狭山、小池の家に行く 終戦から二年が経った秋、俺は帰還前に小池から手渡された住所へ足を向けた。なぜ会いたくなったのかと言われれば、自分の方も落ち着いたのでそろそろ会ってもいいかと思ったからだ。手土産に道中で和菓子も買った。物資の少ない時分に、手に入れるのはなかなか大変だった。本当だったら俺が食べたいくらいだ。食べてしまってもよかったし幾度となく食べようかとも思ったが、戦時中ことあるごとに大福が食べたいと言っていたあいつの顔を思い浮かべてはこらえた。そうしてはるばるたどり着いた住所にあったのは一軒の小さな店だった。
「いけ屋……」
食堂か? 白いのれんに書かれた店の名前を呟いてみる。あいつの家は商売をしていたのか。実家がなにをしているかなんて話まではしなかったしな。もし客があったら迷惑になるかとも考えたが日にちと時間を前もって手紙で伝えておいたし大丈夫だろう。俺は息を吸うとのれんをくぐった。
「ごめんくだ……」
さい、を言う前に目に飛び込んできたのは頭に白い手ぬぐいを巻き、同じく白の作務衣を着た小池の姿だった。俺は飛行服や三種軍装をまとったあいつしか知らなかったからこれには正直口をあんぐり開けて固まった。無精髭、はそのままだ。いや、剃れよ客商売だろと一瞬思ったが、まあ似合っているし懐かしいからいい。
「よう! 誰かと思えば!」
〝マフラーがないからわからなかった〟なんて言うがしっかり手紙で日にちを確認して〝オマチシテオリマス〟なんて慣れない敬語で返事をしてきたのはどこのどいつだ。
「何屋だ、ここは」
「見ての通りの和菓子屋だよ」
「和菓子……!?」
「と言っても……これじゃわかんねえよなあ」
苦笑混じりにため息をついて小池が目をやる棚には、本来そこにあるだろうはずの羊羹や饅頭や大福や餡子玉の類はなかった。
「ま、説明するまでもねえと思うけど」
「ああ……」
甘いものは贅沢品だ。戦時中、和菓子屋はどこも休業を余儀なくされた。決められた菓子屋だけが陸、海軍に納入する羊羹や饅頭を作ることを許されていたが、それも戦局が悪化して物資が少なくなり空襲が増えるとままならないことが多くなった。そして訪れた戦後には砂糖なんて高級品は滅多に手に入らない。と、土産を買った和菓子屋の人が熱心に俺に話して聞かせてきた。
「店が残ってるだけまだマシだ、この辺には看板しか残らなかった店もあるくらいだし」
「そうなのか」
釜や調理器具や、大きい店だと設備まで供出したらしい。うちの釜は一体何になったのかねえと、小池は思い出したように言った。なにもない棚をしばらく二人で見つめているとボーンと柱時計が鳴った。ちょうど正午だ。それが合図になって、また小池は喋り始めた。
「俺の作ったやつ食わせてやりたかったし見せてやりたかったなー」
勘定台の上に頬杖をついてため息。俺はそんな小池の姿を見て思ったことを言わずにはいられなかった。
「本当に和菓子屋の息子なのか」
「さっきから言ってんだろ和菓子屋だって」
「つまり、菓子職人ということか」
「そうだよ」
「知らなかった……」
「言ってなかったからなー」
そんな、信じられない。和菓子なんてわびさびの世界じゃないのか? 繊細な指の感覚と味覚を要求されるものだろう? 詳しくは知らんが。こいつがこのごつい指でそんな細やかな作業を?
「まあ、あんたが何を言いてえのかは聞かずともわかるよ。意外と俺は得意なんだぜ細かい作業とか……面倒くさいだけで」
ああ、確かに言われてみれば。あの頃、ほつれたマフラーの先を四苦八苦しながら縫っていた俺に、貸してみろと言って声をかけてきたのはこの男。柄にもなく、その辺に咲いていた雑草で器用に冠なんか作っては頭に乗せてきたのもこの男。
「材料がないからなんもできねえけど、かと言って手をこまねいてるわけにもいかねえし……仕方ねえから使えるもんは綺麗にして看板も磨いて、いつでも始められるように空気相手に感覚を取り戻そうと毎日毎日……」
そう言って宙を揉んだり捏ねたりする。なんなんだその手つき。しなくてもいい想像ばかりしてしまう。確かにあの頃もその指で、ああやってお前は俺の肌を──
「で? さっきから気になってたんだけどそれ何?」
俺のしなくてもいい余計な想像は、小池の声によって呆気なく霧散した。奴が言う〝それ〟とは俺が小脇に抱えている風呂敷包みのことだ。確かに気になるだろう。客人にこんなものを持ったまま玄関先でずっと立ち話されていたら俺だって気になって聞くと思う。
「こっ、これは……」
しまった、実家が和菓子屋だと知っていたならよその和菓子屋の商品なんか買ってこなかった。嫌な顔をするか、それとも喜ばれるか。二つに一つ。だがこの店の有様を見たあとでは、こんなに恵まれた状態の店の菓子なんか渡しにくい。俺は意を決した。
「紫電改部隊の仲間に渡そうと思って途中で買った」
「へえー、あんた本当に仲間思いだな」
なんだか少し申し訳ない気持ちになって風呂敷包みを後ろ手に隠した。話しているうちに気づいた、小池があの頃あんなに食べたがっていたのは、自分の店の懐かしい味の大福だったんじゃないかと。支給される羊羹は有難かったが、確かに飽きもした。贅沢なんぞ、言えなかったが。
「まあなー……伝統の味を守らなきゃいけねえのも確かだが今はそうも言ってられねえ……もたもたしてたら洋菓子に押されちまう、なんだかんだみんな新しもの好きだしな」
確かに、シュークリームやショートケーキには大の大人だって目を輝かせる。斯く言う俺も目の前に出されたら喜んで飛びつくだろう。
「だからこの先は新しいもんを取り入れて他がやってねえこともやりてえと思って色々と考えてるんだ」
「ふーん、意外だな」
もっと古くさい考えをする奴だと思ってた。
「それでだ、あんたのそのお洒落な感性を見込んで聞きてえんだが……なんかねえかな」
お洒落と言われて怒る奴はいないだろう。多分に漏れず俺もそうだ。確かに、自分が選ぶものには自信もこだわりもある。わざとらしく咳払いをし、顎に指をやると考えをめぐらせた。
「そうだな、定番商品も重要だがそれ以外に季節の目玉を何か作ればいいんじゃないか? 夏になったらこの店のあれを食わなきゃな、と言うような」
「なるほど! 季節の訪れを告げる商品か! それで?!」
頬杖をついていた小池が勘定台の上に前のめりになる、身を乗り出す勢いで。それに釣られて俺もぐっと近づく。
「それひとつで季節を表現するような……例えば夏なら海を模したものとか夏の花を模したものとか、それこそ花なら生地にその色を練り込んでみても……」
まだ話している途中なのに俺の言葉は途切れた。小池があろうことか身を乗り出して俺の体に腕を回したからだ。近づきすぎた俺も悪かったが、こんなにいとも簡単にあっさりと触れてくるとは思わなかった。意表をつかれて咄嗟に後ろ手に持った風呂敷包みに力を込めてしまった。行き場がなさすぎる、この思いの、抱き締め返したい衝動の。ミシ、と嫌な感触がして慌てて力をゆるめた。
「ありがとう! 助かった」
「べっ……! 別にたいしたことはしていない!」
体を離す時、いつも小池の体からしていたはずの煙草の香りがしないことに俺はすぐに気づいた。あの頃あれだけ親しんだ香りだ、気づかないわけがない。
「やめたのか? 煙草……」
「ああ、あれは口が寂しくて喫んでただけで……帰ってきてからは喫んでねえよ。味がわからなくなったり匂いが移ったら商売上がったりだし……って言っても今はその商売もできてねえんだけど。まあいつ始めることになってもいいように、備えあればなんとやらだ」
そう笑う小池からは甘い匂いがする。変だ、煙草の匂いはしない代わりに甘い匂いばっかりさせる。指摘したら〝店に染みついたあんこの匂いかね〟と軽く言った。俺には染みつかなかったくせに、お前の匂い。
「ってか立ち話もなんだから上がれよ」
「おい、俺がここに来てからもう三十分は経ってるぞ」
土産物の風呂敷は一先ず勘定台の下に預け、促されるままに奥に進む。今日は家に誰もいなくてと笑う声をどこかぼんやりと受け流す。ちらっと調理場を横目に見て、手招きされるままに着いていく。そして二階へ続く暗い階段を上りかけて──ふいに口を吸われた。そのままゆっくりと溶けて混ざっていくようだった。
「柔らかいなあ大福より」
そんな戯言に、俺は何も言い返せそうにない。〝このあと試作を作ろうと思ったけど、今ので味がわからなくなっちまったからやめだ〟とも。ふざけるな、俺を抱いたその手で、菓子なんか作るなよ。俺に触れておきながら、他のものを愛でようとするな。
「ってなわけで、やることがなくなったからこの後は暇だ」
そうか、やることがないか。
「ならば俺が今からひとつ、やることを作ってやろう」
二階に上がる間も惜しい。自分から誘うなんてそんな甘ったるいことは、本来俺のガラじゃないんだがな。
それから季節が巡って、何度目かの夏。
「狭山サン、今年も夏の風物詩が始まりました……か」
畳の上、蝉の声を聞きながら今しがた届いたばかりの葉書の文面を読み上げる。まったく、律儀なやつだ。俺は団扇片手に壁のカレンダーを見つめた。
「来週なら行けるな……」
言っておくがお前に会いに行くわけじゃない。お前の味が恋しくなっただけだからな。
【完】