スターターピストルはまだ鳴らない②* * *
まず。シンが下着姿であった理由だが。
「画像データを用いた擬似的な試着……折角ですから試してみようかと思いまして」
シンが自身の携帯端末を操作すると脱衣所の化粧台に備え付けられた鏡――としても使える液晶画面が起動。どこかの通販サイトとおぼしき画像が表示される。更に鑑の中に映り込むシンが衣服を纏った。
着替えのシミュレーション。この鏡型のデバイスの機能としては一端で、健康管理なども行えるという説明はレーナも受けているが。
シンの隣で鑑を覗き込んだレーナの唇が感嘆を漏らす。
「……客員士官に与える設備にしても些かオーバースペックですよね……」
「元々が軍内にありながらヴェンツェル重工の意向を強く反映させた試験部隊ですからね」
シンは言う。鑑の中とは異なり現実の彼女は下着姿だが、先ほどのレーナの動揺を受けて今はシャツを羽織っていた。
連邦軍の軍服はジャケットもシャツも帝国貴種特有の白皙が映えるダークカラー。濃灰色のシャツから白い肌がちらちらと覗いて……なんだか。ドキドキする。
隣の相手を直接見ることが出来ないレーナをよそに、シンは続ける。
「設備なども多少融通が効くそうですよ」
勿論、外国から訪れる客員士官に対して連邦の技術力を誇示するという意図もないわけではないだろうが――面倒見のいいグレーテによる厚意の方が割合としては大きいだろう。
「連邦――おれたちが引き取られた先は首都でしたので。服飾を扱う店などでもこういった設備は置かれていましたよ」
「そうなんですね……実は。わたしはお店で買い物をした経験が少なくて……」
元貴族かつ資産家のミリーゼ家令嬢にとって買い物とは自らが赴くものではなく、店の方から訪れるものであったので。
ただ母の贔屓だった外商が持ち込む品は些か伝統的すぎたのか、それではいけないとアネットが手を引いてお店に連れて行ってくれたこともあったけれど。……飛び級を繰り返していた学生生活の最中の、数少ない『学生らしい』思い出だ。
「そうですか」
思い出して目尻を綻ばせたレーナに対し、シンは真顔。
「それではやはり。水着は通販ではなくて店舗に購入しに行きましょう」
「それでは、とは?」
「……失言です。気にしないでください。おれもまともに買い物をしたのは連邦に来てからですので、練習、ということで」
そういえばシンも〈レギオン〉戦争前は第一区に住んでいたのだった。
レーナと同じ。
「そうですか。……同じ、ですね」
「はい。……同じ、です」
思わず頬が緩んでしまうレーナに、シンも目元を和らげる。
理由は異なれど世間知らずの二人が鏡の向こうで並んで微笑む。
これだけで胸がいっぱいになりそうなレーナであったけれど。では次にお互いの休みが重なる日に、なんて言葉を交わして今日という日を終えるのは、惜しい。
「……お店には色々な種類のものがあるでしょうし、目移りしてしまいそうですね」
あと少しだけ、と。
自分の胸中に言い訳をして。鏡の向こうのレーナが半歩ぶんだけ身体を横に動かす。
触れる距離ではない。
……まだ。
「そう、でしょうね。おれも水着売り場に足を運んだ経験があるわけではないですが……」
シンもまた、半歩動く。二人の間に置かれた携帯端末へと手を伸ばす動作。
「レーナはどんな水着を着てみたいなどのイメージはありますか?」
鏡に映るシンの衣装が変わる。白のワンピースタイプ。フリル状の生地がスカートのように広がって太腿までを覆う、清楚なデザイン。
「わぁ……!」
「他にも、色々ありますよ」
見開き輝く銀瞳と、柔和な弧を描く紅瞳。シンが指先で端末を操作するのに合わせて、鏡の中の彼女が纏う水着が次々と切り変わっていく。
ショートパンツ風のボトムと組み合わせたレモンイエローのビスチェ。ふわふわとした透ける素材も涼やかなブルーのオフショルダー。エキゾチックなロングスカートじみたパレオ――と。華やかな光景に瞳をしばたかせながらも、レーナはふと気づく。
「シンは肌を見せないデザインが好きなんですね」
レーナの言葉に鑑の向こうのシンが首を傾げた。細い首の後ろで結ばれたレース素材のリボンが連動して揺れる。こういった細部の動きもシミュレートされるのか。
レーナにとってシンの装いはどうしても軍服のイメージが強いけれども、こういったフェミニンな格好もよく似合っている。
けれど。
「今回は温泉での着用ですから……装飾性はある程度取り払った方が良いかもしれませんね」
浴場でパレオは転びそうだ。……レーナ特有の懸念かもしれないが。
「ええと」
紅い瞳が僅かに泳ぐ。
「……おれ自身が着たいものというより、レーナに似合いそうなものをピックアップしていたつもりだったのですが」
「わたしに?」
レーナは改めて鏡の中のシンを見つめた。
色とりどりの水着は最初の白いワンピースに戻っている。
透かし編みをふわりと重ねた、清楚で、可愛らしい、純白の。
……シンはこういうものがレーナに似合うと思ってくれているのか。
他意なんてないのかもしれないけれど。内心の動揺を必死で留めるレーナをよそに、「おれが自分で選ぶならこういうものですね」とさらりと言って。シンは黒無地の水着を纏った。
首元から下を覆うワンピースタイプではあるが、先程までのものとは異なり極めてシンプル。ゆえに着る人間を選ぶデザインであることを、シンはどこまで自覚しているのだろうか。
ぐっと増えた白い肌の面積にレーナは自身の心拍数が上昇していくのを感じる。デバイスの健康管理機能は起動させていなくて助かったと思う。
多分、今のレーナは平時とはかけ離れた状態だ。
「……」
対して。
鑑越しに伺い見た、シンの表情は平然としている。
ああ、やっぱり――、
「……ずるい」
鑑の向こうで化粧けの薄い唇が小さく歪む。
「レーナ?」
「ずるい。ずるいです」
分かっている。こんなことは言うべきではない。けれども一度口にしてしまうと、止まらない。
「シンはそうやって落ち着いていて……わたしに水着姿や下着姿を見られてもなんでもないふうに振る舞って……ドキドキなんて、していなくて……」
意識しているのはレーナだけなのでは、と。思ってしまう。
勢いで言ってしまってから言葉尻を窄めていくレーナに、シンは困ったように眉を下げた。
「レーナ」
レーナの手首を、シンが掴む。
胼胝の浮いた、しかし薄く白い手。レーナの手はシンの掌に包み込まれながら引き寄せられて。
ふにり、と。
指先に柔らかな感触が触れた。
鏡の向こうでは水着の上から触れただけ。
けれども現実のシンは下着の上からシャツを羽織っただけの恰好で。だからつまり。レーナの指先が触れているのは、
「――――!?」
あまりのことに意識がショートしそうになるレーナの銀瞳を、鏡越しに見つめてくる紅瞳。指先が更に沈む。均整の取れた、細い、けれど柔らかな身体。
「……ほら。分かるでしょう?」
皮膚と脂肪と筋肉と骨とを伝って響く――鼓動。
「ドキドキ、していますよ。おれだって」
鏡の中でシンが小首を傾ける。表情は変わらず冷静そのもので。
しかしレーナの指先から伝わる鼓動は、速い。
「ぁ――」
シンの足が一歩動く。肩が触れ合うかどうかの位置。鏡の中。シンが真横を向く。固まってしまっているレーナの鼓膜をシンの吐息が揺らす。
静かなのによく通る――常にはない熱を帯びた、声。
「レーナは、どうですか?」
レーナは、
「――ぁぅ」
――思考回路がオーバーヒートを起こして。
ぺしょり、と。その場にへたり込んだ。