神々の棲家【モブ視点wdtm坂伴】この瑠璃色に光る晴れ渡った海の下にはーー神様が暮らしている。
あれは何度目かの夏休み。俺がまだ小学生だった頃の話だ。
父方の祖父母の家に泊まりに来ていた俺は近所に住む従兄弟達に誘われ、海に遊びに来ていた。公園やゲーセン、コンビニといった子供の娯楽施設に乏しい田舎で、海は唯一楽しい場所だったと言える。
鼻に感じる潮の香り、どこまでも澄み切った珊瑚礁の海。今でもはっきりと覚えている。あの言葉にできないほど美しい、鮮やかな色彩を。
俺達は暇さえあれば海に遊びに行った。砂浜で小さな蟹を探しては追いかけたり、打ち上がったくらげを突っついたり。珊瑚礁に棲みついた色とりどりの魚達に感動したり。毎日真っ黒に日焼けして、宿題もほっぽり出してくったくたになるまでよく遊んだものだ。
しかし、ある日のこと。
皆で入江にある岩場を散策していたら、従兄弟があるものを見つけたのである。
「なぁ、これすげぇ綺麗じゃね?」
それを見つけたのは一緒に遊んでいた従兄弟の兄の方だった。ごつごつとした岩の隙間に手を突っ込み、拾い上げたそれを得意げに俺達に見せつける。それは肌を照りつける太陽の下、赤く、淡く煌めいたのは大きな魚の鱗だった。
「これって……鱗?」
「みたい。こんなの初めて見た。何の魚だろうな」
「わぁ、キラキラしててすっごく綺麗! もっとよく見せて」
魚の鱗といえばどれだけ大きくとも子供の手に余裕でおさまるサイズをイメージするだろう。だが、従兄弟が拾ったその鱗は手のひらぐらいの大きさがあった。
「でかっ! 実は偽物とか?」
「いや、鱗だよ。これ。こんなに薄いのにしっかり硬いから本物。硬いけど石の感触じゃない。」
宝石や水晶の類で精巧に作られた芸術品のようなそれに、好奇心旺盛な子供である俺達が食いつかないわけがない。太陽に透かすと水面に負けじとそれは一層輝いた。
「なんだろ、馬鹿でっかい鯛でも釣った奴がいたのかな」
「ははっ、こんな浅いとこで鯛なんか釣れるかよ。鯛はもっと深いとこじゃなきゃ釣れん釣れん」
「じゃあ、何の魚?」
「何ってこんだけでかい魚は……あー、そうだ! じいちゃん達に聞いてみようぜ! 海と魚のことならやっぱり漁師が一番詳しいだろ!」
俺達はそれを嬉々として持ち帰った。じいちゃん達の家に帰った俺達は床の間で釣竿の調整をしていたじいちゃんに「じいちゃん、これって何の魚の鱗だと思う?」とその足で尋ねに行った。すると、それを見たじいちゃんの顔から一瞬にして笑顔が消えたのだ。これでもかと目を見開き、従兄弟の手からそれを奪い取る。
「お、お前達……一体どこでこれを」
頭の上に乗せていた老眼鏡をかけ、孫から奪った鱗を震える手にしっかり握り締めては凝視するじいちゃん。その気迫とでもいうのか、子供ながらにも普段のじいちゃんとは違う様子がとても怖かった。
「えっ? あ、いや。いつも遊んでる入江からちょっと歩いたとこにある岩場だけど……。そんなに危険な魚の鱗?」と従兄弟が尋ねる。するとじいちゃんはひとしきりそれを観察して、老眼鏡を机の上に置いた。
「魚じゃない。魚じゃないんだ。……これは、“人魚”の鱗だ。あぁなんてもん拾ってきたんだ」
「人魚!?」
頭を抱えながらその言葉をはっきりとした口調で言い切ったじいちゃんに、俺達は顔を見合わせた。そして盛大に腹を抱えて笑った。
「ぷっ、ははははっ!! 人魚って! もうっ、じいちゃん俺達が子供だからってそんな冗談きついって」
「本当本当!」
その年の六月、人魚のお姫様を主人公にした実写映画が公開されたことを思い出したのか。従兄弟の妹の方が有名な歌を口ずさみ始めたことで、俺達の笑いは最高潮に上り詰める。
「人魚なんて空想上、おとぎ話の生き物だって皆知ってるよ」
「なっ? でも本当にいたらどんなだろうな。本当に下半身は魚なのかな」
「いや、タコもあり得る。でもあのサイズのタコは不味いだろうなぁ」
「わたし、タコよりイカの方が好き」
「えぇ〜、俺は断然タコ派だな。タコ焼き食べたいな。明日駄菓子屋でタコ焼き食べようぜ」
話が逸れ始めたその時、じいちゃんが「冗談なもんかっ! この馬鹿たれども!!」と厳しい口調で俺達を怒鳴りつけた。その反動で従兄弟の妹の方が泣き出し、泣き声を聞いた叔母さんが慌てて部屋にやってきた。
「お義父さん、すみません。どうかしましたか?」
「……すまん。ちょっと……。怒鳴って悪かった。西瓜冷やしてるからあっちで食べといで」
祖父は深いため息と共に泣きじゃくる我が子を抱いた叔母さんを部屋から出すと、完全に机の上で頭を抱えた。
「あぁ……まずいことになったぞ」
ぶつぶつと念仏のような独り言を口にし始めたので、取り乱した様子のじいちゃんに俺達は尋ねた。
「じ、じいちゃん。その、……笑ってごめんなさい。あの人魚って、どういうこと?」
「本当に人魚がいるの? こんな田舎の海に。俺初めて聞いたんだけど」
「…………」
じいちゃんは長い沈黙の後、ぽつぽつと話し始めた。
話を聞く所、この辺りの海には昔から人魚が棲んでいるという。その話を知っているのは今では漁師達と、ごく一部の人間だけらしい。なんでも、“海でもし人魚を目撃しても見て見ぬふりをしろ”、“外部の人間には決して話すな”という暗黙の掟が色々あるそうなのだ。
「じゃあ、父ちゃんは知ってるんだ」
従兄弟の父、俺の叔父さんもまたじいちゃんと同じ漁師だった。とびきり腕のいい漁師で、去年の祭りでは大漁旗が翻る漁船の先頭に選ばれている。漁業組合の顔的存在だ。
「あいつは一度漁で人魚に網を切られてる」
「う、うっそだぁ!」
「嘘なもんか。ある日、恐ろしく魚が獲れる日があってな、欲をかいたあいつは漁を終えた後一人で海に出たんだ。それが海神様の怒りを買って、網を切られて船のエンジンまでお釈迦になった。馬鹿な奴だよ、全く」
ここで聞きなれない言葉が登場する。
「ワダツミ?」
「海の神様のことだ。人魚は海神様の海での姿で、この赤い鱗は俺も若い頃見たことがある。あの海神様のもんだ」
「人魚って神様なの!?」
「じいちゃん、人魚を見たことあるの!? 嘘!?」
「嘘なもんか。俺は確かに見たぞ。嵐の海で船の航海計器が壊れて陸への方角がを完全に見失い、皆で死を覚悟した時……荒れ狂った波間に赤い鰭が跳ねるのを見た。俺が今こうして生きて漁に出られているのも海神様達のおかげなんだ。あの赤い鰭を見た後、不思議と勘が働いて全員で陸に戻ることができた」
この辺りの海に棲む人魚、“ワダツミ様”の話は子供ながらに信じがたい話だった。だがじいちゃんは冗談でも嘘を言うような人じゃない。だから本当の話なのだと思った。
「綺麗だった?」
「何がだ」
「ワダツミ様だよ!」
「……あぁ、綺麗だったよ。だが同時に恐ろしくもあった。波間に覗かせたあの大きな目、あれは今でも脳裏に焼きついて離れんよ」
「こ、怖いんだ」
「怖いさ。普段は穏やかだが、気性が荒いと昔他の漁師から聞いたことがある。だから決して怒らしちゃなんねぇんだ。……お前達はどうして神社にしめ縄があると思う?」
「え、あんまり考えたことなかった。なんで?」
「あぁして封じ込めておかないと、神様は外に出て悪さをする。神様の善悪は俺達とは違う。何が起こるか分からねぇ。だから定期的にお供えしたり、祭りを開いてご機嫌をとるんだ。いつも居心地良い環境を整えて、いつまでもそこにいてもらえるように」
「お祭りって俺達が楽しむ為のイベントじゃなかったの!? この前のお祭りも!?」
「あの祭りは元々海神様達に楽しんでもらう為の祭りなんだ。『一年間、海の恵みをありがとうございました。また来年もよろしくお願いします』って気持ちを込めてのな。俺達が楽しむのはついで」
「まじで!?」
「あぁ。だからここら辺の祭りじゃ、露天でタコ焼きだとかイカ焼きだとかの海鮮を使ったものは絶対に出さない。海神様の怒りを買うとどうなるか、皆知ってるからだ」
こうしてじいちゃんの話を聞くと、腑に落ちるところがあった。
確かに言われてみると、縁日の屋台でよく見るタコ焼き屋をここの縁日で俺は一軒も見たことがない。海のそばなのだから、イカ焼きや浜焼き、魚の塩焼きを売る屋台があってもおかしくはないのに、その手の屋台を一軒も見たことはなかった。最初は偶然だとも思ったが、考えればおかしな話である。だが、おかしな話は他にもあった。
「じゃ、じゃあ祭りの一週間前から皆が漁に出ないのもなんか意味があるの?」
「ある。祭りが開催される前後一週間は漁に出ちゃなんねぇんだ。勿論、その期間は誰も魚や貝を口にすること……海での殺生は許されない」
「祭りの間、子供以外海に入っちゃいけないってのも……」
「神様は穢れを嫌う。特に海神様は穢れというものに敏感で……。お前達子供はまだ“無垢”だから別に海に入っても怒られない」
ここでじいちゃんが口にした“ケガレ”の意味がこの時の俺達には分からなかった。だが、今となればその意味が分かる。神社仏閣などでもたまにある禁制のことをじいちゃんは言っていたのだ。
「でも、これ……これ勝手に拾って持って帰ってきたから、怒る……かな?」
「分からん。何が起こるか分からんが、間違いなくその大きな鱗は魚のもんじゃねぇ。海神様の鱗だ。俺には分かる。たかが一枚だが、きっと探してるはず」
そう言ったところで、偶然か必然か。遠くの空で雷鳴が轟く音が聞こえた。とても恐ろしなきなった。暗雲の隙間、何度も鋭く光る雷に俺達は思わずじいちゃんに泣きながら抱きついた。
「あぁ……困ったな。分からずやった子供のこととはいえ、困ったなぁ」
昼間の天気が嘘のように訪れた嵐の夜、じいちゃんの皺だらけの大きな手の温もりを感じながら俺達は初めて知った神様の存在に恐怖した。
***
それから数日、嵐は続いた。
祭りが終わって一週間経っても海は荒れ続けており、漁師達は漁に出ることが出来ず、地元で取れる新鮮な魚介類が店先に並んでいるところを俺達は暫く見ていなかった。
「家から出るな」とじいちゃんにキツく言われた俺達は仕方なく夏休みの宿題に手をつけながら、机の上に置いたそれをたまに見つめた。じいちゃんが用意した桐箱に収めた例の鱗、それは拾った時よりも赤みを増しているようだった。その赤はとても美しい色だったが、同時に何よりも恐ろしいものに感じた。
「……なんで拾ってきちゃったんだろ、俺」
ぼそりと従兄弟はそう言った。従兄弟はここ最近体調がよくない。毎日ばあちゃんと叔母さんが栄養満点の料理を卓に並びきらないほど作っているし、それを従兄弟も頑張って口にしていたが日に日にふっくらとした頬はこけ始めていた。話を聞くと、最近では毎晩のように怖い夢を見るらしくあまり眠れていないとかで、目の下にははっきりと見て分かるほどの隈が出来ていた。
「昨日も魘されてたけど……大丈夫?」
「全然大丈夫じゃねぇよ。……夢の中で何度も飛行機に乗ってるんだ」
「飛行機?」
「ほら、あの戦争映画とかで出てくるあれだよ。あの……」
「零戦とか?」
「それ! そういうのに乗ってるんだ。乗り方なんか全然知らないのに、ゲームのキャラみたいに俺は操縦席に乗ってるんだよ。一人で。海の上で。で、俺の周りを飛んでた零戦が次々に撃ち落とされて海に落ちて行くんだ」
「そ、それで」
「……それで、最後は海に。もういやだ。俺が何したっていうんだよ」
「……天気が落ち着いたら、これ返しに行こうよ。俺も一緒に謝るから」
「どうやって返すんだよ! 人魚なんかいない! 神様もいない!!」
「だってこのままここに置いてたって解決しないじゃん!」
「分かってるよ!怒鳴るな!」
「先に怒鳴ったのはそっちだろ!!」
「うるせぇ!」
そこから取っ組み合いの喧嘩が始まったのは言うまでもない。従兄弟の服を引っ張り、従兄弟が俺の髪を掴み。二人して畳の上を転がっていたその時。タイミングよく、玄関のチャイムが鳴った。
ーーピンポーン。
その無機質な音に二人して大きく肩を震わせて、お互いを引っ掴んだまま固まった。普段チャイムの音にこんな反応を示すことはなかったが、連日不思議なことが起きているせいかもしれない。けれど、何故かこの時。玄関の向こうに立つ人達が“人ではないのかもしれない”と思ったのだ。
「はーい。お待ちください」
襖越しに遠くで叔母さんの声が聞こえた。恐らく台所にいたのだろう。ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら廊下を進み、この部屋の前を通り過ぎて玄関の方へ向かっていった。俺と従兄弟は喧嘩を辞め、襖をそっと開けた。
「突然の訪問失礼します。私坂ノ上と申します」
襖からそっと顔を覗かせると、そこには二人の対照的な男が立っていた。
一人は某探偵漫画のへっぽこ探偵を彷彿とさせる、鼻の下の髭が特徴的なスーツ姿の男だった。着ているスーツは子供ながらにも父が普段着ているそれとは雲泥の差だと思った。雨に濡れたせいか、艶を纏った黒一色のスーツに深い群青色のネクタイがやけに目に眩しい。一方連れの男は夏だというのに目深にニット帽を被っており、黒のジャージ上下につっかけサンダルを履いていた。こちらは夜中にバイクで走り回ってる隣の兄ちゃんに既視感を覚えた。
「坂ノ上さん、ですね。ご用件はなんでしょうか。生憎義理の両親は町内会に出てまして、私は留守を預かっているのですが」
「いえ、我々が用があるのは……あちらの子達です」
「えっ? あ、あの子達ですが? 失礼ですが、うちの子達が何かご迷惑でも」
「いえ、その逆です。“大事なもの”を拾っていただいたのです。今日はそのお礼に伺いました」
ーー二人の男と目が合った。
その目は笑っているのに、睨みつけているようにも思えた。その瞬間確信したのだ。この二人は人間の姿をした、神様なのだと。でなくてはおかしいじゃないか、こんな雨の中傘もささずにやってくるなんて。しかも濡れていない。
俺と従兄弟は怖くなって慌てて襖を閉めたが、足音荒く部屋に入ってきた叔母さんに「お客さんの前でお行儀が悪いでしょ!」と叱られてしまう。
「か、母さん! ダメッ! あの人達は家に入れちゃダメだよ!」
「そうだよ叔母さん! 早く追い返して!!」
「何を言ってるのこの子達は。いい事したんでしょ!? どうも、うちの子達がうるさくてすみません。どうぞお上がりください」
この男がテレビの中の有名人のように秀でた容姿をしていなければ、きっと叔母さんはこの男と、その隣にいるヤンキーのような男を家から追い出してくれたのだろうか。
叔母さんの許しを得た男達は「お邪魔いたします」と玄関で靴を脱ぎ揃え、上がり込んでくる。部屋の中に二人が入ってくる前に、咄嗟に俺は机の上に置いていた桐の小箱を床の間の壺の中に隠した。
「お客様に座布団お出ししてね。すぐにお茶をお待ちしますから、おかけになっててください」
何も知らない叔母さんが上機嫌でいなくなり、襖が閉じられた部屋に俺と従兄弟は二人の男は四人で顔を突き合わせることになった。机を挟んだ向こう側に並んだ謎の男達。異様な光景を前に従兄弟は叔母さんの言葉に従い、押入れから座布団を二枚取り出すと怖いながらも男達に座布団を差し出した。手が震えていた。男達はそれを受け取り、座り直す。痛いほどの静寂が部屋の中に漂い始めるが、案外その終わりは早かった。
「さて、子供達。とりあえず座ろうか」
最初に唇を開いたのは、スーツの男だった。口元に美しい笑みを滲ませているものの、その目は笑っていない。ーー男に逆らってはいけない。俺達は本能的にそれを悟った。口を噤んだまま、男達の向かい側に座る。
「単刀直入に聞く。どうして私達が今日ここに来たか、その意味は分かるね?」
「あの、おじさん達は……」
「無駄なことは喋らなくていい。こちらの質問だけに答えなさい」
「……」
従兄弟に視線を流してみる。
だが従兄弟は今にも死にそうな顔をしており、正座した膝の上握った拳を無言で震わせていた。いつもは暴君のような従兄弟が酷く怯えている。その気持ちは痛いほど分かった。俺だって出来るなら今すぐ逃げ出したい。
「……はい。分かり、ます」
「いい子だ。なら、自分達がすべきことも分かるな?」
「ご、ごめんなさい!! 俺達知らなかったです。あ、あれが……あなた達の物だったなんて。ただ凄く綺麗だったから、何の魚の鱗かなって思って、それで」
「あぁ、綺麗だったろう。だがなそれを理由に許されることかな。“綺麗だったら勝手に人のものを盗んでいい”のか。“無垢であれば何をしても許される”のか。違うだろう」
「……」
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!! 返すので許してください!!」
「返す気はあったのに返しに来なかったのはそちらだ。だからわざわざこちらが上がってきたんだ。折角二人で祭りを満喫したというのに、興醒めにも程がある」
「はい! ごめんなさいごめんなさい」
「謝って済む問題じゃない。お前達の行いで私のつが……連れが大変な目にあるところだったんだぞ」
男が言葉をするたびに頭が、肩が、全身が重くなった。足に生暖かいものを感じ、滲んだ視界で見てみればそれは従兄弟が漏らしたおしっこだった。涙が止まらない。俺も我慢していたものが漏れ出そうになった。
「一体誰のおかげでお前達は今息をしてると思うんだ。与えられた恵みを享受することがいつも当たり前にあると思うな」
バクバクとうるさい心臓が今にも押し潰されそうだった。否、この男なら俺達の心臓も握り潰してしまうかもしれない。本気でそう思った矢先。
「はぁ。……ガキ相手にやりすぎです」
今まで無言を貫いていたもう一人の男がーー重い唇を開いたのだ。
「伴! し、しかしだな」
「ほら、こっちのチビなんか漏らしてるじゃないですか。あんたがたかが鱗一枚でそんなに目くじら立てるからですよ。みっともねぇなぁ、ガキ相手に」
「「……」」
「だからそのジャケット貸してください」
「なぬっ!? お、俺のジャケットで拭くつもりか! それにたかがじゃない!! その一枚の鱗で俺はお前を傷物にされた気がした」
「いや、俺が勝手に落としただけだし。それにあんたは俺を“キズモノ”にした一人ですけど、あんたがそれを言うんですか?」
「……あ」
「ハハッ! 墓穴ほってらぁ!」
男がスーツの男を笑い飛ばすと、部屋の中を支配していた重々しく張り詰めた空気が一気に解放される。
「だからびーびー泣くんじゃねぇよ。別に俺は怒っちゃいない」
男はそう言うと、隣の男が着ていたスーツのジャケットを無理やり脱がせた。「あぁ……買ったばかりの一張羅が!」と訴える男の声も聞かず、無慈悲にもそのジャケットを濡れた畳の上に落とし、あろうかとか足で踏んづけた。乱雑に何度かジャケット越しに床を踏み鳴らすと、皺と大きなシミをつけた可哀想なジャケットを男の顔に投げつけて何事もなかったように元の位置に戻る。
「そもそもあんたのじゃねぇのに、何でそこまで怒るんだか。鱗一枚ですよ?」
「その一枚が大事なんだ! あの鱗がなくなったままじゃ、お前の神性が薄れ、いずれ海神でなくなってしまうんだぞ!?」
「別にいいです」
「よくない! 何故そんなにこの子達を庇う!」
「意味は特にないっすね。ただ気持ちは分かるから」
ーーこれぐらいのガキは、そういうことしちゃう生き物なんです。
そう言うと、男は口角に柔らかな笑みを浮かべた。
「素直に返してくれたらこの嵐、なんとかしてくれるんでしょ」
「お……お前がそう言うなら」
「だそうで、俺の鱗を返してくれ。返してくれたら俺達もさっさと帰る」
男は俺の背後にある壺を指差した。慌てて壺の中に隠していた桐の小箱を取り出し、俺は深々と頭を下げながら男に差し出した。
「すみ、すみません……でした。もうこんな、こんなこと……しません。だから俺達を許してください」
「分かった。悪かったな、こんな事して」
「ごめんなさい……ごめんなさい」
顔を上げられなかった。男の隣にいる男がこちらを睨みつけているような気がして、怖かったのだ。
「あーー……嵐はすぐ止む。今まで通り欲をかかなければ漁もしていい。また祭りをしてくれれば遊びに行く」
「もう、海には行きません……」
「……海は嫌いか?」
男の声に熱を感じた。
恐る恐る顔を上げると、男は渡した小箱の蓋を開け、それを落とした。男の手の中にはあの鱗があった。やはり何度見ても綺麗な赤だった。桜貝よりも色鮮やかな赤々とした珊瑚の色にも似たその赤から、男の目が俺の顔に向けられる。男の目には、鱗とは正反対に淡く確かな青が散っていてとても綺麗だと思った。ーーあぁ、この人は本当に海の神様なんだ。そう思った。
「あっ! こら伴! 子供相手に色目を使うな!」
「アホなんですか、あんたは。そんなんじゃねぇし」
「す……好き」
「あぁん? 何が好きだって?」
「ひっ!」
「ヤクザかよ」
「す、好き……大好き、ですっ! 俺、海大好きです!」
俺の好きな海が目の前に広がっているようだった。
俺の涙はいつの間にか止まっていて、ピントの合った目には「よかった」と朗らかに笑うその男の顔がはっきりと映ったのだ。
***
あの後、俺と従兄弟は気を失って倒れているところを上機嫌でお茶を持ってきた叔母さんに発見された。既にあの男達はいなくなったあとで、長く続いた嵐が嘘のように空には爽やかな青が光り輝いていた。
その後、あの男達を見ていない。
町の人達に聞いたりもしたが、そんな余所者を誰も見ていないと一様にそう言うのだ。
二人が本当に人間ではなく、人魚だったのか。海の神様だったのか真実は分からない。ただ今日もあの海は地平線の向こう側まで果てしなく広がっている。昔と変わらずに。
「伴、次は何が食べたい?」
「りんご飴」
「さっき綿菓子食べたのにか?」
「好きなもん食っていいって言ったじゃないですか。いちご飴でもいいです」
「チョコバナナはどうだ?」
「……それ、俺が食ってるとこ見たいだけでしょ」
「うん」
「ぶははっ! 素直ですね!」
だから、もしも入江で赤く光るものを見つけても、波間に顔を覗かせた誰かががこちらを見ていても。縁日で一際目を惹く男達とすれ違っても。何も気にせず息をしよう。全てはーー“触れぬ神に祟りなし”である。
「ぜってぇ嫌」
「言うと思ったよ。……浴衣、似合ってる。誂えた甲斐があったな」
「そりゃどーも」