箸 幸福を形作るものは得てして些細なものたちばかりである。
例えば、まな板の上にしどけなく横たわるほうれん草だとか。あるいは、網戸にひっしとしがみつくセミの抜け殻だとか。
もちろんサイズがチグハグになってしまった菜箸だって、そんな些細なものたちの一つだ。一体何があったのやら、つい数日前まで美しく揃っていたはずの二本揃いの箸達は、ある朝キッチンの戸棚から引っ張り出した時にはすっかり一センチほどの身長差が産まれていた。だからどうと言うほどの不都合は無いのだが、それでも喉の奥で何やらが「あーあ」とため息をつくのは止められない。
思えば、これを買ったのも随分と昔の話だ。
それこそ、ここに越してきたばかりの頃。彼らの家族に可愛らしい少女が我が家に入る前の事。
同居に当たってとくに家事の分担をしたわけではないが、仕事柄比較的家にいる事が多いために自然と料理は俺の担当となった。もっとも一人暮らしが長かったことも幸いし、特に自炊に対する抵抗も無かった。それに、恋人であるボンドルドはお世辞にも料理が上手い方とは言い難かったし。
いや下手では無いのだが、断じて不器用でもないはずなのだが、何故かまあまあの確率で味に対する興味がスポンと抜けたようなとんでもない物を錬成するのだ。少なくとも、必要な栄養素を必要な分だけ配合した無味無臭の流動食を作成する作業を「料理」と形容するセンスを俺は持ち合わせていない。
そんなわけで3度の無味な固形物と2度の流動食を最後にこの家の食の全てに責任を持つことを決心した。
その決心から二日後に購入したのが、このぽっきりと先端の折れた菜箸である。
なんてことない、すぐに使い捨てる前提に選んだ百円均一の安っぽい菜箸だ。なぜ水色に白い水玉なんてファンシーな柄を選んだのかさえ覚えていない。
なんの特別さもない、ただの買い出しで出会ったものだからだろう。
あれはたしか、日当たりが実に残念な北向きの窓から新緑の風が吹き抜けるような季節の話。
同居を始めてから一月とすこし。互いの実態が随分と明るみになり、結果色々と買い出しの必要が見えてきたような頃。ようやく互いの休日が被ったため、久々に二人で買い出しに出たのだ。
買うものといえばコップやら、ティッシュ箱やら、領収書なんかを突っ込んでおける小さな箱やら。大したものは無いのだがお互いに方向性の違うこだわりを持っている事は随分と以前からハッキリしていたため任せるわけにもいず、なおかつボンドルドは少々金銭感覚に難アリ……だと少なくとも俺は思っていたため、買い物は極力任せたくなかった。
嫌だろう、棚の片隅に突っ込むだけの箱にウン千円も使われるのは。そういうお人なのだ、ボンドルドという男は。
勿論そんな野暮ったい話だけでなく俗にデートなんかをたまにはしたいなんて下心が無くもなかったが、ここではひとまず無視するとしよう。
まあそんなわけで俺たちは、最寄り駅から30分ほど電車で揺られた先にある大型ショッピングモールへ繰り出した。
ここ最近徹夜続きであったと言うくせに朝七時からシャキシャキと活動を始めた彼に尻を叩かれたため、道中やたらめったら眠かった事をよく覚えている。なにせ春の麗だ。車窓から差し込む柔らかな日差しと電車の振動を前に寝るなという方が無理な話。隣な座る彼はしっかり読書に励んでいたようだが。
大小の駅をいくつかまたぎ、田んぼと民家の割合が一気に民家優勢になり、さらに合間合間にマンションやらビルやらも見え始めたあたりでショッピングモールは姿を表す。
大通り沿いのものほどの規模はないとはいえ、食品や生活雑貨に衣料品、ついでに映画館までついてる。流行りの服やらを求めるなら少々ものたりないが、男の二人暮らしには十分すぎる。
世は華の土曜日。店内はさも新緑の風を装った装飾品と、溌剌とした子どもたちの声、それに愉快と不快の間を突く絶妙な店内BGMが渦巻き妙な熱を帯びていた。
だからだろうか、買い物中の記憶はひどく曖昧だ。しあわせのーおかいものーだかなんだかのフレーズが延々と同じメロディで繰り返される奇妙に誰も彼もが無関心で、まあなんとも平和的。結構結構。そんな事を考えていたような気がする。
とりあえず、目を話せば途端に何かしらの営業にひっかかる彼を見失わないよう、ずっと手首をひっつかんでいたことだけは確かだ。男二人暮らしにウォーターサーバーは二台もいらんのである。
件の百均ショップは、モールの東にあるでっかいエスカレーターで二階に上がったすぐの場所にあった。
けばけばしいピンク色の看板を横目に、たしかティッシュ箱カバーとプラスチック製の箱、あと普段使いのカップを買ったんだったか。他にも何か買った気もするが、思い出せないということは大したものではないのだろう。
とにかく予定の品々をカートに放り込んでいき、何気なく入ったキッチン用品コーナーで菜箸が目についた。ビニール袋に包まれた、パステル色の飛び跳ねるパッケージからして女性向けなのだろう水玉柄の菜箸。
で、あーそういえばウチに無いなぁ、この前の唐揚げ痛かったなぁ、と思った。何故か健康志向が強そうと思われがちなボンドルドはこれで意外と肉類も好んで食す。油ものだってよく食べる。
ので、恋人としてはある程度の頻度で作ってやりたくもなる。
が、痛いのは好かない。平気だが好かない。
ので、買った。
以上、なんの情緒もない回想おわり。
とまあ大したドラマもなく購入した菜箸なわけだが、それがどういうわけだか存外に長持ちしたってだけの話。値段から鑑みる価値を考えても大往生だろう。
などということは勿論よくよく理解しているのだが、これが意外と買い換える気にならないときた。
昔から何故か一部の女子から「なつっこい顔が上手い冷血漢」だとか言われているが、これでも人並に愛着を抱いたりはする。当たり前だ、こちとら人間だって愛せるのだぞ。しかも今じゃ、幼子の世話まで焼ける。まあまあ偉大な生き物なのだ。
なお頭の片隅で「恐らくただの、育ち由来の貧乏性だぞ」などと囁く己には耳を貸さないでおくとする。それもそれできっと、愛の一種だろ。たぶん。おそらく。
まな板の上でいびつに3等分されたほうれん草を、不揃いな菜箸でつまんで椀にひょいひょいと盛る。小皿に盛るのはもう少し日が落ちてから。コイツは今日の夕飯と、明日の弁当、さらに残れば明日の朝食にもなる予定だ。
なんの問題もなくほうれん草を運搬する箸に「もうしばらく買わなくてもいいか」などと心中でつぶやく。実に奇妙な安心感。
薄く開いた窓からまるで見透かすように投げ込まれたカァという鳴き声に、少し羞恥心を擽られる。うるせー。いっただろ、こちとら人間だって愛せるのだぞ。
俺が台所で怪しげな独り相撲に興じていると、ガチャリ、玄関扉が開く音。
まずい、旦那が帰ってきた!
慌てて頬を引き締める。別に俺がどんな顔をしていようが気にしないお人だが、恥ずかしいもんは恥ずかしい。
それに、今日はお姫様も一緒にご帰宅のはずだ。ちかごろすっかりマセてしまった彼女に妙な羞恥心をもてあます顔など見られてみろ、向こう三日はネタにされるだろう。
案の定、玄関から響く足音は二つ。
一つは軽快に走る音。一つはゆったりしつつも重い足音。
最初に飛び込んできたのは、まだまだ身軽なお姫様、プルシュカだ。ふわふわの巻髪を弾ませて、鞠玉のように足になついてくる。
「ただいまグェイラ!」
「はい、おかえり。手ェ洗ってきな」
「うん……ん?」
ぎょろり。大きく赤い瞳がこちらを覗き込む。
目玉の中には好奇心がぐるぐると渦巻いていて、思わずウゲエと息を呑んだ。
「あー、どうした?」
「なんかグェイラ、顔が変だ」
「シンプル失礼だな」
「ニャ〜って、してた!カクシゴトだ!」
あれでしょ、ウワキ!などと、さも名推理だとばかりにはしゃぐ彼女をアーハイハイといなし、どうにか洗面所へ押し込む。勿論、冷や汗ダラダラなんてことはない。断じて無い。
洗面所の扉越しに聞こえてくる不倫ものドラマのOPらしき鼻歌に頭を抱えていると、今度はゆったりとした足取りの男がキッチンに現れた。我が家の大黒柱、ボンドルドその人だ。
「ただいまグェイラ。なにやら楽しげですね」
「ハハハ……おかえりなさい旦那」
いつも通り仕事の荷物の一通りを部屋にすっかり置いてきたらしい彼は、なれた手付きでケトルのスイッチを押しマグカップ二つとインスタントコーヒー、それにミルクパウダーの袋を取り出す。片方にはインスタントコーヒーのみを、もう片方にはソレに加えミルクパウダーをたっぷり二匙。
オマセな彼女は何かと旦那のマネをしたがるが、味覚ばかりはどうにもならないらしい。
「ウワキがどう、などと聞こえましたが」
「……聞こえましたか」
妙な沈黙と、ケトルの稼働音、それに不倫ものドラマのOPらしき鼻歌。
状況が最悪すぎる。
「したのですか、浮気」
「してませんが?!」
「エッ!してないのー?」
「してねえよ!」
最悪な援護射撃まできやがった!
火元のプルシュカは全く意味も重要性も理解していないだろう明るさだし、俺を詰める旦那は普段どおりの笑顔。少しふざけたときのもので無いのが心臓に悪すぎる。感情が全く読めない。
ダラダラと冷や汗を量産し続ける俺をまるで励ますように、ケトルの湯が沸騰する。
旦那がケトルを手に取ることで、ようやく張り詰めていた室内の空気が動き出した。
「あの、いや、ホントにマジで浮気とかしてませんからね……?」
「おや、そうなんですか。君にも浮気なんてしでかす可愛げもあるものかと、少し関心していたのですが」
「しやんでいいっすよ、そんな関心……!」
安心すればいいのやら、逆に不安になればいいのやら判断に困るご回答に、俺は堪らずしゃがみこんだ。
口やら何やらから色んなものが出そうになっている俺の事など歯牙にもかけず、旦那は優雅にインスタントコーヒーをかき混ぜている。相変わらずマイペースなお人だ。一生慣れる気がしない。
ふと、旦那の手が止まる。
「折れてますね」
どちらかといえばタレ目気味な瞳が見つめる先は、キッチン。もっと細かく言えば、たぶん菜箸が放り投げられたあたり。不揃いな彼らは先っちょにほうれん草を引っ掛けたまま、まな板の上に寝そべっている。
「ああ、はい。なんか気づいたら。もう長いっすからね」
「プルシュカが来る前でしたか。もうそんなに」
「ねー。安モンのわりに」
色白だが節くれだった、それなりに男らしい手が箸をひょいと拾い上げた。そして、流れるようにゴミ箱へ。
「あ、捨てるんすか」
「直せるものでもありませんからね。お互い、そこまで切り詰めるほど安月給でもありませんし」
「ウッス」
こうして、俺の特に意味のない愛着は終止符を打たれたのであった。
菜箸が、すこし恨みがましそうにこちらを見ている。正確には、俺の女々しい愛着の類。なんとなく見ていられなくてわずかに目をそらす。
外は清々しくも晴天だ。
「新しいものを買いましょう。せっかくですし、休みを合わせて」
「電車のって?」
「ええ」
「お買い物?!わたしもいく!」
「そうですね。では日曜日にしましょう」
共有のカレンダーの、三日後の日曜日に赤いサインペンでくるりと丸がつけられる。次いで幼い手が、やたらラメラメしい猫のシールでデコレーションを施した。
嗚呼さらば菜箸よ。あの愛着はあと三日の命だろう。安らかに成仏しておくれ。
窓の外からまたもやカァと茶々がはいる。暇な奴め。
俺はやっぱり、うるせー。と親中で野次を飛ばした。