熱砂の国を支配するモクチェズ【2】「ふぃ―――〜…ただいまーっと。」
ガチャリとドアノブが回って、重厚なダークブラウンの扉が開く。廊下から室内に歩み入るのは、先程まで敵勢と命のやり取りをしていた忍び―――モクマ・エンドーその人であった。後ろに詐欺師チェズレイが続く。
「お疲れ様です、モクマさん。これにて当面の実働は完了。後は部下に任せられる範囲かと。」
「ハハ、ならお前さんはまだ暫くはデスクワークが続きそうかね?」
もかは面頬を外すと首を巡らせ、広々とした室内―――その向こう側に在る窓越しの絶景をちらりと見遣った。
「こーんなに良いホテル抑えて、良い眺めも見放題なのに勿体無い。」
「まァ、目を楽しませる景観であるに越したことはありませんが―――今回は風景を眺めるために宿泊している訳ではありませんからね。」
「セーフハウスをこんな高層階に構えたのは狙撃や侵入対策―――あと、セキュリティだっけか。」
「えェ。設備面安全面、更にある程度支配の効く頭のスタッフが揃っているホテルはどうしてもこれくらいのレベルにはなりますからねェ。」
そう答えながら、長い脚で悠々と廊下からリビングスペースを横切りキッチンへと向かう。そんな相棒の姿を視界の端に捉えたまま、モクマはひょいと視線を上下させた。
「確かこの階丸ごと借りてるだけじゃなくて―――上下フロアも抑えてるんだって。いやあ、相変わらず念入りだね。」
「敵勢の只中に切り込む拠点なのですから、その程度は致しませんと。…念には念を入れて、目立たぬよう数室を交代で構成員に泊まらせております。一般人を装って…、」
備え付けられた大容量の冷蔵庫から指定銘柄のミネラルウォーターのボトルを手に取ると、開封して軽く呷った。
「―――ふ…。失礼、どうにも喉の乾燥が気になって。」
軽く息を吐く青年に、男はふにゃりと屈託なく笑う。
「んにゃ、気にしとらんよそんくらい。…確かにここは街並みも良いし人も元気があって素敵だけど――ちと埃っぽいのが難点だねぇ。」
そう言いながら、モクマは足を交代々に持ち上げ座りの悪そうな顔を作ってみせる。
「着込んどるはずなのに忍び装束や靴の中に砂が入っちまって……口ん中もジャリジャリしとるし。」
「赤道直下の熱砂の国―――肉体に与える影響としては日光の苛烈さを警戒していましたが。…敵勢が文字通り地下に潜っているとなると乾燥と砂の方が厄介でしたねェ…。」
煩わしそうな表情ながらも、首元を軽く緩めてチェズレイは呟いた。
「そうそう、日陰や地下だと案外暑さは平気なもんだねえ。ミカグラと違うのは湿度の関係かな。」
応えながら、モクマは静かに相棒の隣に歩み寄る。
「けどまあ――――そんな切った張ったも今日までだ。粗方は組織が潰れたら散り散りに。最後まで残ってた厄介なのも縛って警察の前に置いてきたから、大丈夫でしょ。」
「そうですねェ。……これで晴れてこの地域一帯は我が組織の支配下に。――――あァぁ……心躍りますねェ……‼︎‼︎」
整った貌を歪ませ舌舐めずりをして身震いする青年にややついて行けない気分ながら、男も軽く笑う。
「う〜ん、おじさんにゃその喜びっぷりちと理解できんが。…ま、お前さんの夢に一歩近づいたって事ならめでたいのは確かだね。」
そう肯定してやりながら――――彼は三白眼の中心の黒目を不意に揺らして、ポリポリと頬を掻き呟いた。
「……それに…。ここんとこずっと忙しかったから、この国での山場を超えたら―――ゆっくり出来るんだった、よね?」
「―――モクマさん……――」
隣に立つ要求少ない男がじわりと空気に滲ませ始めた色に、青年は彼を見下ろしながら―――切れ長の瞳を笑ませて囁く。
「ええ…。…長年鍛えてきた部下たちも成長しつつありますから。私の仕事量も相当数軽減されておりますので…。」
「ン……、じゃあさ。彼らを信用するって事でここはひとつ――――。」
チェズレイの締まった腰に手を回し、モクマが黒曜の瞳の奥から欲を覗かせ始める。それを微笑して導きながら、青年は唇を開いた。
「フフ…おやおや、出来た上司だことで。」
「俺は奴さんらの上司てわけでもないけどね〜。…とにかくさ。……折角こんな広い部屋泊まってるんだし、こう、もっと堪能したくならんかね?」
「堪能、とは――――一体どういう事を指すので?」
相手の意図を理解して切りながら焦らすような会話を続けるチェズレイの紫の瞳も、しっとりと濡れ始めているのが分かる。
「キッチンも付いとるのに全然料理なんてしとらんで勿体ないし、風呂もシャワー浴びるだけで風情の無い入り方しか出来とらんし―――何より。」
あんなに立派なベッドで、眠るだけなんざお前との寝所には物足りない。
そう囁くモクマの瞳がチェズレイの視線を真っ直ぐ捉えた、絡み抱き止める。顔と顔がゆっくりと近づく。
「―――あァ、―――モクマさん……」
「チェズレイ―――――――…」
柔らかく唇と唇が触れ合いそうになって――――。
むぎゅ。
あと数センチで接触するその瞬間、手袋に包まれた長い指先が男の鼻を摘んだ。
「……ふが。チ゛ェズレ、すん。」
「いけませんねェモクマさん――――テストでも答案に名前を書いていないものは採点出来ないものですよ。」青年は
ぱっ、と指を離すとすいと側から離れてソファに座る。
「貴方ねェ、自ら砂まみれと仰ったではありませんか。自覚の上で私に手を出そうとする根性が気に入りませんね。」
眼前で餌を取り上げられた動物の気分になって眉尻を下げた。
「そんな、殺生な……」
「ただし――――私は詐欺師ではありますが、悪魔ではありませんから。…チャンスを与えましょう。」
背凭れに深く身を預け、くすりと整った容姿が笑う。
「今すぐシャワーを浴びて、汚れも皮脂も砂粒も、一欠片残さず洗ってくること。そして、私が同じく身を清めるのをいい子で待てる事。」
出来たなら貴方の望み通りに―――室内の家具が草臥れてしまうまで、閨の堪能に貢献してあげる事も吝かではありません。
そう答えるチェズレイに、モクマは目を見開き―――辺りに放り投げていた旅行カバン(という名のずだ袋)から着替えを引っ掴むとダッシュで浴室に飛び込んだ。
「チェズレイ待ってて‼︎おじさんちょっ速でメチャクチャ綺麗に身体洗って来るから‼︎」という叫びを残して。
一人部屋に残った青年はそんな相棒の騒乱をクスリと妖艶な笑みで見送りながら――――独り言のように呟く。
「焦れていたのは貴方だけではないのですよ、モクマさん。―――この日が来るまでの間、指折り数えて待っていたのはね……。)
【続】