スターターピストルはまだ鳴らない① 本当に綺麗なひとだ。
自身の唇から零れた吐息が感嘆を宿したことに、レーナは遅れて気がついた。
降り落ちる月光。散り舞う細氷。朝になれば霞んで見えなくなる冬の夜のさびしさをヒトの形に織り直したら、きっと、このひとの姿をとるのだろう。
すらりと伸びた脚は白く、細い。――よくよく見ればふくらはぎや太腿の締まり方が『戦う』人間特有のものであると伝えてくれるけど、第一印象としてはひどく繊細な造りとして映る。生育環境で形作られてきたものではなく、生まれついての骨格がそう印象付けるのか。
貴族の血統。彼女――シン自身にとっては最近になってようやく認識するようになった程度ものでしかないのだろう。けれど。当人の心情を置き去りに、ときとして残酷なほどに色や形は血統を指し示す。
傅かれる立場に在ったがゆえの美貌。敬慕を、畏怖を、妬みを、羨望を。何百年にも渡って人心を掻き乱しながら積み重ねられてきた帝国貴種のうつくしさを証明する結晶――あるいは最後の世代の、一人。
見惚れるレーナの視線はシンの脚から上へ。脚線美を崩さぬ小さな臀部。きゅぅと窄まった腰つき。腹筋という名の自前のコルセットを備えた結果だということは勿論分かっている。その上で細い肩や首へと続くラインは華奢で優美。どこまでも貴族的で――首元を含めた、全身に刻まれる大小無数の傷痕とて白皙を穢すに至らない。
傅かれる立場の貴族であり。
同時に、戦場に立つ戦士である。
共和国人であるレーナの感覚からは些か外れた、男女を問わず戦地を駆けることを誉れとする帝国貴族の在り方。
それを今この瞬間に誰よりも体現しているのが帝国を放逐された両親から産まれた異国出身の少女であるというのは、皮肉的ですらあるのかもしれない。
しかし容貌がゆえに元貴族たちから向けられる嫉妬や憐憫など、的外れも良いところ。
このひとの美しさはきっと。
どこに居ても、何をしていても、損なわれることはないのだから。
「……レーナ」
凍夜を貫く遠雷じみた、静かなのによく通るシンの声。
空気が、時間が。解凍されていく錯覚。
くい、と。背骨が動き、繋がる筋肉と皮膚が引っ張られて。レーナに背を向ける体勢だったシンが振り返る。
下着だけを身につけた背中に漆黒の髪が落ちていく。
血赤の瞳が困ったように眦を垂らして、
「…………その。見すぎ、では」
「すっ、すみません!」
我に返ったレーナの声が上擦った。
扉を開けた瞬間のまま、硬直していた手を離す。ドアノブの金属にはレーナの体温が移っていて、随分と長い時間シンの身体を見つめていた事実を突きつけてくる。
かぁ、と。レーナの頬が熱くなった。
「いえ別に」
対してシンの顔には僅かな紅も灯りはしない。
静謐。凝り固まった鮮血のようだった瞳こそ苦笑めいたかたちにほどけているけれど、羞恥を示すものではない。……動揺しているのが自分だけのような気がして。ずるい、なんて思ってしまう。
シンはずるい。レーナの心臓がどれだけ高鳴っていても、隣のシンはいつも澄まし顔で落ち着いている。意識しているのはレーナだけなのでは、なんて不安を覚えてしまうほど。
「レーナが謝る必要はありませんよ」
訥々と、シンは言う。
レーナの居室のシャワールーム、その脱衣所の中で。下着姿の少女は平然としている。
「鍵を掛け忘れたのはおれの不手際ですし」
どうもまだ使い慣れていなくて、と。続く言葉にレーナは押し黙らされる。
八六区にてエイティシックスたちが使わされていた隊舎についてはレーナも知っていた。プライベートスペースという概念自体がないようなバラック建ての隊舎。
……「いや流石に鍵の使い方が分からねぇわけはねぇよ。使う必要性を感じているかどうかは別だけどよ」、と。
シデンがいれば口を挟んだだろうが、生憎と〈単眼姫〉はこの場にいない。
プライベートでクローズドなスペースに二人きり、だった。
「……レーナになら、幾ら見られても構いませんし」
「か、簡単にそういうことを言ったら駄目です!」
死神の副官が見れば「好機と判断してがっついていやがる」と頬を引き攣らせているような肉食獣の眼光を宿す血赤の瞳。
女王の家臣団筆頭が見れば「誘い込まれてんのに気づいてもいねぇのマジ女王陛下」と頭を抱えているような純真さを放つ白銀の瞳。
恋愛下手たちによる駆け引き未満の攻防が、今日も今日とて火蓋を落とす。
* * *
事の起こりは先日。慰安旅行に際して水着を持参するようにとの通達が出されたことだ。
なんでも利用するホテルの目玉の一つが古代の皇帝の浴所であったという大浴場で、入浴にあたって着用する水着が必要になるのだとか。
「……」
極東などではまた異なるというが、共和国や連邦の文化圏において温泉施設とは水着を着て利用するのがメジャーだ。物心ついてまもなく始まった〈レギオン〉戦争のために――収容所に送られて戦地で育ったゆえに。知識はともかく体験した隊員はいないだろうけれど。
そしてレーナだって別に経験があるわけではない。
「……水着」
私物の携帯端末を操作しながらレーナは小さく眉根を寄せた。
食堂の片隅のテーブルに座って。背筋は真っ直ぐに伸びているものの、銀瞳はひたすらに液晶画面に表示される情報を追っている。
画面に表示されるのはカラフルな水着たち。南国の花や鳥を連想させる鮮やかなものからシックな色彩で纏められた大人びたものまで。どれも素敵だとは、思うけれど。
「……水着……」
旅行とはいえ私的なものではない。大枠で括れば軍務の一環。だというのに。たかだか入浴で必要になるだけの水着に華美なものを選んで良いものなのか。
白いビキニタイプの水着の画像を前にレーナの指先がふらふらと揺れる。
眺める画像の華やかさとは裏腹に重たい溜息を漏らすレーナへと、ふいに。
「どうかしましたか、レーナ」
「ひゃぁっ!?」
背後から掛けられた声。
咄嗟にレーナは振り返るより先に携帯端末を自身の身体で隠そうとして、勢い余ってテーブルに顔ごと突っ込む――寸前で。細いのに力強い腕がレーナの肩を掴んで阻止する。
「……すみません、レーナ。まさかそこまで驚かれるとは……」
「い、いえ。こちらこそ。ありがとうございます、シン」
赤面しながらもレーナは改めて振り返った。
背後に立っていたのは黒髪紅瞳の少女士官。鋼色の軍服の上からでも分かる華奢な体躯と、その印象を裏切る鋭い目つき――は、随分と和らいでいて。紅い瞳は心配そうにレーナを見つめてくる。
シンエイ・ノウゼン。ギアーデ連邦軍第八六独立機動打撃群戦隊総隊長。レーナの部下で、そして――、
「先程から悩まれている様子でしたが……なにかありましたか?」
「ええと……」
レーナは言葉を濁す。正直に「旅行先で着る水着について悩んでいます」とは流石に言い辛い。
はしゃいでいる、とか思われるのではないか。シンがそれでレーナを軽蔑したりすることはないと分かっているけれど。レーナが嫌だ。
「……大したことでは……」
実際大したことではないので、レーナはシンの顔から目を逸らながらもごもごと言葉を紡ぐ。
しかし。
「レーナ」
シンは顔を背けたレーナの視線の先。
レーナの隣の椅子を引いて腰を下ろす。
「おれには言えないことでしょうか?」
「い、いえ。ですが、あの、」
「誰かになにか言われたとかでしたら……むしろ総隊長であるおれに情報の共有をして頂きたいです」
「し、シン?」
「あとマルセルあたりがなにかやらかしたのなら、落とし前はつけさせます」
「マルセルにひどいことをしないであげてください!」
「なにもされていないなら、しませんよ?」
くつり、と。シンは喉の音だけで笑みを紡ぐ。
冗談も含まれた物言いだったらしい。多分。きっと。どこからどこまでが冗談だったのかは尋ねないことにしておく。
レーナは観念して、携帯端末の画面をシンの前へと差し出した。
紅い瞳が一つ瞬く。
「水着、ですか」
「ええ。……旅行の際、水着が必要だという通達はシンにも届いていますよね?」
「はい。おれとしては適当なものを通販で見繕おうかと思っていましたが」
「えっ」
レーナは瞳を見開く。
シンは別に身なりに無頓着というわけではない。少なくともレーナの見ている場面では軍服にせよ私服にせよ、きちんとしている。
だからその選び方は、レーナにとっては、少し意外に思えた。
「なにか問題が?」
「いえ……」
とはいえ水着の選び方などシンの自由だ。……適当に決めるなんて勿体ない、とか。考えてはいない。
しゅんと俯くレーナに、シンは首を傾けた。
「ちなみに、レーナはどうしますか?」
「そうですね……わたしも適当に選んで、」
「えっ」
言い掛けたところでシンが声を漏らした。レーナが俯かせていた顔を上げれば、愕然と見開かれた紅い瞳と視線が合う。
「……」
これは、と。
レーナは意を決して口を開く。
「……適当に選んだら、駄目、でしょうか」
「……駄目、とは言いませんが……勿体ないとは感じますね。……レーナは、」
綺麗だから、と。
シンが言う。白皙の頬は色付かず。けれど紅瞳がやや潤みを帯びた、気がした。
「……わたしも同じ気持ち、です。シンは適当に選んだりなんかしたら勿体ないと思います」
「……そう、ですか。……では。一緒に選びますか……?」
シンの申し出にレーナはこくりと頷き返す。顔が熱い。先程までの比ではない。心臓がうるさいくらいに脈打っている。
それでもレーナの思考にひとひらの冷静さを取り戻させたのは、携帯端末を震わせるアラームだった。
「――あ、すみません。休憩の後は会議の予定が入っているので、もう戻らないと……」
「送りますよ」
「そんな、」
「会議の前に転んだりしたら大変でしょう?」
「もうっ。からかわないでください……!」
そんなやりとりを交わしながら。仲睦まじく連れ立って食堂を出て行くシンとレーナの背中へと生温く送られる、食堂中からの視線。
「いや水着を選ぶだけだよね。なんで甘酸っぱい空気になってるの?」
「それ以前にここは食堂なんだがな」
「クレナちゃんは少し落ち着いてね。私たちも早いうちに水着とか色々選んでおきましょうか」
わりと頻繁に二人だけの空間を醸し出すようになったにもかかわらず、未だ恋人一歩手前な機動打撃群戦隊総隊長と作戦部総指揮官に向けられる隊員たちの意思は概ね統一されている。
あいつらさっさとくっついてくれないかな。
* * *
「シン。水着を選ぶのはいつにしましょうか」
レーナは隣に立つシンへと話し掛ける。
画面越しの会議だが今回はグレーテの補佐としての参加であるため、向かう先は彼女の執務室だ。
宿舎の最上階へと上がるエレベーターの中。レーナの脳内は会議の内容をシミュレートする傍らで、選ぶ水着について思考する。
どこかふわふわとした足元はシンが懸念したとおり。
「おれはいつでも大丈夫ですよ」
「早いうちがいいですよね……通販も便利ですが、お店に行くにしてもある程度は目星を付けておいた方がいいですし」
「そうですね」
瞳を細めるシンにレーナはにこりと微笑み返して、
「では今夜」
「今夜」
「わたしの部屋に来てください」
「レーナの部屋」
何故かオウム返しに応えるシンをレーナは不思議に思う。
シンの部屋だとシャワールームを隔てて隣の部屋と繋がっているから話し声も騒音になってしまいかねないし、慰官と佐官では与えられている部屋の大きさも異なる。
合理的な判断だと確信しながら、レーナは続けた。
「もしかしたら長引くかもしれないので、」
レーナは取り出した紙の手帳にさらりと数列を記して、切り離す。
「よろしければ先に入っていてください」
「えっ」
レーナの居室のキーコードを渡されて。
固まったシンをよそに、レーナは執務室の扉を開く。
名残惜しいが、会議の時間は迫っている。
……「ガードが緩すぎて信頼を蔑ろにすることは出来なかった」、とは。
この一か月ほどのちに、ホテルのバーにてくだを巻く羽目になったシンが零した言葉だ。