猪野,父になる。【七海さん。助けてください。】
深夜突然のメール。補助監督からか、術師仲間からか。五条絡みか、呪霊絡みか。メールを開くと同時にもう一通同じ差出人からのメールが入る。それを見て七海はこう返した。
【この一件、私が預かります。】
今日の任務は十時から。七海はいつもゆとりを持って出勤する。三十分前には来て、補助監督室で今日の任務計画を読みながら珈琲を飲む。今日の合同任務の相手である術師は普段なら二十分前には来て、七海が珈琲を飲む姿を嬉しそうに見つめるのだが、今日は五分前になっても現れない。十時になるかならないかくらいのギリギリの時刻にその術師は部屋に飛び込んできた。
「新田ちゃん、いる!?」
ギリギリになったことに対する詫びよりも先に補助監督である新田を呼んだ。
「なんスか?」
「新田ちゃん、急で悪いんだけど、うちの子今日預かってくんない?」
猪野が連れていたのは三歳になる愛娘だ。今は猪野が装着している抱っこ紐の中で寝ている。
「え?無理っスよ!これから任務同行なんスから。」
「そこをなんとか!伊地知さんとか代わってもらえない?」
「無理ッス。今日は全員出てるっス。」
「えー、これから任務なんだよー。世話とかわかんなくてさー。頼むよー。」
「ってか奥さんどうしてるんっスか?」
二人の会話に七海が割って入った。
「猪野くん、私が娘さんを預かります。」
「え?七海さん、俺と任務じゃないですか?」
「任務計画を読みましたが、猪野くん一人でも大丈夫かと。ですから、君がひとりで任務へ行ってください。」
「えー。二人で任務に行くの久しぶりで楽しみにしてたのにー!」
「では私が一人で行きますから,娘さんと留守番しますか?」
「いや!もうお手上げなんすよ!ずっと泣くし,泣きつかれて寝たと思ったのに,なんか思い出してまた泣くしで…。俺,行ってきます!すんません,七海さん!行こう,新田ちゃん!!」
「え?いいんスか?って,待つっスよ!!」
猪野はあっという間に部屋からいなくなった。
「困ったパパですね。今日は私と遊んでください。」
優しく七海は猪野の娘の髪を撫でた。
任務は当初二人の予定だったので,予定より時間はかかったものの特に問題はなく祓い終えた。しかし,祓い終えたはずなのに今の猪野は難しい顔をしている。
「猪野術師,どうしたんスか。お腹でも痛いんスか。」
「新田ちゃ~ん。ちょっと聞いてよ。実はさ,奥さんが家出しちゃってさ。」
「あー,それで娘ちゃん連れてたんスか。」
「そうなんだよ。昨日ちょっと喧嘩しちゃってさ。そしたら奥さんの虫の居所が悪かったんだろうね。『もう知らない!出て行ってやる!』って。まあ,すぐ帰るだろうと思って放っておいたんだけど,ほんとに帰ってこないの。電話してもメールしても無視。俺,任務があるじゃん。さすがにこれってどうよって思ってさ。」
「あー,結婚したことないし,子どもいないからわかんないんスけど,奥さん相当疲れてたんスかねえ。」
「いやいや,俺,任務してるんだよ!奥さん家にいるわけじゃん?働いてないんだからラクだと思うんだけどなあー。」
「そういうもんなんスかねえ…。あ,着いたっス。そういや,七海さんどうしてるんスかね。」
「やべ!そうだった。七海さんに預けてたんだった。ごめん,新田ちゃん!運転だけじゃなく愚痴まで聞いてもらってありがとう。じゃ!」
猪野は補助監督室まで急いだ。いくら七海ができる男でも,七海自身は独身だ。子どもの扱いなんてわからず,さぞ困っているだろう。しかし,補助監督室の前に来ると,娘の楽しそうな声が聞こえる。
「なーみぃー!あいっ!」
「ありがとうございます。上手ですね。」
「きゃー!」
猪野はこっそり扉を開けて中に入った。
「七海さん,お世話になりました。報告書は家で作って明日出します。ほら,帰るぞ。」
「やー!ぱーぱ,や!!なーみぃー!!」
娘は目の前にひざまずいている七海にしがみついて離れようとしない。俺にはそんなことしたことないのにと猪野は少々イラつく。
「いやいや,ママが帰ってきてるかもしれないじゃん。ほら,パパもやることあんだよ。七海さん困らせるな。」
「やだ!ぱぱきらい!!」
「はあ?なんだよ,それ。」
無理やりでも連れて帰ろうとしたとき,七海が猪野の娘を抱っこして猪野の前に立ちはだかる。
「猪野くん,先ほどは聞きそびれましたが,なぜ今日はお子さんを連れているんですか。」
「えーっと…いや~それは~…」
「ぱぱ,ままけんか!」
「こら!いうなよ!」
「喧嘩ですか…お子さんがここにいるということは穏やかな話で済みそうにはないですね。帰ったら本当に奥さんはいるんですか。」
「え…たぶん?さすがに今日は帰ってると思うんすけど…」
「帰ってなかったらどうするんですか。」
「え?」
「奥さんのいる場所に心当たりは?いなかった場合はどうしますか?」
「え?」
「猪野くん,まさか晩御飯にこの子連れて外食できるなんて思ってないですよね。」
「え?外食できないんスか。」
「お子さんは何が好きですか?どの店のどの料理を好みますか?」
「え?」
「ご飯が終わったとして,帰ったときに何しますか。お風呂に入った後の服の場所などわかっていますか?」
「え?」
「寝かしつけるときのいつものルーティーンなどはわかっていますか?」
「……」
七海の質問攻めに猪野は言葉が出なくなってしまった。猪野の中には男は外で働いてくる,女が家を守るという古い価値観がある。それは呪術師の家系に生まれ育った者にとっては普通の価値観なのだ。だから男の自分が子育てのことなんて理解する必要はないと思っていた。七海は呆れたような溜息をつくと猪野に提案した。
「明日の任務はなくなったそうです。私も休日になりましたので,今日はお手伝いに伺いますよ。」
「まじっすか!七海さん!!もう俺一人じゃ無理なんすよ。なにしたらいいかなんてわからなくて…」
猪野も限界だったのだろう,目にうっすら涙を浮かべる。
「おい!七海さんが一緒に家に帰ってくれるって!よかったな!」
「なーみぃー!!」
ご機嫌な娘を見て,猪野もホッとした。補助監督の新田に頼んで家まで送り届けてもらった。帰りにスーパーによって,食材などを買った。
「七海さん,こんなに買う必要あります?」
「いつ戻るかわからないでしょう?猪野くんはオムツが家にどのくらいあるのかもわかっていませんし,このくらい買っておかないと。必要なものが見つかったらその都度お子さんを連れて買いに行くというなら別ですが。」
「いえ,七海さんが抱っこしてくれているだけまだ楽なので…」
家に入って荷物を置くと,猪野はソファーにゴロンと横になった。
「やー,疲れたー!きゅうけーい!」
「猪野くん,休んでいる暇はありません。今日お子さんは昼寝をほとんどしていません。早ければもうすぐ眠くなりますから,お風呂に入れてください。」
「えー。ちょっと休憩させてくださいよ。」
「お子さんがうっかり寝てしまって,夜中に気持ち悪さに起きて大泣きしてもいいのであればどうぞ。」
「イマスグ,ジュンビシマス…」
猪野は疲れた体をひきずるようにして風呂場に行く。昨日のお湯がそのままの浴槽を見てショックを受けた。。
「まじかよ…お湯抜くところからか…」
お湯を抜いて,浴槽を洗い,新しい湯をはる。これで少し休める。そう思いながらリビング戻る。
「お湯がたまるまでの間にご飯の支度をしておきましょう。」
「ええ…惣菜買ったじゃないですか。」
「猪野くんが買った総菜を食べさせるつもりだったんですか?」
「え?ダメなんスか?」
「アジフライはおそらくこの子嫌いですよ。」
「え?そうなんすか?」
「今日,お昼をいっしょに食べましたが,魚は嫌いのようでしたので,アジフライも好まないのではないかと。」
「えー,じゃあ何食べさせればいいんだ…」
「冷蔵庫を見てください。もしかしたらお子さんの好きなものがあるかもしれませんよ。」
猪野は娘を抱きかかえ,冷蔵庫を開けた。そこにはたくさんのタッパーがあり,どうやら作り置きのようだ。
「なにこれ?めっちゃあるんだけど。ちょっとパパが中見てみるから,下りてくれるか?」
猪野は娘をおろし,タッパーを開ける。猪野の好きなおかず,猪野が食べたいとリクエストしていたおかず,野菜がたくさん使われたおかずなど,ひとつひとつに入っているものが違う。そしてその中のひとつに猪野が好まないであろうものがあった。おそらくこれが娘用のものなのだろう。
「なあ,これ好きなんかな?」
「ママのだー!たべたい!!」
娘が嬉しそうな顔でタッパーを指さす。レンジで温めて娘の前に置くと,猪野は自分と七海の食事を準備しようとする。
「ぱーぱ,あーん!」
「えー?自分で食べろよ。俺これから七海さんのご飯…」
「食べさせてあげてください,猪野くん。」
「え?でも…」
「私は大人ですから,自分のことは自分でできます。しかし娘さんはまだ3歳。スプーンを持つのも大変な年頃です。親が食べさせてあげることの方が普通です。」
「ワカリマシタ…」
ここまでくると,猪野はもう逆らう気力なんて残っていない。スプーンに食事をとって口に運ぶ。しかし,娘はそっぽを向いてしまった。
「え?なんで?食べたいって言ってたじゃん。」
「いや!」
「えー…食べてよ…」
「これ!」
猪野の娘はタッパーの中の違うおかずを指さす。仕方なく,すくったものをもとに戻して,娘がいうものを口に運んだ。今度は嬉しそうに口を開けて食べる。ん~とおいしそうな顔をして食べるのでほっとした。しかし,この作業,あと何十回やれば終わるんだろうか。一口の食事が終わるのが長い。うっかり寝落ちしてしまいそうなほど。意識が飛びそうなのを我慢していると,いい匂いがしてきた。
「わー!美味しそう!七海さん,ありがとうございます!」
「何言ってるんですか,猪野くん。これは私のですよ。」
「え?俺のは??」
「買ってきたアジフライがあるでしょう。娘さんのことが終わったら食べたらいい。」
猪野はもう泣きそうだった。仕事で疲れて帰ってきたのに,休む暇なく家のことをやっている。空腹でたまらないのに,目の前でおいしそうな食事を食べる我が子と上司。大好きな七海サンでも恨めしく思ってしまう。
約一時間かけてようやく食事が終わった。ごちそうさまをさせて,これで自分もご飯が食べられると準備しようとした。
「猪野くん,お風呂がまだですよ。」
そうだった,お風呂に入れないといけなかった。もう何かを返す元気も残っていない。ふらふらと風呂場に確認に行く。すると七海が後ろから現れた。
「着替えなどは手伝います。この子がお風呂から出たときに使うタオル,おむつ,パジャマをください。」
「え?その辺にないすか?」
「どのあたりですか。」
「ええ…タオルは…あった。あ!七海サン,ここに全部ありますよ!タオルもおむつもパジャマも!さすが俺!」
「キミが用意してるものじゃないですよね。」
「ハイ,スミマセン…」
七海から子どもが服を脱ぐまでの間に洗髪,身体洗いを済ませるように言われた。シャワーからでるお湯が心地よくてぼーっとしていた。
「猪野くん,もういいですね。連れていきます。」
「え?え?もう?」
七海から娘を受け取り,髪を洗ってやる。
「なあ,お前のシャンプーどれ?これ?」
「ん!」
「え?なになに?泡?泡で洗うんか?」
猪野が泡を手に取ると,娘は手を出してちょうだいのポーズをする。泡を分けてやると,自分で嬉しそうに髪を洗うしぐさをする。ちゃんと洗えてはいないのだが,嬉しそうに洗う。すると今度は顔を洗い,身体を洗い始める。おそらくこれがこの子の普段のお風呂の入り方なのだろう。仕上げをするふりしてしっかりと洗い,泡を流した。そして一緒に風呂に入ろうとする。
「あつ!や-!」
「え?俺熱い風呂が好きなんだよ。今日はこれで許してよ。」
「や-!!」
すかさず扉の向こうから呼ばれる。
「猪野くん。」
「はい!!」
「娘さんが熱いというなら熱いんです。水を足してください。」
「え…俺風呂入った気しないすよ。」
「キミは大人なんだから後で入ればいいでしょう。」
「ソウデスネ」
水を足すと満足して風呂に浸かる。水でちゃぷちゃぷ遊びながら嬉しそうだ。少しすると七海が娘を呼び,娘は七海のところに行った。やっと解放される…そう猪野は思ったのだが…。
「猪野くん,もう体が熱いからすぐ寝ると思います。すぐ出てきてください。」
やはりそう簡単には休ませてくれそうになかった。
猪野が風呂から上がると,娘はパジャマを着て,髪も乾かしてもらっていた。そして七海の膝の上に座って絵本を読んでもらっている。
「七海さん,ありがとうございます。」
「猪野くん,早く髪乾かしてください。もう眠そうですよ。」
猪野が髪を乾かし終えて戻ると,娘はウトウトしていた。
「七海さん,すんませんけど,こっちの布団に寝かしてもらえますか?俺ご飯食べたくて。」
「夫婦の寝室に他人が入るなんてありえません。猪野くんが寝かしつけてください。」
「大丈夫っすよ。アイツいないし。」
「いなければいいという話ではありません。」
「ハイ…」
猪野はベッドに娘を寝かした。しかし,まだ寝入りのタイミングだったようで,起きそうになる。仕方なく隣に横になると娘が嬉しそうに微笑んだ。猪野はそのまま眠りに落ちてしまった。
猪野が次に気づいたのは23時だった。娘はぐっすり眠っている。ブラケットを肩までかけて布団を出た。空腹で気持ち悪い。リビングに行くと,七海が読書をしていた。
「ああ,猪野くん。すぐ食事を出しますね。」
「助かります…」
猪野は食卓テーブルにつくと,頭を抱えた。しんどいなんてもんじゃない。この生活が一体いつまで続くのか…猪野は半ば絶望していた。少しするといい香りがして,猪野の前に食事が並べられた。
「ありがとうございます。いただきます。」
買ってきたアジフライとご飯以外に,冷蔵庫の中にあった作り置きが並ぶ。好きなアジフライなのにあまり美味しいと感じない。代わりにいつもの味がする作り置きにばかり箸が向く。
「猪野くん,つかぬことを聞きますが,喧嘩の原因はなんですか。」
「ふぉれはへすね…」
「食べてからでいいですから。」
「んぐっ…それはですね…昨日,娘が夜めっちゃ泣いてたんですよ。今日の任務があったから早く寝たかったのに結構長い時間泣いてて。そんで,奥さんにもうちょっと泣かさないようにしてよって言ったんすよ。そしたら奥さんが泣き出して,なんか怒って。そんで,もういやって出て行っちゃったんっす。」
「キミのことですから,おそらく最初のうちは奥さんが出て行ったことを悪く思ってたんでしょうね。」
「……七海サンには隠し事はできないすね。ヒス起こして出て行って意味わかんないって思ってたんすけど,今日ちょっとやっただけで無理でした。任務詰め込まれた方がまだマシ。俺,あの子が食べるものも知らないし,服の場所も知らないし,絵本なんて読んだことないし。そりゃたまには遊びますよ。でもこんなべったりでもないし,休みくらい寝かせてってひとりの時間もらってたし…。」
「ようやく父親であることを自覚したというわけですか。」
「父親って外で働くもんだって思ってて。うちの親父もそうだったし。」
「猪野くんが生まれたのはお父様が猪野家を継いでからだから,おそらくお手伝いさんたちが家のことは全部やっていたと思いますよ。なんなら乳母もいたでしょうし。キミも京都に帰ってくるように言われていたのに,東京にいたいと言って帰らなかったんですよね。だから奥さんも一人での子育てを強いられている。奥さんもキミが術師として等級が上がり,任務が以前よりも大変になっていることは十分理解してくれていたと思います。だからこそグッと我慢して一人で子育てをしていたのでしょう。そこを理解せず,自分に都合のいい部分しか見なかったことはかなりの問題だと思いますよ。」
「その通りです…もうどう謝っていいかもわからなくて…」
「謝ってどうするんですか。」
「帰ってきてほしいです。奥さんのあったかいご飯が食べたいです…。アジフライ,総菜の全然美味しくなくなってて。昔は美味しかったんですけど,今食べてるのは俺が食べる時間に合わせて揚げてくれてるんすよ。だから全然美味しさが違ってて…。」
「自分のご飯を作りに帰ってきてくれって言うんですか。」
「違います!俺のご飯作ってくれっていうんじゃないです。ご飯の話はひとつの例で,なんか俺,奥さんなしじゃ寂しくて。そりゃ喧嘩もするけど,それでも奥さんが笑ってて,子どもがパパって寄ってきてくれるの嬉しいんすよ。だからもう一度やり直したいっていうか…」
「前と同じようにしたら即出ていかれますよ。」
「わかってます。そこはちゃんとします。」
「フー…だそうですよ。」
「へ?」
リビングのドアが開き,そこには猪野の妻が立っていた。
「猪野くんを騙すつもりはなかったのですが,昨夜奥さんから連絡をいただいたのですよ。あまりにも状況がよくなかったので,私の一存で彼女にはホテルで休んでもらっていました。」
「え?は?七海さんとホテル?」
「猪野くん,落ち着いてください。ホテルは彼女一人で行ってもらいました。家を飛び出していく場所がない。でも帰ることもできないと助けを求める連絡をいただいたんです。理由を聞いて,私が今はキミと距離をとるようにと指示したということです。キミがあまりに自分勝手だったので。」
「よかったー――――。」
猪野は全身の力が抜けて床に崩れ落ちた。
「もう帰ってきてくれないかと思ったじゃんか…よかったよぉ…」
「あの…琢真…」
「ごめんよ。俺,子育ての事なんもわかってなくて。言い訳だけどさ,男は働いてさえくればいいって思ってたから…。こんなに大変だとは思わなかったよ。まじで全然思ったようにいかなくてさ。やーまいった!!こんなのが3年とか無理…。気づくの遅くなって本当にごめんよ…。」
「うん…。」
「今更だけど俺ちゃんとするから!だから帰ってきてよ!」
「……。」
「私からもお願いします。猪野くんが珍しくちゃんと考えたようですから。もう一度チャンスをいただけませんか。」
無言が続く。ようやく猪野の妻が口を開いた。
「……家飛び出しちゃったのにいいのかな…」
「え?」
「一時の感情で家を飛び出したのに,戻ってきてもいいのかな…。」
「あたりまえだろ?だって俺が全部悪いんだから!俺のせいだから!!だからいいの!むしろ戻ってきてくれてありがとうなんだよ!!」
「うん…。」
「では,私はこれで失礼しますよ。猪野くん,明日は休みですから,お子さんと二人で公園に行ってはどうですか。その間に奥さんが家の事すれば少しははかどりますよ。」
「七海さん,その…なんとお礼を言っていいのか…」
七海はそっと人差し指を唇にあてた。実は今回のことはすべて七海の発案だった。猪野の妻にはホテルを用意し,そこでエステやルームサービスなど思いつく限りのサービスをホテル側に頼んで提供していたのだ。そして,時折子どもの様子を連絡し,彼女が不安にならないよう最低限の配慮もしていたのだ。
「猪野くんが考えを改めないようでしたらご一報ください。」
「ひえぇ…」
猪野と妻は七海を見送り,久々に二人で晩酌をしながら談笑した。
「琢真からいつも七海さんはすごいって聞いてたけど,あの人どんなことにも対応できてほんとすごいよね。」
「いや,まじでさ,今日なんて虎杖の言葉借りるなら『ママミン』いや『サリバンミン』だから。めっちゃ怖いの。猪野くんって呼ばれるたびに次は何怒られるのかってドキドキした。」
「あはは。本当に助けられっぱなしだよね。また改めてお礼しなきゃね。」
「だなー。ご飯誘ってもいつも奢ってもらっちゃうから,考えないとなー。」
こうして夫婦二人の騒動は終わりを告げ,穏やかな時間を過ごす。次の朝,七海がいないことに娘が癇癪を起して暴れまわるとは知らずに。