そして死神はわらう フェルドレスが宙で回った。
* * *
「シン! 隠れていないで出てこい!!」
ノウゼン家が所有する別邸の一つ、その中庭にて。キリヤ・ノウゼンは叫んだ。
気炎を吐きながらキリヤはぐるりと視線を巡らせる。本邸には及ばずとも帝国貴族武門筆頭たるノウゼン侯爵家が所有する屋敷だ。中庭だけでも結構な広さがある。
見る者の目を楽しませるために植えられて整えられた草花に、しかしキリヤは吊り上げた眦を緩ませることはない。黒い瞳はめまぐるしく動いて生け垣や植木の陰を確認していく。――まるで犬猫を探しているかのようだと自身の状況を客観視して、頭痛が酷くなる。
キリヤが探しているのは犬や猫ではない。
探しているのは、
「キリ?」
背後から声が欠けられる。穏やかな青年の声。はっとして振り返ったキリヤへと向けられる漆黒の瞳。――風にそよぐ紅い髪。
「ショーレイ様、」
「公的な場でもないんだから堅苦しくしなくていいってば」
居住まいを正したキリヤに対して、ショーレイ・ノウゼン――レイはあくまで温和。
歳の近い親類だからと。幼少期は親しくしていたことは事実だ。だが、いわくつきなれど嫡流のレイと傍流のキリヤだ。引きたい分別もあるのだが。
「なんだったらレイお兄ちゃんと呼んでくれても、おれとしては一向に構わないさ」
「呼んで堪るか」
ばっさりと。キリヤはレイの妄言を切り捨てる。けれどもレイは唇を尖らせてみせるだけで、ダメージなんて少しも与えられていないのだろう。それが少しだけ腹立たしい。
のらりくらりと掴みどころのない振る舞い。柔和な面立ち。肩に届く程度に伸ばされた紅髪と、武人というよりは碩学者じみた細身の体格――漆黒の瞳や機甲兵器を扱う腕前は別として。レイの髪色や背格好からは『母方』の血の色濃さを感じざるを得ない。
「つれないなぁ、」
言いつつ。おもむろに、レイは植えられた木の一本へと近寄っていく。――親族間での思考の伝達と感覚の共有。焔紅種の血に由来する異能の前には、いかな『かくれんぼ』の名手とて形無しだ。
「冷たくされたお兄ちゃんを可愛い妹は慰めてくれるかい? ――シン」
レイの瞳が木を見上げて――がさり、と。響く音。隠れ続けることは無意味だと悟ったのだろう。枝葉の隙間から少女が顔を覗かせる。
黒髪赤瞳。兄であるレイとは真逆の色彩を纏った少女――シンエイ・ノウゼンは花弁を噛んだような唇を小さく動かして、
「やだ」
……しおしおと。その場に蹲り、いじけ始めたレイは放置して。キリヤは大股でシンへと歩み寄る。
「シン!!」
今日一番の大声が出た。
シンは嫌そうに顔を歪める。
「淑女相手に怒鳴りつけるなんて紳士じゃないな」
「淑女は木登りなどしない!」
それ以前に、とキリヤは続けた。
「見合い相手をフェルドレスの複座に乗せた挙げ句、曲芸操作で怪我をさせる淑女がどこにいる!!」
「ここに」
しれっと答えたシンに、キリヤのこめかみがぴきりと震える。
お日柄も良い本日は、ノウゼンの姫君たるシンの見合いの日であった。
準備のためにと駆り出された男手の一人であるキリヤだが、昔なじみの視点で見ずともシンが気乗りしていないのは明らかで――けれど。知ったことではない。
貴族にとって婚姻とは政治の一手段に過ぎない。家同士の結束や力関係を内外へと示すもの。当人たちの意思など加味されない。……人の心を押し殺すが如き慣例に否を唱え、駆け落ち寸前の騒動にまで発展したのが他ならぬレイとシンの両親であるが。結果、混血として産まれた子供たちがいらぬ苦労を背負い込んでいるさまを見ているから。キリヤとしては己の心に従えなどとはとても言えない。
別に。見合い相手が悪い人物だとも思わなかったし。
ノウゼン臣下の中でも有力な一族の嫡男で。聡明だと評判の良い相手で。
まあ。
七歳だったけれど。
「小さい子に怪我をさせたのは良くなかったな、シン」
幸いごく軽傷だけれど、と。いつの間にか復活していたレイが言う。シンが紅い瞳を泳がせた。その点については悪いと思っているらしい。
「向こうが乗ってみたいって言ったし、折角だからちょっと面白いものを見せてやろうと思って……まさか怪我をするとは……」
ぼそぼそと呟きつつ、シンは木から飛び降りる。ぴょい、と気軽な仕草で――成人男性を見下ろすような位置から。
一歩間違えれば大怪我に繋がっているようなシンの動きに、しかしキリヤもレイも慌てないし、驚かない。自分たちとて遊びの延長で散々してきたこと。ノウゼンの血とはそういうものだ。秀でた運動能力を、頑強さを――戦いにおいて最適化された身体を。産まれた時点で備えている。
ノウゼンの血筋を証明するかのように危うげなく着地した妹の、まだ低い目線の高さに合わせてレイが膝を折る。
「悪気がなかったとしても、謝罪はしないといけないだろう?」
「……ん」
こくりと頷いたシンに、レイが頬を緩めたので、キリヤは嘆息した。
十二歳になったばかりの、歳の離れた妹をレイは溺愛している。
そして兄のみならず父母にも溺愛されて育ったシンは最近反抗期に突入した。貴族にあるまじきことに。
まったく。
もう少し前までは、もっと素直だったのに。
「……」
素直だったのだ。
幼子特有の大きな瞳をきらきらさせて、フェルドレスを見上げて。
一緒に乗りたいとせがまれるから相好を崩しながら同乗させてやった者もいた。結構。たくさん。
そのうち自分で操縦マニュアルを読み込んできたと言うので面白がって操縦桿を握らせる者が出てきて。
いつの間にか大人に混じって操縦訓練に参加するようになって。
なんか、現役を退いて久しいとはいえ指導教官を一騎打ちで倒した辺りで「これマズイな」と関係者一同が思った。
遅すぎる。
「……才能をひけらかすような真似は控えろ」
キリヤは呻いた。
男女共に武を尊ぶノウゼンの血脈とはいえ、限度がある。
過ぎた才覚が持ち主を幸せにするとは限らない。元より本家当主の孫であると同時に焔紅種との混血であるレイとシンの立場は複雑だ。戦闘において規格外の才能など、誰にどう利用されるか分かったものではない。
……そして。才覚とは別のところで、シンは軍人に向いた性格ではない。
なにせ。
「やだ」
基本的に、他者の言葉を唯々諾々と受け入れるタイプではないのだ。
「……二人にだけ戦わせたりしない」
聞き分けのない子供の戯言。
ひくひくとこめかみを引き攣らせるキリヤと、ぷいとそっぽを向くシン。
青空の下。再三の怒鳴り声が響くまで、あと少し。
* * *
「またやっていますよあのお二方」「仲のよろしいことで」「傍流とはいえあの通りノウゼンの血が濃い相手ですもの。混ざった赤が漆黒で塗り直されるならばご当主様とて悪い顔は――」
ごほん、と。
レイの咳払いを受けて、『無駄話』に興じていた使用人たちはそそくさと職務に戻る。
……本邸ではないとはいえ、使用人に陰口一歩手前の振る舞いを許す。それがレイとシンのノウゼン侯爵家における立場を端的に示していたが、いかんともしがたい。レイは内心だけで息を吐く。
幸いというか。使用人たちの会話は当事者であるシンとキリヤの耳には入っていないらしい。キリヤはシンに注意するのにかかりきりで、シンはキリヤの声を聞き流すのに専念しているので。
レイにとっては、見慣れた光景だった。
「……」
レイとてキリヤの意見には賛成なのだ。
シンは軍人に向いていない。他者の言葉を唯々諾々と受け入れるタイプではないし――自らの行動の責任を、命じた他者に押しつけることが出来る性格をしていない。
戦う、否、それ以上の。いっそ蹂躙の才能を持ち合わせているけれど。
両手を血に染めるしかない才覚を持ちながら――あまりにも優しい子だ。
それでもなお。
シンがフェルドレスに乗ることを選び続けるというならば。
「……近衛兵っていう選択肢もあるんだよな」
皇帝の――お飾りの玉座の守護者。帝室は既に有力貴族の傀儡となって久しいが故に、帝室直属の部隊が前線に立つ機会などそうは起こるまい。
捻じ込むのは、難しいことではない。
妹可愛さに安全な後方へと送った兄馬鹿と揶揄されるかもしれないが、馬鹿で結構。シンは可愛い妹だ。
「……おれが守るから」
口の中だけで呟いて。
レイは未だ騒がしくしているキリヤとシンを諌めにかかる。
自分たちに降り掛かる運命なんて、三人とも、知るよしもなかった。
* * *
そして市民革命は起きて、近衛兵をしていた最愛の妹が死ぬ瞬間を感知&自身もなんやかんやで死にかけて異能が亡霊の声を聴くものに変異したレイが、革命後に匿われていた最後の女帝からシン♀もキリヤも脳をレギオンに取り込まれたことを知り解放するために奔走した結果『死神』と渾名されることになる逆転IF/フレデリカの出生と市民革命の時期が5年ぐらい後ろにずれ込んでる
* * *
現実は無残で非情で、人はどこまでも救いがたい。
革命は起きた。
市民たちの怒りは瞬く間に広がって、枯れ草に燃え広がる焔のごとく。最後の女帝ともども近衛兵たちが辺境の城塞へと追いやられるまで一瞬だった。
人が死んだ。
市民も貴族も。革命当初の帝都での戦闘で。追走と敗走の最中で。紅薔薇の砦でもなお、市民の軍勢も近衛兵も大勢が死んでいった。
シンもその中の一人だった。
ただし。
戦死ではない。
戦闘の果てに。シンは生きたままフェルドレスから引き摺り出されて。貴族への強い怨恨を抱いていた市民たちは操縦士を即座に殺す気が端からなくて。シンは女だった。
全部聴いていた。遠い場所で。ぬくぬくと安全な後方で。おれは全部を聴いていた。
母方から引き継いだ異能。
肉親間における思考と感覚の共有。
異能の制御が出来なくなるような状況だったのだろう。流れ込んできたそれに狂いそうになって、実際、狂った。
……〈レギオン〉が来たと騒ぐ周囲の声。肉が磨り潰される音。置き去りにされた少女の耳を通して永遠の沈黙を聴いて。それきり。
昏倒したレイが次に目覚めたときにはこの異能は変質していた。
それが、ショーレイ・ノウゼンにとっての市民革命の顛末。
市民の手によって帝室が斃れたことも。〈レギオン〉の暴走も。どうでもいい。
シンが死んで。
レイは生き残った。
ただ、それだけだ。
* * *
本当に行くの、と母は言った。
最前線での従軍を志願した息子に対して。それは母親として至極まっとうな言葉だったのだろう。……彼女もまた。異能を通じてシンの状態を察知できる一人だったけれど。異能の扱いにかけては一日の長がある。レイのように『壊れる』より先に異能による受信を閉ざすことが可能だった。意思というよりは本能に根差した行い。
レイは母の瞳を見返した。燃ゆる火ような。苛烈な瞳。
破壊と生命を連想させる、あまりに強い意志を閉じ込めた瞳。
シンと、同じいろの。
「勿論」
真っ直ぐに見つめたまま、レイは頷いた。
「鉄クズ共に、おれの妹を奪われたままではいられない」
* * *
まるでピクニックでもしているかのように。
四機の僚機を引き連れながら悠々と進む重戦車型。
その〈羊飼い〉が奏でる声を聞いて――レイの口元に心底からの歓喜が浮かぶ。
「見つけた」
操縦士の意思に呼応するかのように多脚が動く。がしゃがしゃと。目まぐるしい機動音は天上の調べに似ていた。――〈レギンレイヴ〉。狂骨師団が駆る〈アジ・ダハーカとは設計思想からして異なる、高機動型のフェルドレス。
全部乗せと揶揄されるアジ・ダハーカとは対照的に、装甲も武装も極限まで削ったが故に叶う高速機動。
選択権のない戦闘属領兵ならばまだしも、元とはいえ上級貴族たるノウゼンの、それも嫡流が搭乗するなど正気の沙汰ではなく、その評価は正しい。
血に飢え狂った元貴族。首無し騎士の成れの果て。激戦区に降り立っては、敵味方区別なく死を振り撒く“死神”。――すべて、正しい。
ぜんぶ捨ててきた。
ノウゼン家の継承権も。軍内部における未来の地位も名誉も。投げ捨てた。未練はない。守りたかったささやかな幸福は喪われ、二度と戻らないのだから。
光学スクリーン越しにレイは前方を見据える。
漆黒の瞳を血走らせながら、変わり果てた最愛の妹を見つめる。
「――――、」
手放さなければ良かったと。
ずっと。悔い続けている。
脚の腱でも抜いておけばよくて。利き手を切り離してやってもよくて。フェルドレスなんて乗れなくしてやって。政略の道具としての値段も付かなくさせて。一生どこにも行けないように。
そうすれば、ずっとおれの手元で囲えたのに。おれにはそれをしてやれる程度の力はあったのに。
あの子のために生きたかった、のに。
果たして現実はどうだ。
シンは死んだ。むごたらしく。そして棺に収めるべき遺体はなく。新政府に反目した烙印を押されたが故に葬式を上げてやることもできず。墓すら作ってやれていない。
屋敷には今もシンの遺品を収めた部屋があるけれど。戦場から戻った日にはおれはずっとそこで過ごしているけれど。肝心のシンの姿はどこにもない。
「やっと見つけた、」
不幸なことに。シンには戦うための才覚があって。誰かのためにと操縦桿を握れる意思があって。けれど。そんなもの、必要はなかった。
守る必要なんてない。帝国も、民衆も。お前が守らないといけないものなんてなかった。お前を踏み躙った世界のどこにも、お前が守るべき優しく美しいものなんてないから。
痛かっただろう。苦しかっただろう。悔しかっただろう。怖かっただろう。
お前を取り巻く世界はお前が思っているより厳しくて。けれど、おれたちはお前可愛さ故にお前を鳥籠へと閉じ込めてしまっていたから。
無遠慮に世界の不条理と悪意の前へと晒立たされて。……それでもお前は、
「シン、」
最期まで、おれのせいだなんて思いもしてくれなかった優しい妹。
「迎えにきたよ」
どうか、謝らせて。