季能美「See you soon♡」
肩と頬で挟んだスマホへ告げながら、片手でドアにキーを挿し込むと、既に解錠された手応え。
「…フォックス?」
「ハァイ。ファルガー」
部屋のカウンターに浅く腰掛けて、コチラに小さく手を振る男が独り。時々、ふらりと留守宅に侵入して俺の帰りを待っている。手段について問うのは野暮なので聞くのは辞めた。
軽食とツマミの入った袋を冷蔵庫に突っ込んで、カウンターに入る。
「珍しいクラフト・ジンがあるから、フィズでも飲むか?」
「甘めでお願い」
シェイカーにレモンを絞り、ジンとシロップを落として、角が取れるよう滑らかにシェイクし、グラスで炭酸と合わせる。自分もロックグラスに大き目の氷とジンを注いで、隣に座った。
暫く無言でグラスを傾けていると、目線を合わさないまま、ポツリポツリと弱音が転がり落ちた。
「…しんどいの」
「そうか」
「…怖い」
「そうか」
穏やかに、与えられる愛を素直に享受するには捻くれ過ぎてしまっていて。甘い毒に溺れる勇気も無いと泣いてしまう。なんとも不器用で真面目で、かわいい事か。一方で、無駄に歳だけ重ねた莫迦な黒髪の臆病者に心の中で溜息を付く。
「ファルガーと浮奇みたいに落ち着いた付き合いって、どうやったら出来るンだろうね」
「…どうだかな」
北極の氷みたいな、蒼い瞳がゆらゆらと不安に揺れる。横からかっ攫うなら今が頃合いだ。
このじれったい関係性も含めて推しなので、そんな気は微塵も感じた事は無いけれど。
「違うの?」
「あー…聞きたいなら話すが。どうしたい?」
「聞きたい」
敏い仔狐はピクリとミルクティー色の耳を逆立てて、終わりの無い問いの解答を探している。額の髪を掻き上げるように掬ってワシワシと撫でると、きゅっと眼を瞑って困った様に笑った。
空になったグラスを、自分と同じロックグラスに換えて、ジンを注ぐ。
「フォクシー、…ミスタ達と違って、俺達にとって『別れ』はありふれた日常だった」
「うん」
「離別じゃなくて、消失な。だから、失う事より今を得る事に重点を置いているだけさ。…1つでも多くの思い出が残る様に」
「なくなる事が前提?」
「そうなるな。浮奇は特に寂しがり屋だから。皆本命でスペアだ」
隣で笑っていた奴が瞬きのうちにミンチに成っている世界だ。立ち位置が違うのさ。と笑った俺を、ジッと見つめたまま、グラスを口元に運んで泣きそうな顔をする。
「そんなのは、辛すぎんだろ」
「辛くて怖い。みんな其々怯えているのさ」
「ファルガーも、怖いの?」
「もちろん。痛みも恐怖も大事なセーフティだ。棄てる必要は無いさ」
カウンターに顎を載せて、小さく呻き始めたミスタの頬にチェイサーを押し付けると、半分程飲み干して額に当てる様に抱え込んだ。だけど、やっぱり怖いよ。と唇だけが音の無い言葉を紡ぐ。
「今日の酒、Greenteaの香りすんね。ワザワザ用意してくれたの?アリガトね」
「…貰い物だよ」
にぱっと警戒心を解いた顔でカウンターに突っ伏したミスタからグラスを遠ざけながら、もう一方の手でStayを後方に示す。
音を立て無い様に振り向き、律儀にその場で突っ立って、狼の様に鼻根にシワを寄せて威嚇している兄弟を視界に入れた。
「いつまでteenagerみたいなママゴトしてるつもりだ」
ミスタの残したグラスにヴォックスの用意したジンとシロップを追加して手渡してやると、罰が悪そうに口を付ける。
俺の所に来るであろう恋人に呑ませる酒はスマートに手配する癖に、肝心の相手の気持ちに踏み込む事に躊躇して。
「此処はお悩み相談ボランティアのBARじゃ無いんだが?」
軽く煽ると髪に宿す火床の焔の様な独占欲と熱を巻き上げるこの姿を、何を思ってかひた隠す。柔らかな美しいモノで包んで必死に抱え込んで、相手が窒息しているのにも気付かない。
「なぁヴォクシー、お前の隣に居て欲しいのはショー・ケースのお人形か?あんまり侮ってると喉元喰いちぎられるぞ」
きっとミスタはお前が望めば、身を焼き焦がす爆心地で笑顔のままタンゴを踊ってくれるだろう。とびきり繊細で、とびきり獰猛な美しい獣だ。
「百戦錬磨のドSな鬼様の無様な姿が見れて、俺としては中々愉快だが、そろそろ進展が欲しい所だからな。お前らキチンと腹割って話せ」
「煩い。出来るなら当の昔に実行している」
「気が長いのは結構だが、俺もミスタも寿命がある身でな。今際の際の邂逅なんて願い下げだ」
「…っ。ミスタを連れて帰るぞ。…いつもスマン」
「感謝してるならこんな回り諄いヤツじゃ無くて響の30年でも持って来い」
こちらに向ける仏頂面を一変させて、そっとミスタの旋毛にキスを落として横抱きに抱えると、足音も点てずに出口に向かうヴォックスの背中から、ダラリと垂れたミスタの左手が緩くVサインを作ったのを見送って笑いを堪える。
「あぁ、次の章が始まるのが愉しみだ」
女の面があしらわれたボトルから、再びジンをグラスに足して、ゆっくりと口に含む。和のスパイスがふんだんに使われた液体は、シェリー樽の甘い余韻を引き出しながら、喉に落ちていった。