スターターピストルはまだ鳴らない③* * *
準備運動こそが肝心だ。
まずは足首の腱、膝。次いで腕と肩周り。関節を中心に。目覚めてから間もない凝り固まった筋肉を伸ばしてほぐしていく。
血が巡る。酸素が回る。連邦軍内で推奨される八時間睡眠を摂った脳は絶好調。くっきりとした早朝の空気を肺に取り込み、ライデンは日課のロードワークを開始する。
とてもさわやかな朝だった。
ここまでは。
「――――」
ばびゅん、と。
そんな擬音すら伴いそうな様子でライデンの脇を駆け抜けていった影。たなびく尻尾じみた黒い髪。
低い位置で括っている髪が地面と平行になるってロードワークの速度と姿勢じゃねぇぞあの馬鹿、と。内心で爽やかな朝に別れを告げつつ、ライデンもまた速度を上げた。
「おい、シン!」
「……なんだ」
並んだライデンへと向けられる紅い眼。無愛想極まりないが無感情よりは大分マシ、と。思えてしまう点においてライデンの感覚もそれなりに狂っていた。自覚ぐらいはある。
「今朝は随分と張り切ってんな。なんかあったか?」
軍人として課される訓練とは別の、あくまで自主的なトレーニングとはいえ適切な速度の教示ぐらいは受けている。
同じランニングコースを使う他のエイティシックスたちを追い抜きながら。ライデンもシンも基礎体力作りにあるまじき速度で疾走していく。
ライデンとしてはまだ余裕。シンも同様。まがりなりも少女の身であるくせに、なぜ鍛えている男子と同等以上の速度で走って平然としているのかは分からない。
まあシンだし。
その辺りについては考えるのをやめているライデンだった。
「なにもなかったといえばなかったんだがな……」
シンにしては珍しく、歯切れの悪い物言い。
「……昨晩、レーナの部屋に招かれたんだが、」
「あ、昨日レーナが倒れただの騒いでた原因お前か」
みなまで聴かずに大体察した。
今も昔もシンの頭の中など理解できないが、行動の予測ぐらいは立てられる。そうでなければこの分かりにくい“死神”戦隊長の補佐を何年にも渡って務められてはいない。
「……」
苦虫を噛んだみたいな表情。
シンは呻く。
「……おれはレーナにそういう意味で意識して貰えているかどうかを確かめたかっただけなんだが……」
認識がまだその段階であることが一番の問題ではあるまいか。
心底呆れているライデンの、内心など慮る気もなさそうなシンは更に続ける。
「……結局、水着を二人きりで選ぶのは時期尚早だと判断して。アンジュたちと選びに行くことになった」
なんでたかが布きれ一枚にここまで騒ぐことができるんだろうな、こいつら。
ライデンは思ったが、口に出さない程度の分別はあった。
ただし態度には滲み出たか。シンが物騒な雰囲気を纏い始める。完全に八つ当たり。ライデンはシンから若干距離を取った。
「それと走り込みになんの因果関係があんだよ」
「あるに決まっているだろう」
ふ、と。
紅瞳が遠くを見つめて、
「『心の靄を払いたいのならばとりあえず身体を動かすように』――神父さまが仰られていたことだ」
「んなことを言う神父がいるかよ」
少なくとも『神父』としての言葉ではないと思う。
ライデン自身は同世代のエイティシックスの例に漏れず神を信じていないが、恩人である老婦人の祈る姿ぐらいは覚えているので。
唇をひん曲げたライデンに対し、シンはぼきりと指の骨を鳴らす。
「組手でもいいぞ」
「誰がするか」
出遭って間もなくボッコボコにされた記憶は未だに拭えていない。これ多分心理的外傷という奴ではなかろうか。
「はっ」
シンが剣呑にわらう。
こいつは育ての親である神父さまのことが多分無自覚に大好きなんだろうけれど。なぜ聖職者に育てられておいて言動が筋肉でまみれる瞬間があるのかは甚だ謎だ。
ちなみにこんな与太話を交わす間もライデンとシンの走行速度は一切緩んでいない。
というか。
「……」
いつから走っているんだ、この体力馬鹿。
雨の中でも走り抜けてきたみたいな有り様のシンへとライデンは胡乱な眼差しを向ける。
「水分摂ってるか?」
「ぬかりはない」
ほんとかよ。
ライデンは腰のホルダーに収めているペットボトルを引き抜き、シンへと押しつける。
「む、」
なお。同年代の少女の汗で張り付いて浮かび上がっているボディラインとか。運動中であるために常よりは上気した頬とか。ライデンはどうとも思えない。
わりとシンのせい。
「気の済むまで走ってこいよ」
「お前に言われるまでもない」
「そうかよ」
それはそうだ。ライデンは苦笑しつつ、自身の走行速度をロードワークに適切なものへと戻していく。
相変わらずの速度でひた走る、遠ざかっていく背中へと掛ける言葉があるならば、
「朝食提供時間までには帰ってこいよ」
間もなく休暇を兼ねた一か月間の学生生活が始まるし。
その後には慰安のための旅行が控えているし。
いくらなんでもどうにかなるだろう――と。
それが楽観的すぎた見解であったことを、ライデンはまだ知らない。