小春日和のワルツ「モクマさん。明日は一日、予定を空けておいて頂けますか?…少々お付き合い頂きたく。」
チェズレイがそう申し出たのは、北半球のとある国での仕事があらかた終わった矢先の事であった。季節は冬半ば―――といえども、好天に恵まれることの多いこの地ではコートを羽織れば充分に活動可能である。げんに、カーテンの隙間から宵闇に浮かぶ街並みは灯がともり活気に満ちてそこここに住人の行来を感じ取る事が出来た。
「―――俺のオシゴトが必要そうな山場はもう終わったし、そりゃ全然構わんけども。」
猪口に残ったどぶろくをクッと飲み干して、モクマは相棒を振り向いた。
「お前さんの作業の方は、もう大丈夫なのかい。」
「ご安心を。手が塞がっているのであれば元より誘いはかけません。」
「…そりゃそーか。」
部屋の奥まった位置に据えられたデスクでタブレットをなぞっては何某かタップし、別途手元の書類を繰っている様は裏社会の支配者というよりは、勤勉な会社員のように見える。
「電子化のご時世っても、なかなか紙の作業も減らないもんだね。」
ギッと椅子の背もたれに寄りかかって笑うと、青年が画面から視線を上げて皮肉っぽく片眉を持ち上げた。
「我が組織内だけであれば完全電子化は容易です。その方がリアルの物質証拠処分に頭を悩ませずに済みますしリスクも減る…。しかし、残念ながら付き合いを持つ他組織はそうはいかない。表も裏も、大企業から個人事業主までありとあらゆる組織とやり取りをせねばならず…彼らに合わせると半端に電子化を取り入れた方式にならざるを得ません。」
このようにね、と言いながら紫眼が手元のタブレットとラップトップのPC、そしてその傍に積まれた書類の山を順に指し示す。額から一筋、黄金の前髪が垂れ落ちて彼の神経質そうな表情を際立たせた。
「…なるほど。そう考えると案外、闇の組織も一般企業も、共通の悩みなのかもね。」
「行く先々によっては文化の発展レベルも多岐にわたる―――こういった切り替えが進んでいない場所も星の数ほど。アナログにも未だ頼らざるを得ないのが現状ですねェ。」
タブレットの上で跳ねていた指先をつい、と滑らせて全ての作業を終えたのか、チェズレイは軽く息を吐いてPCを閉じ、書類を机の上に置く。どうやら彼の仕事もひと段落終えたらしい。それを察知して、モクマは机の上に置いていた徳利を手にして軽く振る。
「―――そっちもお仕事順調そうね。どう?おじさんと飲む?」
「…今日は遠慮しておきます。」
薄い唇から漏れた返答に、モクマはおやっと面食らった。手の空いた時にこうしてちょくちょく相棒を誘うと、何のかんの言いつつ相伴してくれる事の方が多いのだが。あまり酒を好んでいないらしい彼が己に付き合ってひと口、またひと口と杯を重ねては、白皙を真っ赤に染めて身を熱らせ、しとやかに身を預けてくる様が堪らなく嬉しかったりするのだが―――。
(…無理に誘ってもしょーがないわな。…ざーんねん。)
心中で溜息を吐きつつ、頭をがしがし掻き笑ってそっか、と返すモクマに。チェズレイは何故か神妙な面持ちになって、確認するようにつぶやいた。
「それよりも―――モクマさん。貴方も今日は深酒し過ぎず、しっかり夜になったら眠って明日に備えて下さいね。」
「―――……?うん、わかったけど…明日、何があるってーの?」
コテンと首を傾けて問う男に、青年は手袋に包まれた人差し指を唇の前に翳して妖しく微笑んだ。
「―――それは、明日になってのお楽しみです。」
「…????」
困惑するモクマを背に、チェズレイは席から立ち上がると静かに部屋を横切り出ていった。どうやら、この後酒以外の『おつきあい』をしてくれる予定も無いらしい。全くもって寂しい限りである。
(今から街に出て―――ってのも何だかなぁ。お酒ちゃんはまだあるけど…なんか飲む気にもならんちゅーか。…チェズレイ居ないとつまんないし。)
溜息を吐いてギッと軋む椅子から立ち上がる。
「しょーがない…シャワーでも浴びて今日はサクッと寝ますかね。」
椅子の背もたれに上着を放る。シャツとパンツは変えるとして、羽織は三〜四日着回すのが常である。浴室で適当に服を脱ぐと、頭から熱いシャワーを被り、安物のボディタオルにソープを染み込ませ、がしがしと体を洗った。
風呂から出る頃には、時計の針は頂点を過ぎていた。蓬髪をタオルドライで済ませてベッドに横たわる。神経質な相棒が見咎めたら小言を言われそうな行いであったが、彼は未だ不在であった。こういう時、モクマはいちいち彼の行き先を詮索したりはしなかった。別に束縛したい訳ではない。ただ、傍に自分を置いていて欲しいだけ。次の拠点に、仕事先に自分を連れて行けばそれで良い。なので、敢えて相棒を自由にさせたまま、彼が何をしているのかを問う事はしなかった。
(ただ……明日空けておけってのは、何なんだろうな。)
布団の中、灯りを消してぼんやりと微睡ながらモクマは首を捻った。この地を制覇したパーティでもあるのか、はたまた市井の視察か。思考を巡らせてみるがどれもしっくり来ない。或いは、単純にこの国に来て未だ純粋な観光を楽しめていないからこそのシンプルな休息日なのかもしれない。
(なんにせよ、だ……明日はまた……チェズレイと一緒に、過ごせるといいな……。)
ゆっくりと男の瞼が落ちる。意識が闇に溶ける直前、どこかで聞いたことのある女性の朗らかな笑い声が聞こえた気がした。
「―――ん……。」
瞼の裏側から差し込んでくる太陽光に目を擦る。窓の外を飛び去っていく小鳥の囀りに意識を覚醒させながらベッドの上に身を起こしたモクマの視界正面に、小柄な女が立っていた。
「―――ッ‼︎‼︎」
その存在はあまりにもモクマの意識に自然に溶け込んでいて、警戒体制を取るのが一瞬遅れる。懐に忍ばせた苦無を握る前に、モクマの網膜に『その人』の顔がハッキリと映った。
スッキリとした美しいフェイスライン、小柄な身体、華奢な手足。美しいブロンドの髪は後ろで一纏めに結い上げて、アメシストの瞳はユラユラと儚い色を湛え揺れていた。困ったような仄かな微笑みを浮かべて『彼女』はモクマの真ん前に立つ。
「―――お久しぶりね、ニンジャさん。…今日は一日、私とお出掛けをしてはくれないかしら?」
***
コツコツ、コツコツ。石畳の上を軽やかなヒールの音が跳ねる。それに伴って移動するぺたぺたと冴えないサンダルの音はまるで持ち主の外観をそのまま表すようだな、とモクマは苦笑した。
「ニンジャさん。こっちよ、こっち!」
透き通るような肌を桃色に染めて、先を行く“彼女”が待ち遠しそうにこちらを振り向いた。すれ違う人々が、緩いアロハによれた上着を引っ掛けた背の低い小男と、彼に親し気に接する清潔感溢れる絶世の美女を見比べては驚いたように声を潜めて噂し合うさまが否応なしに目に映る。
(―――こうなるって分かってりゃ、せめて服くらいはもちっと気ぃ遣ったんだけどね…。)
モクマは困ったように頭を掻いた。彼女に扮しているのはどう考えても相棒に他ならず―――そしてその行動の真意は組んでいる己をしてもまるで掴めない。とはいえ彼のイメージプレイに巻き込まれた事態は過去に例がないわけではなく、何より命が脅かされる危険も無かろうと判断出来るからには『まああいつの気が済むまで付き合っても問題ないだろう』というのがモクマの下した総合的な判断であった。
「―――ねえ。」
ぼんやりそんな自己決定を反芻していると、下から伸びてきた華奢な掌がそっと頬に添えられて思わず男は立ち止った。避けられなかった訳ではないが、相棒その人であれば、まず取らないであろう行動なので―――少し虚を突かれたのは事実である。
「わっとと……。え、なになに?」
思わずたたらを踏んでみせると、彼女は柔和な目じりを更に下げて悪戯っぽく微笑んだ。
「もう。デートだっていうのに、ぼんやり考え事してるからよ。フフ…。」
くすくす口元に添える掌は精緻に編み込まれたレースの手袋で包まれていた。ほんのり色づいたベージュが目に優しく、少女めいた仕草をしていても凛とした気品が漂っている。
「……ごめん。俺みたいな風体の男じゃ、君と釣り合い取れないんじゃないかって心配になっちゃってさ。」
あの日出会った時によく似た色とシルエットの、けれど町から浮きすぎず埋没もしない装いの可憐な姿に思わずそう告げる。
「なぁに、それ。私がニンジャさんと一緒に居たいんだから、いいのよ。さ、気にしないで入りましょう。」
彼女は少しも気分を害した風を見せず、ころころと笑いながら彼女はモクマの腕に手を絡めた。向かう先、建物に掲げられた看板は―――。
「……映画なんて家以外で観るのは久々だなぁ。」
ロビーから興奮冷めやらぬ様子の親子連れが、好奇心を満たした充足感溢れる青年が、会話に花を咲かせた老夫婦が次々に現れる。なかなかに盛況のようだ。列をなす人々に紛れて、二人も扉へ足を踏み入れた。
「――あぁ。この映画ね、前からとっても気になっていたの。」
そう告げて白い指が指し示すのは、ロビー内の一角に張り出されたポスターである。一人の壮年男性がスポットライトを浴びて空を見つめる、どこか寂寥感溢れる横顔にモクマは目を瞬かせた。
大人二人分のチケットを買い、席に着く。列は丁度中央にほど近い位置。腰掛けて館内の騒めきを聞きながら、モクマはぼんやりと思考した。
(…なんだか、夢みたいだな。)
右隣で静かに目を伏せて、入場時に頒布されたチラシを目で追う女性に視線を向けず、けれどじっと仕草を伺う。“彼女”が何者か、モクマは知っている。もう、知ってしまっている―――。自分にとって確かに重要で大切で、けれど早々に再開する事も難しいだろうと思っていた、そんな相手とデートすることになろうとは。
(…映画の登場人物よりもよっぽど奇妙な状況に遭っとるなあ。)
決して嫌ではないけれど、どうにも不可思議な現状を反芻していると―――劇場が暗くなり。間もなく、ぼんやりと銀幕の上に光が映し出された。
それは、音楽家の男の一生を描いたセミドキュメンタリーフィルムであった。とある町の一家に生まれた三男坊が、幼いころから音楽への憧憬をつのらせて、紆余曲折の末に作曲家として大成していく過程を描いている。技術を認められても嫉妬や葛藤からは逃れられず、身を立ててからも尚周囲の政治に巻き込まれ翻弄される、その悲喜劇。かといって重苦しい作り一辺倒にはならず、要所にコミカルなシーンが織り交ぜられていて、音楽分野はからっきしのモクマでも気を抜いて楽しめて退屈にはならなかった。
場面場面の盛り上がりに合わせて、同席した人々がさざめく様に息を呑んだり、吹き出したりするのが一個の大きな生き物の様に空間に満ちる。映画館独特の一体感を久しぶりに感じながら、モクマは薄暗い館内、ほのかな明かりに照らし出される隣席の女性の横顔をそっと覗き見た。主役が悪徳出資者に騙されそうになると、はらはらと不安そうに口元に手を当て。恋人に告白するとき花束を忘れて大慌てする場面ではお腹を抱えて笑い。両親との和解シーンでは、目じりに浮かんだ涙をそっとハンカチで拭う。そうして眺めて、記憶していたよりもずっと表情豊かで華やかな感情の移ろいは、ひたひたと温かな思いとなって男の心を満たした。
(――――そうか……。君は、そんな風な表情を浮かべる人だったのか……。)
初めて見つけた彼女の様々な貌の数々に胸の奥が切なく軋む。エンドロールで主人公の人生が静かに幕を閉じるのに合わせて、ひじ掛けの上そっと寄せられたたおやかな指先を、モクマは守るように静かに握り返した。
***
「―――いらっしゃい、ませ………。」
視界の隅で、店員が隣の女性を見て崩した相好を――己と視線が合った途端怪訝そうに顰めるのを受け流す。こんな風な不躾な視線には慣れっこである―――今更傷付きも動揺もする事はない。映画鑑賞のつぎにモクマが彼女と訪れたのは、小さなブティックであった。映画館からほど近いその店は、大規模施設のような豪奢さは無いものの並べられている品はどれも粒揃いの魅力を放っている。ファッションに興味のない男の眼にもその事実は明らかであった。
「ねえ、ニンジャさん。少し服を選びたいのだけれど。貴方も協力してくれる?」
視線を店のあちこちに向けて目当てのものを選びながら、彼女が歌うように問いかける。小作りで整った顔が斜め下からねだるように見上げてくる視線と鈴を転がすような声に心をくすぐられて、モクマは困ったように頭を掻いた。
「う~ん、俺のセンスで良けりゃいいけど……。こーんな服着てるおじさんに聞いちゃっていいのかい?」
おどけながらヨレた羽織りを拡げてみせる。
「そうねえ……。デートに着てくる服としては、落第だけれど。」
彼を頭のてっぺんからつま先まで見下ろした後、菫色の瞳がふっと柔らかく瞬く。
「ふふ、でも私どうしても貴方にも聞きたいの。……フィッティングルームで着替えてくるから、待っていてね。」
スカートを翻して試着室へ向かう彼女の腕には、いつの間に身繕ったのかすでに数着の衣類が掛けられていた。
黄金の髪によく馴染む、淡い色のカーディガン。身体の優美な線を包み込む紺色のボタニカル柄のワンピース。眼の色をはっと引き立たせるような白のフェミニンなアウター。季節は未だ冬半ばながらも、衣料品店は既に春先を見据えた品ぞろえらしく、彼女が選ぶ衣服も軽やかな布地のものがほとんどであった。首を巡らせれば、冬物やコート類は店の少し奥まった箇所に展示されている。
(そりゃそっか。町行く人は皆もう冬服持ってるもんねえ。)
そんな商売のイロハに得心いっていると、ツンと羽織の袖を引かれた。目の前で小首をかしげて、たおやかな美人が問いかける。
「それで。……ニンジャさんは、どの服が気に入ったのかしら?」
「う~~ん……。」
小さな黒目をあちらこちらに動かして考えながら、モクマは無精髭のまばらに生えた顎を摩った。
「どれもすごく似合ってたよ。…本当に、甲乙つけがたいってこのことを言うんだなって、再確認したところ。」
「まあ。」
相棒よりも少し丸みのある目の輪郭を見開いて、彼女はふふ、と笑った。
「ものの本では、男の人ってこういう時『答えを求められてる』と思ってどれかを選んじゃうものだって……それで女性の気を損ねちゃうって聞いたことがあるけれど。」
口元に手を当ててクスクスと揶揄うように囁く様は、見た目よりもずっと幼さを感じさせる。
「ニンジャさんは随分と答え慣れてるのね。……全部似合うだなんて、お上手なこと。」
「困ったなぁ……おじさん本当のこと言ってるだけなんだけどね。こういう所にも、あんま来たことないし。」
「あら、今度は初心なふり?本当に隅に置けない人ね。」
「信じてくれない?本当だって、誓って本当……。」
弁明するモクマの言葉は概ね嘘ではない。過去各国放浪中に、女性と関係が無かったということは無いのだが―――そのどれも、行きずりに相手を助けてなし崩しに家に転がり込んだり、世話になった雇い主の娘に好意を持たれたり――といった形がほとんどで。要はこういった一般的なデートの形式で相手に付き合って洋品店を尋ねる経験というのが、実のところ彼には新鮮な体験なのであった。とはいえ、それが詳細に相手に伝わるわけもない。
「本当かしらねえ。ニンジャさんは誰が相手でもとっても親しみやすい人だし―――」
手袋をはめた指先で帽子の並ぶ棚の角をつっと撫でてそう言う彼女を―――茶化すことなくじっと正面から見つめて。モクマは気負うことなく、心のままに告げた。
「本当だよ、だって―――」
三白眼の奥、暖かな黒曜の眼を細めて続ける。
「――――君は、とってもすてきだから。」
はっと振り向いた紫の瞳が、ゆらりと柔らかく揺れる。その彼女の肩の向こう側へ―――そっと手を伸ばして、男はハンガーに掛かっていた布地を手にした。
「……さっき君が選んだ中には無かったけどさ。これなんて、いいんじゃない?」
「――――これは………。」
そう言ってそっと細い肩に掛けたのは、ストローイエロー色のストールである。
「まだ寒い日が続くから防寒具にもなるし、その薄さなら春先にも羽織れるでしょ。」
優しく布地を首筋に巻きつけながらモクマは囁く。
「春になったら、またそれを着て一緒に出掛けよう。君の行きたい場所、どこへでも。」
「―――そんな約束、してもいいの?また私と、出かけることになっちゃうわよ?」
問い返す白い頬をそっと指の背で撫でて、モクマは笑う。
「そりゃ願ったり叶ったりだ。君のニンジャは、いつでもお姫様に逢いたくってたまらない男だからね。」
パチンとウインクする瞳に彼女は一瞬あっけにとられた後、フフ、と吹き出す。和やかに笑い合う男女を店員が物珍しそうな顔で遠巻きに眺めていた。
お会計の間待っていてね、との言葉を背に一足先に店の外に出る。大通りに面した店店をぼんやりと眺めながら、モクマは網膜に焼き付く彼女の姿を脳裏で反芻していた。笑った顔。涙を滲ませた顔。揶揄う顔。半日一緒に過ごしてみて、改めて胸に沸き起こる思いを呟く。
(俺は君の事、何にも知らなかったんだなあ………。)
鈴を転がすような声。軽やかな足取り。
(思っていたよりもずっとずっと……幼さの残る人だったのか………。)
それを思うと、ギュッと胸が潰れそうにやるせなくなる。茫洋と正面を見据える黒目に、雑貨青果店の店先に並ぶ鮮やかな色彩が残酷なまでに反射して輝いていた。
***
ブティックを出て少し散策した後、二人は喫茶店のテラス席に落ち着いた。太陽はやや傾き始めている時分であるが、それでも風も無く寛ぐには十分な気温である。お互いにとった注文が届くのを待ちながら、二人は取り止めのない会話に花を咲かせた。
「テラス席はちと寒かったかな?」
スカート姿の彼女を気遣いそう声をかけるモクマに女性はゆるりと首を振る。
「いいえ。さっきまで歩いていたし、映画やお買い物で気持ちまで高揚しているからかしらね、ちっとも寒くないわ。」
まだ太陽も高いから、と続ける言葉につられて天を見れば燦々と陽光が降り注いでいる。眼を細めながら、モクマは成程と頷いた。
「北半球っても色々だねぇ。ヴィンヴェイだともう凍りつかんばかりの吹雪!って感じで、外ではお茶できる環境じゃなかったけど。」
「あの土地は特に冬季が厳しいですもの。…ほんとうに……。」
彼女の呼吸が途切れ、顔がわずかに俯けられた。
「雪の下、小さな野花の蕾ですら凍え枯れてしまいそうに…。…寒くて、重たくて、辛い季節…。」
彼女の心がふと良くない影がさすのを察して、モクマはつとめて明るく戯けて見せた。
「ま、冬ってのは我慢の季節だからねえ。でも、冷たく寂しいばっかりじゃない。」
明日の背に凭れ、頭の後ろで両手を組みながら笑っていう。
「その氷の下で、次の世代へつながる命の脈動が――――芽吹きを待って準備しとる、いわば夜の揺籠みたいな時期だろうからさ。」
「――――それは―――、」
モクマを見つめて次の言葉を探しあぐねる様子の彼女に、男はポツンと励ました。
「大丈夫。君が守ったものも、繋いだものも。今とっても綺麗に咲き誇っているから。
「――――………、」
アメシストの相貌がゆらめく。切なくすがめられた顔が泣き出してしまう前に、二人の空気を割くように事務的なウェイターの声が響いた。
「お待たせしました。」
「――――……。」
「――――…、」
互いに再び会話の糸口を失って、サーブされてきたカップに対面する。モクマはコーヒーに軽く砂糖を一かけら落とすと、取っ手を持ち上げる。対面の席に座る彼女の前には、ティーカップに紅茶が満たされていた。赤と茶の間の色をした透明な水面に逆さまに映る白い顔が、便りなさげに揺れる。
「何か入れる?」
返ってくる言葉を何となく予想しつつも、そう問いかける。彼女は花弁のような口元をきゅっと引き締めて、ぽつんと囁いた。
「――――いいえ。」
紫水晶を削り出したような瞳が、どこか空を見つめて俯く。
「飲み物には、なにも入れないの。」
「………そう。」
それだけ答えて、モクマはコーヒーを啜った。きっとこの店もきちんと“調べ上げられて”デートプランに組み込まれている。豆の味も常には問題なかろうに、今の彼にはややほろ苦く感じられた。
「………不思議ね。」
運ばれてきた紅茶に手を付けないままに、彼女は続けた。
「私、きっと小さいころにはカフェオレも好きだったのよ。」
髪と同じプラチナブロンドの眉が顰めるように寄せられて、マスカラを乗せなくとも美しく整った睫毛がふる、と震えた。
「蜂蜜をたっぷり溶かしたお茶も、お砂糖たっぷりのミルクも。――――けれど………もう、飲めないの。」
「――――それは………、」
モクマの眼が眇められる。向かいの席、細い膝の上で掌がギュッと握りしめられる気配が伝わった。
(―――違う、こんな話をさせたい訳じゃない。)
何とか空気を切り替えようと突破口を探す男の前で、彼女が静かに絶望に浸されるように顔を覆う。
「もう駄目なのよ……。もう二度と。混じりけのない、澄んだ―――濁りの無いものしか口に出来ない……。これから先もずっと………」
「―――――……………ッ………!!」
ぐ、と男の唇が噛み締められる。
「もう、おしまい――――――」
「――――――」
儚く柔らかな唇から、自嘲にも似た幕引きの言葉が告げられる、言葉が終わるその前に――――。モクマの指先が、眼にもとまらぬ速さで懐から“あるもの”を取り出した。
「――――……。」
「…………!?」
柔和なアメシストが、驚きに見開かれる。儚さを纏った薄紫の表面に、小さな白が映り込んだ。
「これ、は………………―――――花……?」
男の指先に添えられていたのは、小ぶりな花であった。
「そう。……さっき待ってた時にさ、正面の青果店の隅に見つけてね。……こういうのも売ってるんだって気になって」
「……エディブルフラワー……食用花ね。」
追い詰められ強張っていた心がふわりと緩んだのを感じ取って、モクマはさらに優しくその奥に触れるように囁く。
「紅茶に浮かべてみたらどう?」
その提案に、彼女は眉尻を下げて目を瞬かせた。困ったように瞳が揺れる。
「………それは………、」
口元を押さえて思案する様子―――その手に嵌められた手袋を見て、男は慌てて言葉を付け足した。
「―――アッ!これね、その辺の生花っぽいけどちゃんとラッピングされてたから大丈夫だよ。ホラこういうのってパッケージ見せるのも興ざめかなって……。」
ハハ、とから笑う声に、彼女は睫毛を震わせた。惑うように俯いて、細い顎が頼りなく揺れる。
「………………。」
紫色の瞳の中に逡巡が走るのを、モクマはつぶさに察知していた。フィルムに写し取られた像のように正確無比な在りし日の姿のトレースをしたい思い。同時に、そこに変革を加えてもいいのかという思い。彼女の内側の人物が激しく葛藤しているのを理解しつつも、指先の花を更にぐっと差し出して―――ダメ押しとばかりに男は問いかけた。
「――――花は、嫌い?」
「―――――……………、」
はっとこちらを見つめ返した“彼女”の瞳が、ゆらりと大きく揺らいだ。桜色の唇が僅かにわななきながら開かれる。
「―――いいえ………。………好き、よ………。」
黄金の睫毛が伏せられて、眼の奥に遠い日の記憶を映し―――潤んでゆれる。
「………そう、……大好きなの………。」
「なら、入れてもいいね?」
モクマは返答を待たなかった。武骨な指先を繊細に動かして、まだ湯気を立てている紅茶にそっと食用花を浮かべた。
「―――――…………。」
「飲まないの?…冷めちゃうよ。」
頬杖をついてそう微笑むと、彼女はゆっくり、恐る恐ると言った様子でティーカップを持ち上げた。ゆっくりと、唇が器に接触して―――液体が口内へ、喉へと流し込まれる。
「……………香りが………。」
「うん。」
「………花を一輪、浮かべただけなのに。……とってもお花の香りが漂って………。味は同じなのに…こんなにも変わるのね……。」
味わうように、“あり得たかもしれない変革”を胸に染み込ませるように――――目を閉じて呟く彼女を、モクマは静かに見守った。
「――――……すてきね……。」
「それは、良かった。何よりだ…。」
目じりを下げて、男が囁く。正面に座る人物を包み込むように愛を注ぎながら見つめる男に、彼女はすっと瞼を持ち上げて微笑んでみせる。
「……貴方のことよ、ニンジャさん。」
「……うん?」
頬杖を突いたままの姿勢で首をかしげる男にくすくすと笑いかける。
「あなたって、とってもすてき。……すてきなひと。」
「―――――…………、」
三白眼を瞬かせて、モクマは椅子に座り直し、照れたようにくしゃりと相好を崩した。
「……俺には、勿体ない言葉だな。」
「謙遜しちゃ駄目。」
「……仮に俺がすてきだとしたら。…それは、隣にいる君がすてきだから、釣り合いたくてそうしてるんだよ。」
「フフ……相変わらずクサい言葉……。」
テラス席に軽やかな話し声が響く。蕩けるような慈愛の視線を交わし合う妙に不似合いな一組のカップルを、陽光が優しく包み込んでいた。
***
「―――あぁ……、楽しかった。」
太陽が西に傾くころ。二人は腕を組んで、郊外の路上を歩んでいた。モクマの肩口に、彼女の軽い頭が寄り添っている。軽くて、柔らかくて、暖かな温度。見下ろすとビスクドールのような顔はほんのり紅潮して、満足げに瞼は下ろされていた。
「今日はずっと楽しかったわ。……本当にありがとう、ニンジャさん。」
「このくらい君相手ならいつでも、いくらでも。……俺ばっかりいい思いしちまったんじゃ、って気にしちまうくらいには、俺も楽しかったよ。」
そう言って微笑むと、ぱちりと目を開いた彼女が嬉しそうに笑い返した。
「フフ……私ね。ずっとずっと、こうしてふたりで街を回ってみたかったの。」
だから今日はとっても満足。夢が叶った気分よ。そう続ける相手に―――モクマは静かに立ち止まった。歩を止めた男につられて彼女も立ち止まる。どうしたの、と言いたげに見上げる瞳を見下ろして、キッパリと告げた。
「―――ふたり、じゃなくて。……さんにんで、の間違いでしょ。少なくとも、俺は今日はずっとそのつもりだったよ」
その言葉に――――
朝から一日中掛かっていた淡い魔法のヴェールは静かに断ち切られて、現実が剥き出しとなって現れた。
「――フ…。デートだと言うのに、無粋なひとだ…。」
バッ、とマスクと衣装が翻る音が響く。忍びとして鍛え上げられたモクマの目を以てして、瞬きの間を縫う速度で―――隣に立っていた女性は姿を消し、代わりにすらりと高い長髪の男が姿を現した。約一日ぶりの相棒本来の姿に、モクマは肩をすくめてふにゃりと口元を緩める。
「―――おかえり、チェズレイ。」
「…まったく…。本来でしたらセーフハウスの前に着くまではもう少し演じる予定でしたのに。…貴方はいつでも、私の予定を狂わせてくれる……。」
皮肉げに片眉を上げ両肩をすくめる仕草に、モクマはあらら、と頭を掻いた。
「いや〜言うておじさん頑張って合わせたつもりだけどね?お前さんいきなりアクロバティックなデート仕掛けるもんだから、ビックリしちゃった!」
「あァモクマさん…この程度でアクロバティックだなどと。…語義の本質に併せたお付き合いをご所望なら、別途ハードなものをご用意いたしますのでェ……。」
先ほどまでのしおらしいロールプレイはどこへやら、髪を優雅に掻き上げながら大袈裟に両手を広げて宣言するチェズレイに、モクマもすっかりいつものペースに戻って目を見開いてみせた。
「……げげっ…。お前さんが言うハードって相当じゃない?…もしかして墓穴掘っちった…?」
「それはもう、古代王の墳墓もかくやという程にねェ…。」
「がーん……。な、何されちまうの…ドキドキソワソワ……。」
「――――フ……。」
顔を青くしてみたり一転目を煌めかせてみたり、忙しなく戯けてみせる男に―――青年はふと表情を緩めて息を吐いた。
「……本日はお時間お借りして失礼を。お礼は後日きっちりと致しますので……。」
「―――ん…。いや、礼なんて要らないけどさ。」
頭を掻いて申し出を断りながら、モクマは―――今日一日概ね楽しんで彼のシチュエーションプレイに付き合いつつも―――どうしても気になっていた、この行為の動機を尋ねんと口を開く。
「……今日のこれってさ……一体――――」
「―――今日はね。……誕生日だったんです、……母の。」
「――――……、」
モクマの呼吸が一瞬止まった。三白眼が大きく見開かれる。そんな相棒の反応に敢えて視線を向けず、チェズレイは正面を見てゆっくりと歩き始めた。
「……私が長ずるにつれて……彼女はどんどん精神の均衡を崩してゆきました。部屋は異様に荒れるか神経質なまでに整えられるかの両極端となり、些細な事で幾度も金切り声を上げるようになり、カーテンもいつしか閉じられる事が多くなり……。」
「――――………。」
相棒を追いかけて足を動かしながら、モクマの眉間に皺がよった。話す内容の痛々しさに聞いている方ですら苦しくなる。
「――――けれどね……。毎年、誕生日がくると……その日だけは。彼女は心の平穏を取り戻してくれました。部屋に暖かさが戻り、笑いが満ち…。私がプレゼントを贈ると、母も喜んで受け取ってくれたものです。」
「チェズレイ………。」
「個人的な感傷に付き合わせた罪滅ぼしは幾らでも致しますよ。」
そこまで言ってやっとこちらに視線を向け、皮肉げに笑う顔にモクマは胸を掻きむしりたい気分になった。
(辛い過去がありながら。そんな風に言っちまえるようになるまでお前が過ごしてきた時間と苦痛と克己の積み重ねを―――見過ごせるもんか。)
迸る思いのまま、口を開く。
「そんな寂しい事――………」
「―――ただね…モクマさん。」
すっとこちらを見下ろして、青年は目を細めて囁いた。
「………貴方には…どうしても――今日の事を………」
彼女と同じ紫色の、彼女より少しだけ切長の瞳が見つめ返してくる。その中に揺らぐ幼い影を決して見逃さず、モクマは正面から捉えて言葉を返した。
「―――…知っていて欲しかった?」
モクマの言葉に一度瞳を閉じ。再度ゆっくりと開くと、チェズレイは常より微かに潤んだ眼を細めて自嘲するように囁く。
「…フ。本当にヤキが回ったものだ…」
髪を靡かせて夕闇の中進む長身に、男はそっと手を伸ばす。
「ねえ、チェズレイ。」
手袋越しにするりと掌を握って、モクマは顔をくしゃりと崩して笑う。
「…改めて、ニンジャさんと火遊びしてくれてありがとね。」
チェズレイは返事をしなかった。ただ、無骨な掌は振り解かれることもなく静かに握り返される。その仕草と温度を答えに、男は無二の相棒にして伴侶。そして番たる青年―――その中に眠る“彼女”に引き続き仕えるべく、そっと尖ったスーツの肩に頭を凭れさせて告げた。
「帰ったら沢山話そうか。…今度は俺の、親のこと。兄弟のこと。家族のことも…。」
モクマの無骨で―――けれど何よりも慈しい指先が、チェズレイの奏者然とした細指に、一本一本を絡められ掌が握りしめられた。淡い夕焼けが、曝け出した心の奥底を優しく受け止め慈まれて喜びに蕩ける青年の紅さす頬を更に真っ赤に照らし出していた。
街の向こうへ沈みゆく夕陽が、まばゆい光を投げかけてくる。青年と伴侶と母―――まるで家族に似た、不可思議な関係を内包した不思議な“さんにん”の影法師が、ゆらゆらと交わりながら路面に長く長く映し出されていた。
〈完〉