赤天狗日記 赤子の記初春。月齢零、新月。
今日も特に何もない、素晴らしい一日だった
と、それで済ます事ができたら良かったのだが。今日は随分と大変な事があったので、ここに記そうと思う。
逢魔が時の頃、いつものように縁側にて昼寝をしていた所、壱松が呼ぶ声で目を覚ます。聞けば、何も言わずに来て欲しいと言い袖を引っ張る。慌てて下駄をつっかけて行けば、森林の奥深くの十三本の高齢な松の木の目立つ場に辿り着く。中でも一際大きな松の木の下に、何かの獣の耳と尾のある赤子がいた。妖怪である事に違いは無いが、種族までは分からない。壱松は森にて散歩していた時に泣き声を聞きつけたのだと云う。しかし俺の来た時には其の様な様子はなく、眠っているようであった。それがまずい状況であると直感した俺は、その子に妖力を注ぎ込んだ。赤子は目を開け泣き出した。ほっとしたのも束の間、共に気の抜けた壱松も泣き出す。ふたりを同時にあやすのには慣れておらず、手を焼いた。
赤子は親が現れるまで面倒を見る事になった。
壱松と共に数刻おきに松の木の下を訪れ確認する事となった。
月齢七。
赤子から目を離すことなどそうそうできやしないので日が空いてしまった。現在は完全に眠っているので記そうと思う。
赤子の世話はそう難しいものでは無かったと記せる未来をどこかで見ていたが現実は厳しかった。
かの赤子はかなりの泣き虫であったのだ。
お腹が空いたら泣く、催した時に泣くのはまだ良いとして、かすかな物音に驚いても泣き、わずかな光に目が眩んでも泣いた。これと言って何も無い時ですら昼夜を問わず泣き出すのには困り果てた。
水神の一端だからか、何かにつけて良く泣く壱松よりもさらに泣いていた。(尚その旨を壱松に伝えたら睨まれた。)
ともかく食事は妖力で補い、おしめは丁寧に洗った古布を壱松に浄化してもらい用いていた。
衣服には薄衣を幾重にも巻いたものを、寝所には綿を多量に詰めた薄衣の袋を敷き詰めた葛籠を、おしめを変える場所には縁側にぼろの畳を用意した。風呂は下手に洗うより壱松の水術と浄化の方が綺麗になったので其方にした。
赤子の為に東奔西走、さすがの俺も疲れ果てた。しかしかつて 赤子の面倒をみていた経験がここで役に立つとは。身体の成長の早い、化け烏として生を受けた事を、少しだけ良く思った。
尚、どうしても手が離せない時は壱松にだけ行ってもらう等して松の木の下を確認したが、この赤子の親らしき者の姿は無かった。あまり回数を重ねても仕方ないので、今日からは赤子を見つけた逢魔が時にのみ行く事にした。
月齢九。
今日は喜ばしい事があった。
赤子が一定の間隔で目を覚ますようになったので、ある程度余裕が出てきていた。それ故赤子の好きなものを探そうと色々試した結果、壱松の提案である、俺の風術で軽くくすぐってやる事できゃっきゃと笑う事が分かった。風属性に適正のある子なのだろうか。兎も角、これでこの子の泣き虫問題が解決した。有事の際は風術を用いれば良い。壱松と俺との合わせ技で問題を解決出来た事が嬉しかった。
しかし、今日も親は現れなかった。
月齢十。
赤子はよく笑うようになった。壱松はよく赤子と遊んでいる。ちょっとさみしい。
今日も親は現れなかった。
月齢十一。
壱松に全力で俺にも構って攻撃を仕掛けた。怒られた。
今日も現れなかった。
月齢十二。
赤子の起きている間は三名で遊ぶ事が殆どになった。楽しい。
でも、今日もいなかった。
月齢十三。
家はすっかり賑やかになった。
今日も駄目だった。
月齢十四、満月。
今日の出来事は具に記しておくべきだと思った。故にいつもより長く頁をとる事とする。
逢魔が時の頃、その日はなぜか寝過ごしてしまい赤子がぐずり出した声に跳ね起きた。風術を用いてあやしながらおしめを変え、妖力を与えるとご満悦の様子の赤子はすやすやと眠りこけ、身体を持ち上げても気持ちよさそうに寝息を立てていた。その為赤子と共にどこか散歩に行けるやも、と思った俺は壱松とどこに向かうか相談しようとしたが、その姿がどこにも無かった。俺は大いに焦ったが、何時もこの時間に松の木の下へ向かっていた事を思い起こし、落ち着きを取り戻した。
それでも心配であったので、赤子を抱えたまま松の木の下へ向かった。
壱松はやはりそこにいた。しかし、座り込んで泣いていた。声を掛けると顔を上げ、赤子に気づいた壱松は頬をやさしく撫でてからさらに泣き出した。何があったのかと問うと、壱松はこう言った。
こどもは、おやにのぞまれてうまれてくるんでしょ。
いつまでもむかえにこないで、すてるみたいなことするなんておかしいよ。
それなのに、どうして。
“親”だからといって誰しもが命に慈しみを持つ訳じゃない。だなんて、言える筈もなく。
何かふかあい事情があるんだよ、きっと。
必死に捻り出した答えがそれだった。
すかさず壱松が問い返す。
おれのおとおさまとおかあさまみたいに?
壱松はそこまで言って泣き出した。
かあさま、と言いながら。
そのひとは、もうこの世にはいない。
幼いこの子にはあまりにも残酷であったが、その上にあった親子愛は、羨む程美しいものだった。
壱松があの赤子に酷く同情的なのは、それ所以のものだったのかと頭の隅で考えながら、どうにかして壱松の事を落ち着かせようと言葉を探り、ようやく考えついたのは
いちまつはお母さんとじゃなくて俺と暮らすの嫌?
なんて、子供じみたものだった。壱松はふるふると首を横に振った。幼子に気を使わせてしまっていただろうか。しかしそれが功をなしたようで壱松の涙は止まっていた。それからこう言った。
あらたなえにしをえられるなら、かなしいとはいいきれない、ってこと?
俺は何一つ分かっておらずとも全力でそれを肯定した。壱松は自分で納得の行く答えを見つけたみたいで良かった。無駄に図体ばかりでかい俺より小さな壱松の方がよっぽど頭の出来が良い。こういう所でこの子も神族なのだと実感させられる。
ともかく、今日はこんな事があった。
月齢十五。
今日は特に目立った事は何も無い、素晴らしい一日だった。
月齢十六。
今日も特に何も無い、素晴らしい一日だった。
月齢十七。
今日も特に何も無い、素晴らしい一日だった。
…
…
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月齢零、新月。
とうとう赤子の親が現れる事は無かった。
何も知らない赤子は無邪気に笑っていた。
対照的に壱松の表情は暗く沈み、
俺にはそれがとても耐えきれなかった。
だから、その場であの赤子を俺達の弟にすると壱松に告げた。壱松の目に光が灯った。赤子がいっそう大きな声で笑っていた気がした。
ふたりで相談して名前を決めた。
十三本の大きな松の木の集う場所で出会った故に“捨参松”を提案したら語感が悪いと即時に却下された。赤子の笑い声も止んだ。
壱松が、松は自分にも俺にもあるからこの子にも欲しいと、自分の一を足して“じゅうしまつ”『捨肆松』にしてはどうかと言った。そこで赤子が再び笑いだしたので、それに決まった。
俺もその名が良いと思う。やや画数の多いのが難点だが。じゅうしまつ、じゅうしまつ。確かに呼びやすい。
これからよろしく、じゅうしまつ。
月齢一。
今日から俺と壱松と捨肆松の、三兄弟暮しの始まりだ。とはいえこれまでと大きく変わる事は無い。否、一つある。もう松の木の下へ行く必要が無くなった事だ。捨肆松はもう俺と壱松の大事な弟なのだ。今更訪ねて来ようとも明け渡す気は毛頭無い。
何はともあれこれで俺はふたりもの小さな命を守る者としての責任を持つ事になる。もっと、精進せねば。
今日から鍛錬を強度を数段上げて再開する事とした。
昔はあんなにも嫌だった努力が、かわいい弟達の為となるとやる気で満ち溢れていく。今の俺ならば、より高みを目指せるやもしれない。
月齢二。
やはり、辛い。諦める事とする。
鍛錬の強度は変に弄るべきではない。何より、弟達と遊ぶという大事な仕事があるのだ。いと仕方無し。
月齢三。
鍛錬の強度を通常の物に戻し再開した。
それ以外は特に何も無い、素晴らしい一日だった。
月齢四。
今日も特に何も無い、素晴らしい一日だった。
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