな煉獄さんの笑顔だった。
「ありがとう竈門少年。俺の我が儘を受け入れてくれて」
「俺がしたいって思ったんです!我が儘なら俺のほうが――」
一歩もゆずらない覚悟で食い下がる俺と煉獄さんは、しばらく言い争ってから小さく吹き出した。
「どちらも望んでいるなら、もう遠慮はいらないな!」
「はいっ!」
元気に答える。見つめあった俺の顔も、煉獄さんの頬も、興奮で赤くなっていた。
「竈門少年――――いや、炭治郎」
「煉獄さん」
もうなんの遠慮もいらない。真っ赤になっているであろう顔に満面の笑顔で俺と煉獄さんは、同時に口を開いた。
「君を抱きしめたい!」
「接吻がしたいです!」
その時、直前まであれほど濃厚に漂っていた甘い空気がまばたきのうちにひとつ残らず消え失せた。時が凍りつく。そんな瞬間が存在するのだと、人生で初めて俺は体験することになった。
「……」
「……」
再び無言で見つめあうことふた呼吸のち、かっと目を見開いた煉獄さんが叫んだ。
力強く、威厳に満ちたその声が告げた言葉の、一言一句をたぶん俺は一生忘れない。
「接吻はまだ心の準備ができていないので無理だ!!」
終)