薄明光線1
そのアダルトグッズショップはいかにも治安の悪い街の裏通りの、ビルの1階にあった。
実際に訪れる客は1日に数名居れば多い方で、売上の大部分はネットからの注文であり、店長である伊黒小芭内の主な仕事は注文リストを見てダンボール箱に卑猥な玩具や衣装やローションを詰め込む事だった。
最初は嫌悪感で吐きそうだった仕事も今では心を無にしてさっさと終わらせる。時間が出来れば事務所の棚に設置した水槽からペットの白蛇、鏑丸を出してやり戯れるのが唯一の癒しだ。
彼が訪ねて来たのは梅雨が明けた頃の夕暮れだった。いつものように閉店作業に取り掛かろうとした所に、汚れたガラス戸を開けて金髪の男が入ってきた。
一目見て、髪色こそ派手だがいつものような品性の無い客とは違う、と感じた。焦茶のスラックスと半袖のワイシャツをきっちりと身につけたその男は、金と赤の瞳で真っ直ぐこちらを見据えながらレジカウンターの前までやって来ると、尋ねた。
「俺は煉獄杏寿郎だ!君の名前は!?」
声の大きさに驚いて、小芭内は左右異彩の瞳を見開いた。
不躾な客の対応には慣れている。普段なら突然名前など聞かれても完全に無視するかネチネチと嫌味を言って追い返す所だ。しかしレンゴクキョウジュロウと名乗る男の勢いに押され、思わず素直に答えてしまう。
「伊黒小芭内‥‥」
「うむ、そうか!」
男は大きく頷くと、次いで神妙な面持ちで呟いた。
「ではやはり、君も伊黒家の一員なのだな」
「‥‥‥‥!」
小芭内はその言葉にレンゴクが伊黒家の事を探りに来たのだと察する。
伊黒家は裏社会と繋がりの深い一族で、このアダルトグッズショップも一族が経営しているものだ。自分はあくまで商品の販売をしているだけだが、商品の中身がパッケージ通りなのかは怪しい、というか生家の者達の所業を見るに間違いなく違法な物も紛れているだろう。
もし内偵と思しき人間が訪れた場合、レジカウンター下のボタンで2軒隣のビルから用心棒を呼ぶよう、小芭内は命じられていた。
しかし何故かボタンを押す気になれない。理由は分からないが、この男に怪我をさせたくなかった。
「──だったら何だ?ここはお前のような毛並みの良い人間の来る場所じゃない。直ぐに帰れ」
そう言って睨みつけるも、男は全く動こうとしない。早く帰らせなければ用心棒の方からこちらにやってくるだろう。焦れた小芭内はメモ用紙に「用心棒が来る。すぐに店を出ろ」と書いて見せた。
「成る程!」
メモを見ても尚動こうとしない男は、納得したように頷くと、よく通る声で思いがけない事を言い出した。
「この店には監視カメラが多いが向きがやや不自然だ。それに君が筆談を使うという事は音声も記録されている‥‥カメラは客より、君を視ているんだな」
正にその通りだった。用心棒達の基本的な仕事は小芭内が逃げ出さないかを見張ることで、厄介な客をあしらうのはその間に挟まる余興のようなものだった。
小芭内は驚きと同時に、更に焦って言った。
「っいいから早く‥‥!」
行け。そう言うよりも早く、店の外から複数の足音が響いてきて、柄の悪い男達が出入り口に立ち塞がった。そのうちの一人が荒々しく扉を開けて店に入ると、レンゴクの肩に手をかける。
「兄ちゃん、只の客じゃねえな?ちょっとツラ貸してくんねえか」
「承知した!」
その場に不釣り合いな笑顔で答えたレンゴクは男に促されて店の外に出る。途端に待ち構えた男達による恫喝と暴行の音が聞こえ始めた。
小芭内が身を竦ませていると、店内に残っていた男はレジカウンターの中に回り込み、小芭内の肩を抱いて耳元で囁いた。
「何でさっき直ぐにコールしなかった?ああ?後で覚えとけよ」
ひとしきり小芭内を脅すと、男は悠々と店の外に出る。途端に「何っ!?」と声がしたかと思うと、全ての音がぱたりと止んだ。
小芭内は何事かと店の外に出る。薄暗い店内と違って初夏の日差しが差す路地裏、そこに広がっていた光景は、地面に転がる用心棒達と、凛と立つレンゴクという信じられないものだった。
小芭内に背を向けて立っていたレンゴクはゆっくりと振り向くと、「煩くしてすまなかった!」と笑いかける。小芭内は思わず道にへたり込んでしまった。
「大丈夫か!?」
レンゴクはそう言いながら腰を抜かした小芭内に手を差し伸べる。その温かな温度に我に返った小芭内は「大丈夫なわけあるか!」と一喝した。
「お前、自分が何をやったか分かっているのか?偵察してボコられて帰るならまだマシだ。返り討ちにするなんて、命知らずの馬鹿がやる事だぞ!?」
「うむ、ひとまず元気そうだな!」
「何を脳天気な事を‥‥!こいつらの帰りが遅かったら上がまた人を寄越すに決まってる。お前の顔もカメラに映ってるんだ。奴ら何処までも追ってくるぞ!」
「よもや!つまりまだ危険な状況は続いている訳だな!」
「だからそう言って‥‥どうするつも──」
と、言葉が終わらぬうちに突然ふわりと視界が高くなった。レンゴクに抱き抱えられたのだ。
「ならば、共に逃げよう!」
「はぁ!?」
あまりに唐突な展開に小芭内はパニックになる。暫くの間アホかバカか離せおろせと抵抗するが、逞しい腕は小芭内を捉えたままびくともしない。
そうするうち、ふとレンゴクは真剣な表情になって言った。
「君が此処に居たいのなら別だが、俺にはそうは見えない」
その言葉に、小芭内は身体を強張らせる。
小芭内が常に外さない黒マスク。その下には12の時に負った切り傷がある。それは小児性愛者に大金で売られそうになった際に自分で付けたものだ。
傷物になった自分はキャンセルされ、以来一族から虐げられて生きてきた。
成人しても自由になる事は許されず、如何わしい店の切り盛りを監視付きで任されている。
一族は傷を負ったとはいえ、希少な左右異彩の瞳を持つ自分にまだ売れる可能性を捨てきらず束縛している。この先誰かが自分を買うとしても、売れずに商品価値が無くなっていくとしても、どちらにせよ未来には絶望しかない。
「嫌だ」
小芭内は消え入りそうな震える声で呟いた。
「こんな所、居たくない。──自由になりたい」
初対面の何もかも規格外の男に押し殺していた感情を吐露するなんてどうかしている。けれどもレンゴクは力強く頷くと、人一人を抱えているとは思えない速さで店へと戻り、事務所の水槽から昼寝中の鏑丸を取り出して再び走り出した。
「え‥‥何で鏑丸の事‥‥っ!」
まるでレーシングカーに乗っているような感覚の中、片手で鏑丸を抱きしめ何とか尋ねる。
「それは追々説明しよう!」
鏑丸の件も含めて、聞きたい事だらけだ。だがそれは今じゃない。小芭内はこの猛スピードに振り落とされないよう、レンゴクのシャツをしっかりと握りしめた。
2
人間離れしたスピードで移動を続け、2人がとあるマンションの一室に入った頃には辺りは暗くなっていた。あまり物の無い部屋のソファに優しく下された小芭内が見上げると、レンゴクが慈愛に満ちた瞳でこちらを見つめている。そんな目で見られた事が無かった小芭内は黙ったまま、ぱちぱちと瞬きをした。
「今夜は少し冷えるな、何か暖かい飲み物でも淹れよう」
レンゴクは小芭内に薄手のブランケットを渡し、台所でココアを淹れて戻って来る。マグカップを受け取り、
温かなそれを両手で包み込んで、小芭内は尋ねた。
「レンゴクといったな。お前、俺が逃げたいと言ったからって何故ここに連れてきた?俺はトラブルの種でしかないぞ。しかも──」
と、マスクを外し、口の端から頬を裂く傷を見せ、自嘲気味に続ける。
「醜くて大した利用価値も無い」
常に親族から言われている言葉をそのまま呟くと、レンゴクの顔が曇り、大きな右手が顔の近くに降りてくる。親族やその手下に暴力を振るわれる事もある小芭内は咄嗟に身を固くするが、レンゴクは小芭内の頰にそっと触れ、一言、「痛かっただろう」と言った。
見下されるのも憐れまれるのも嫌いだったが、その言葉はどちらでもなく、心の奥にすっと届く響きがあった。
「失礼」
と、レンゴクは小芭内の頬から手を離し、自分もソファに腰掛けると「飲まないのか?」とココアを薦めた。それで一口飲むと、小芭内は顔を軽く顰めた。
「──甘すぎる。砂糖を足したか?」
「ああ!実家の習慣でな!」
好みじゃないはずの甘さが今は心を落ち着かせる。仕舞いには涙まで滲んで来て、小芭内はレンゴクに見られないようフイと横を向いた。
少しして、レンゴクは再び口を開いた。
「君と鏑丸を連れて来た理由だが‥‥その前に一つ頼んでも?」
「何だ」
「小芭内と呼んでいいか?」
「好きにしていい」
「それと、俺の事は杏寿郎と」
「‥‥一つじゃないな」
「む、しまった」
「まあいい。それで、杏寿郎、お前が俺を連れ出した理由は?」
「それは──」
と、杏寿郎が口を開いた所で、彼の朗々とした声に負けない音量の腹の音が鳴り響いた。
「失敬!俺が君を‥‥」ぐううぅ
「連れて来たのは‥‥」ぐうううぅぅ
「待て、後で良いから。何か食え」
今説明されても主張の強すぎる腹の音のせいで話に集中出来る気がしない。
小芭内がそう言うと、杏寿郎はホッとした顔で「面目無い!」と頭を下げた。
「では何か買って来る。少し待っていてくれるか?」
「買いに行くのか?」
「ああ、料理はからきしでな。君の分も何か買ってこよう」
杏寿郎はそう言って立ち上がる。しかし小芭内は彼のシャツをクイ、と握って引き止めた。
「小芭内?どうした?」
「あ‥‥デ、デリバリーじゃ駄目なのか?」
「そうだな。此処には郵便物も届かないようにしている位だから‥‥」
「じゃあ俺が何か作るから」
「それは嬉しいが材料が何も無いんだ」
「だったら‥‥俺も一緒に行く」
「いや、君は数日は出ないほうが」
押し問答しながら次第に上着の裾を握りしめる手に力が籠っていく。
杏寿郎はそれを見て尋ねた。
「1人は嫌か?」
少しの間を置いて、小芭内はこくりと頷いた。
「分かった!」
杏寿郎はそう答えるとスマホを取り出して玄関先に移動し、どこかに電話をかけ始めた。
「ああ、牛丼を10人前と、サラダと──」
先程デリバリーは使えないと言っていたのに結局使うのだろうか。だが妙に親しげな口調な気もする。
首を傾げた小芭内の顔に、胸元から出てきた鏑丸がそっと寄り添った。
3
「ありがとう──!」
「おう、で、例の──」
「眠ってしまった。急に連れてこられて──」
「なんだよ!ド派手な目を生で見られるかと──」
「しっ、静かに!小芭内が──」
「お前の声もデカ──だよ。て──か──」
煩い。しかし眠気が勝る。
デリバリー(?)を待つ間、杏寿郎に渡されたブランケットを羽織ると次第に眠気に襲われ、食事が届く頃には座り心地の良い大きなソファで眠ってしまっていた。玄関先の賑やかな会話に少し意識が浮上したものの、眠気に負けて薄く開けた瞳を再び閉じた。
目が覚めるとベッドだった。
見慣れない天井を暫くぼんやりと見ていると、昨日の出来事が怒涛の如く思い出されて小芭内は跳ね起きた。カーテンの向こうが明るい。一体どれだけ寝てしまったのだろう。
杏寿郎の姿は寝室には見当たらない。そこで小芭内は一緒に寝ていた鏑丸を連れて部屋を出た。
寝室の扉を開けると廊下を隔ててリビングに通じると思しき扉がある。それを恐る恐る開けて覗き込むと、昨日寝落ちしたソファの背面から明るい黄色の髪がはみ出していた。
杏寿郎が居る事に無意識に安堵しながら近寄ると、彼は静かに寝息を立てながら、座ったままソファで眠っていた。
少し躊躇ってから「おい」と声をかけると、杏寿郎はすぐさまカッと目を開いた。
「うむ!おはよう!」
挨拶するなり立ち上がり、杏寿郎は寝起きとは思えないシャッキリした様子で話し出す。
「よく眠れたか?昨日の残りで悪いが宇髄が買ってきてくれた牛丼がある!それを朝食に──」
と、指し示した先には3つの牛丼の容器があった。
「君がいくつ食べるか分からないから3つ残したんだ。どうする?」
朝は弱い小芭内はその問いかけに少々混乱する。
普通は1つだし3つのうち1つは杏寿郎の分として、彼は昨夜おそらく10個の牛丼のうち7個を平らげている。そんな男が朝食に1つの牛丼で足りる訳がないだろう。
寝起きに牛丼問題(?)を突きつけられて言葉に詰まっていると、杏寿郎が覗き込んできて言った。
「どうした?体調が優れないか?」
「いや、そういう訳では‥‥俺は朝はあまり食べない。そこの汁物を貰うから、牛丼はお前が食べてくれるか」
キッチンに味噌汁らしきテイクアウト容器があるのを見て、小芭内はそう答えた。
「よもや!君はそれだけで足りるのか?」
と心配しつつも、何処となくホッとした様子の杏寿郎に可笑しさが込み上げてくる。
きっと彼は朝も常人の何倍も食うんだろう。食の細い自分とは正反対だ──
「平気だ」
ふ、と微笑んで小芭内はテーブルに着いた。昨日の味噌汁だけの朝食でも、それはいつもより美味しく感じられた。
朝食を終えると杏寿郎は真面目な顔になって口を開く。
「昨日は話せなくてすまなかった。俺が君を連れ出した理由だが、近々あの店に調査が入る。それに君を巻き込みたく無かったんだ」
「調査?」
「ああ、以前から偵察は入っていたが、5日後に本格的な調査を行う」
彼の言葉は俄かには信じ難かった。
小芭内が店長を無理やり任されているアダルトグッズショップを含め、あの一体は警察も迂闊に足を踏み入れない場所だ。少しでも怪しい動きをすれば直ぐに屈強な男達に囲まれる。調査どころか偵察すら困難な筈だ。
「──お前は警察の人間か?」
「いや、探偵だ」
「探偵。一介の探偵がどうやって‥‥」
「信用できないか?」
「ああ。以前から偵察が入っていたというのも信じられん」
「──少し待ってくれ」
杏寿郎はそう言うと徐に立ち上がり、ベランダに面した窓を開けて口笛を吹いた。すると狭く開けた窓の隙間から湿気を帯びた風が吹き込み、同時に何か茶色い塊が飛び込んで来た。
「おはよう、うこぎ!」
うこぎ、と変わった名で呼ばれたそれがテーブルの端に着地して、小芭内は目を丸くする。雀だ。何処にでもいるような──だが。
「あの時の雀か」
うこぎは小芭内の問いかけに返事をするようにチュン!と鳴いた。鏑丸に怯える様子が無い所も以前店に迷い込んで来た雀と同じだった。
あれは1ヶ月程前だったか、ふと足元を見ると雀が居た。外に出してやっても飛び立つ様子が無い事から弱っているのかとバックヤードに箱を用意して数日面倒を見たのだ。
「まさか、雀が偵察を‥‥?」
「うこぎには普段の君の様子を観察するよう頼んだ。彼はとても賢いし、羽毛の中にカメラも仕込んでいる」
「カメラ?どこに‥‥」
思わずうこぎに手を伸ばすが、彼はそれは企業秘密とばかりに杏寿郎の肩に飛び移る。
「俺は彼らの報告を受け、君が伊黒一族の「仕事」に深い関わりはないと判断した。調査が入れば戦闘になる可能性が高い。君に危険が及ぶのは何としても避けたかった」
店から脱出する際に杏寿郎が鏑丸の事を把握していたのは「うこぎ」の偵察があったから。頭では理解出来てもやはり信じ難い説明に小芭内は暫し黙り込む。
自分が伊黒一族の真にどす黒い部分を知らないのは事実だが、だからといって何故自分を連れ出す必要があるのか。たとえ戦闘に巻き込まれた所で杏寿郎には関係無いのに──
「──帰る」
「よもや!?」
突然帰ると言い出した小芭内に驚き、杏寿郎が椅子から腰を浮かす。
「昨日はついあんな事を言ってしまったが、家の者はどこまでも俺を探すだろう。このまま此処に居ては迷惑がかかる」
「迷惑なものか!」
ダイニングテーブルの向かい側から手を伸ばし、杏寿郎は小芭内の両手を包み込んで訴える。
「君の親族が追っ手を向ける事など最初から想定済みだ。その上で俺が君に選ばせたんだ。必ず守る。だから安心して此処に居て欲しい!」
「だが‥‥‥‥」
「頼む!俺だけでは頼りないかもしれないが、仲間も大勢居る。君を危険に晒すような真似は決してしない!」
「仲間‥‥昨日電話していた相手もそうか」
「ああ、彼は宇髄と言って本当に頼りになる男だ!嫁が3人居て──」
と、その時杏寿郎の言葉を遮るようにチャイムが鳴った。
「宇髄だ!丁度いい、紹介しよう!」
握りっぱなしだった手を離して、杏寿郎は玄関の方に向かう。
「嫁が‥‥3人?」
聞き捨てならない言葉に小芭内が眉を顰めていると、直ぐに杏寿郎が戻って来る。その後ろには見たこともないような派手で大きな男が立っていた。
「おー、これが噂のオッドアイか!」
4
開口一番放っておいて欲しい事について触れた大男は、「ド派手だな!」と言いながら素早い動作で小芭内に近付き顎をクイ、と持ち上げて琥珀とエメラルド色の瞳をまじまじと眺める。しかしそれを杏寿郎がやんわりきっぱりと引き離した。
「大丈夫か小芭内」
「は?なんだそりゃ大丈夫に決まって」
「平気だが不快だったので助かった。感謝する」
「あ??何、もうデキたの?早くない?」
「宇髄!」
もうデキただの、良かったな煉獄、だの訳の分からない事を言い出す宇髄を杏寿郎が顔を赤くして制する。
杏寿郎は咳払いをすると小芭内に向かって言った。
「彼は宇髄天元、仕事仲間でもあり友人でもある!」
「ド派手に天才な仕事仲間、な」
謎の決めポーズをしながらウインクする宇髄はよく見るとおそろしく顔が良いが、妙にムカつく。
ノーリアクションの小芭内に構わず宇髄は玄関から巨大なスーツケースを軽々と持ってくると「リクエストの通り色々用意したぜ!」と言いながらケースを開けた。
「随分沢山持ってきたんだな」
「ああ、嫁達がイメージが湧く〜とか言って爆買いしてよ」
小芭内もスーツケースを覗き込むと、そこにはぎっしりと衣服が詰め込まれていた。一見して殆どが女物に見える。
「で、オッドアイはどれが着たい?」
「は?着る、とは」
「場所移動するのに変装はマストだろ?カラコンもあるぜ」
「すまない宇髄、まだそこまで話していないんだ」
ドン引きする小芭内に杏寿郎は慌てて説明する。
昨日逃げ込んだこの場所は数多ある隠れ家の一つであり、数日滞在して杏寿郎の自宅に移動する予定だった。しかし仲間からの報告によると、伊黒家からの追っ手の数は想定より多く、速やかに場所を変えた方が良いとの事だった。
「それで宇髄に急いで変装道具を用意して貰ったんだ」
「──事情は分かった。だが女物の服を着る必要は無いと思うが」
「や、変装ってのはド派手にやんねーとプロにはすぐバレる。そうだな、これくらい振り切れば──」
そう言った宇髄がバサァと取り出したのは黒のドレスだった。
「ゴスロリってやつ?ヘッドドレスがこれで、靴はこれ。須磨の奴ウィッグも用意したのか‥‥お前の黒マスクにも合うはずだぜ」
「‥‥嫌だ」
断固拒否したいのは似合ってしまう予感しかしないからだ。しかし宇髄がじゃあコレは?と取り出したのはやたらと露出の多い服や清楚な白ワンピなど、更に着たくないものばかり。それなら露出が殆んど無い黒ドレスの方がマシか?と小芭内の感覚が麻痺するのにそう時間は掛からなかった。
「メイクもするか?」
「要らん」
小芭内は憮然としてドレスを受け取ると、寝室へと向かった。
寝室に入り、着ていた服を脱ぐとドレスをベッドの上に広げる。
装飾が多いその服は一見着脱に手間取りそうだが、重ね着風の作りで背中のジッパーを上げれば簡単に着用出来るものだった。
小芭内は溜息を吐くと緩慢な動作でドレスに袖を通す。そしてベッド脇の鏡に映る自分を見て更に深い溜息を吐いた。
正直全く違和感が無いのも溜息の理由の一つだが、このひらひらしたドレスが、色以外はかつて着せられていた物に似ている事が最大の理由だった。
物心つく前に「予約」された自分は12歳まで常に真っ白い女物の衣服を身につけていた。
「花嫁さんの練習よ」と言った親族の笑顔は今思い出しても寒気がする。
12になって花嫁の心得として男性同士の性行為の知識を教えられ、主人となる醜悪な男と対面した。
この先起こる事に耐えられないと自ら顔を傷付けた後、「結婚」は回避出来たもののそれまでと真逆に虐げられる日々が始まった。
「戻りたくない‥‥」
杏寿郎に迷惑をかけたくは無いが、一度あの場所を出た以上、もう二度と戻りたくはない。
ぼそりと呟いた所に、軽いノックの音が響いた。
「小芭内、どうだ?」
「──今行く」
心配そうな杏寿郎の声に現在に引き戻され、小芭内は寝室の扉を開ける。実は着慣れているとはいえ杏寿郎に女装を見られるのは気恥ずかしく、俯きがちになっていると、頭上でひゅっと息を呑む音が聞こえた。
「‥‥?どうした?」
思わず見上げた杏寿郎の顔は茹だったように赤い。
そういえばさっきも顔が赤かった、体調が悪いのだろうか。小芭内が熱でもあるのではと杏寿郎の額に手を伸ばしかけた所で、リビングから宇髄もやって来た。
「おーおー、似合うじゃねえか!後ろは?ジッパーもホックも自分でやったのか?身体柔らかいなお前!」
「っ、少し静かにしろ、杏寿郎の具合が悪そうなんだ」
「え?」
宇髄はそう言われて横を見ると、まだ顔を真っ赤にしている杏寿郎を見てククク、と笑った。
「こいつが体調不良なんて今まで一回もねえよ。ま、あえて言うならこ──うぐっ」
「宇髄、余計な事は良いから仕上げを頼む」
杏寿郎は何か言いかけた宇髄の脇腹を強めに小突くと、リビングへぐいぐいと押し遣る。「あえて言うならこ──」の続きは気になったが、体調不良ではないなら、と小芭内も後に続くと、そこからは宇髄の総仕上げの時間だった。ウィッグとヘッドドレスを手際良く装着し、ニーハイソックスを履かせ、鏑丸が入っても苦しくないよう細工したハンドバッグを持たせる。それらをものの5分で済ませた彼は、「じゃ、行くか」と玄関に小芭内用の厚底のブーツを置いた。
ドレスもウィッグも気にしなければ大した事は無い。しかしこの厚底のブーツだけは別だった。
「っ‥‥ちょっと待ってくれ‥‥」
「小芭内!」
言葉を発したと同時に斜めに倒れた小芭内を杏寿郎が抱き止める。逞しい腕の中で小芭内は盲点だった、と考えていた。生家では殆ど外出を許されず、女物の服は日常的に着ていたが足元はルームシューズだった。本当の女はこんな不安定な履き物で外を歩いているのか、というかこんな歩き難い靴を選んだのはどこのどいつだ──羞恥を怒りに変換している小芭内に、宇髄は声をかける。
「仕方ないな。お前、煉獄の腕に捕まって歩け。カップル作戦だ」