僕の番だね「寝るな、村雲」
ドライヤーから吹き出す温風の向こうでそう呼びかけられて、半分夢の世界へ逆戻りしかけていた村雲江は、はっと顔を上げた。いつもより厳しい声を出した松井江を鏡越しに上目遣いで見詰める。
「でも、頭があったかくなると、眠たくならない?」
「今、寝落ちたら本当に遅刻だよ」
「はぁい」
取り付く島もない松井に、村雲はしょんぼりと俯いた。
朝食の後、私室でくつろいでいるところに村雲が半べそで飛び込んで来た時は、松井だけでなく同室の桑名江も随分びっくりさせられた。
「寝癖が直らないんだよ。これから遠征なのに」
確かに、村雲の鴇色がかったフワフワの髪は右側の一部だけが妙なはね方をしている。
「頑張ったのですが上手くいかないのです。松井、どうにかなりませんか?」
村雲の背後から現れた五月雨江が、松井の目の前に見覚えのあるドライヤーを差し出した。浴場に備え付けのものを借りてきたらしい。
松井は目を丸くしたまま村雲の髪とドライヤーを交互に見る。
「篭手切の方がこういうの得意だろう」
「篭手切はまだ洗い物してるんだよ」
そう言われてみれば、篭手切は本日の厨番に当たっていた。
「お願い!時間ないんだ」
村雲に詰め寄られた松井はすっと立ち上がった。
「どこ行くの」
縋るように松井のジャージの裾を掴んだ村雲の肩をポンポンと叩いて座るように促す。
「蒸しタオルを用意してくるだけだよ」
部屋を出ていく松井の背中に、わん、という声が二つ重なり、ありがとうって意味なんだろうなぁと桑名は思った。
「出来たよ」
鏡に映ったいつも通りに整えられた髪を見て、村雲の瞳がキラキラと輝く。
「すごいよ、松井!」
桑名が出した麦茶を飲みながら大人しく待っていた五月雨が、自分のものと色違いの耳飾りを取り出して村雲に付けてやった。
「間に合いましたね、雲さん」
「これで笑われなくてすむよ、雨さん」
二振りは顔を見合わせて嬉しそうに笑い、松井に何度も礼を言いながら出かけて行った。
静かになった室内に再び雨音が響きだす。
松井は自分のグラスを取って、残っていた麦茶をあおった。
「やれやれ」
卓袱台に置いた鏡台を片付けようと伸ばした手に、何故か桑名がブロー用のブラシを握らせた。
「どうしたんだ」
松井が困惑している間に、桑名は先程まで村雲が座っていた場所に陣取ってしまった。
「はい、次は僕の番だね」
どうやら自分も髪を整えてもらうつもりらしい。普段は畑へ行く時に帽子を被るからと顔を洗うついでに手櫛でさっと直すくらいなのに、どういう風の吹き回しだろうか。
しかし、今日は非番であり、天気が悪いので桑名も部屋でのんびりすると言っていた。少しくらいなら戯れに付き合ってもいいだろう。
膝立ちに戻って桑名の両肩に手を置き、鏡の中の期待に満ちた顔に話しかける。
「ふふ、桑名はどうしてほしいの?」
「じゃあ、おまかせで」
「そんなことを言うと派手な髪型にしてしまうよ」
冗談めかして言うと、桑名は声を立てて笑った。
少し癖のある柔らかい黒髪にブラシをあてていく。特に引っかかるところもないが、湿気のせいかいつもより膨らんでいる気がした。村雲の酷い寝癖も、湿気の影響があったのかもしれない。
「雲くん、気持ちが良さそうだったねぇ」
「蒸しタオルとドライヤーの熱で、頭の血流が良くなったんだろうね」
こくりこくりと船を漕ぐ村雲のあどけない表情を思い出す。
「そうだ。この前、加州に指圧を教わったんだよ」
ブラシを卓袱台に置き、頭頂部から揉みほぐしていくと桑名の口から聞いたことのない呻き声が漏れた。
「痛かった?」
「いや、予想外の感触で……」
「疲れているのかな」
ネイルケアの延長で習ったのは、事務仕事の多い松井向けに眼精疲労を緩和するものだった。
突然、振り返った桑名に腕を引かれて視界が反転する。あっという間に座布団の上に押し倒されたようで、松井が文句を言う前にあたたかい唇が降りてきた。
起きた時よりも雨足が強くなってきたようだ。
節だった指に髪を梳かれながら、今度は自分が甘やかされる番なのかと、松井はゆっくりと目を閉じた。