生き残る(現パロ傭オフェ) ほんの半月前まで、世界はゾンビによって終わりかけていた。蘇った死人が逃げ惑う人々の血肉を啜り、ゾンビが市街地を埋め尽くしていた頃、そうなる前にはスポーツに打ち込む学生生活を送っていた大学生のウィリアムは、同じ学科にいた留学生のナワーブと行動を共にしていた。
元々彼らは学内バイトで知り合い、そこで同じ学科に所属していることがわかってから、特別仲がいいという訳ではないが、何とはなしにつるむような間柄だった。外向的で明るい性格をしており社交にあたって大した困りごとはないが、何よりもクラブとスポーツに打ち込んでいるためか学科では取り立ててつるむ相手のいないウィリアムと、寡黙な性質からか、自身と同じような境遇にあるのだろう留学生のグループとさえ馴れ合う様子のないナワーブは、互いに「顔を合わせれば何とはなしに共に行動する」ようないつもの連れ合いを、学科の中で持たなかった。なので、周りに学科の生徒しかいない際には「単独行動をしている奇妙なやつ」と見られるのを避ける為に、ウィリアムはナワーブの姿を積極的に探していたし、ナワーブがそれをどう思っていたかウィリアムには知る由もないが、いつの間にかナワーブが隣にやってきていることは珍しくもなかったため、彼もまた同じように「都合の良い友人」として見てくれているのだろうと思い、敢えてそれを疑ったこともなかった。
母国で兵役に就いた経験があるというナワーブは、そこでの訓練経験からか、このような「混乱した状況下」でのサバイバルに優れており、何より荒事に慣れているようだった――彼らの生活にゾンビが現れたその初日、「フットボールスタジアムで暴徒化した人々」の集団が瞬く間にキャンパス構内に流れ込んで来た時、トレーニングの一環として音楽を聴きながらグラウンドの外周を回っており、スタジアムで発生した状況を把握していなかったウィリアムが、構内の道端で突如倒れ込んだ浮浪者らしい女性に手を貸し掛けたとき、ウィリアムが差し出した手に〝それ〟が食らいつくよりも早く、〝それ〟のうなじに、それも躊躇いなくコンバットナイフを突き立てたのが彼だった。
その直後は、目の前で友人が殺人を犯したかもしれないという状況を理解できず、ウィリアムは絶望めいた驚きのあまり絶句して声を上げることも出来なかったが、程無くして、否応なくその「状況」――市街地に溢れかえるゾンビが逃げ惑う人々を食い荒らし、ゾンビによる噛み傷を負った人々が息を引き取っては、同じようなゾンビとなって人を食い荒らし始める状況――に身を置くことになってからは、「あの時、彼の咄嗟の判断が無ければ、俺はとっくにやつらの仲間入りをしていただろう」というように理解するようにもなっていた。
その初日を学内で迎えた彼らは、最寄りにあった大きな建物であり、たまたま感染者よりも生存者の数が多かった体育館に身を寄せ、皆で協力して周囲にバリケードを築き、「救助が来るまで」の間の避難生活を送るようになったのだが、事態が発生した直後には「最寄りの屋内に隠れてやり過ごせ」という指示が自治体や学校の放送で繰り返されていたものも三日目になると全く音沙汰なくなり、そこからさらに一週間待っても救助らしいものの案内やその後の続報は無く、テレビやSNSでは毎度同じような――「発生」時に際立って報道された「スタジアムの暴徒がアナウンサーに襲い掛かる」というショッキングな場面を繰り返す国内大手メディア、海外メディア、各地に拡大するニュース映像、感染症の疑い、専門家のインタビュー、テレビ局に押し入る〝彼ら〟――兎に角、事態が拡大していく様をヒステリックに繰り返すばかりで(諸外国の最新状況は、この事態が発生した初日から数日後まではネットニュースでも見ることができたが、途中で通信が遮断されたのか、ぱったりと情報が入って来なくなった。)、取り残された「非感染者」、もといクリーンな生存者のことは一切気に掛けていないようなそれ――を繰り返す画面を情報源と思ってじっと見ている内にみるみる疲弊し、グループでは様々な対立ともめ事が起こるようになった。
特に鋭く意見が対立したのは、怪我人や体調不良者の扱いについてだった。ゾンビに噛まれたものは早くて6時間、遅くとも24時間後には重いインフルエンザのような症状によって死亡し、人としての最後の息を吐き切ってから、程無くしてゾンビになる。ゾンビによる咬傷が感染源だろうということは、この状況に閉じ込められた者にとっては嫌でもわかることだった。感染源はゾンビの唾液が血中に入ることなのか、それとも、ゾンビの唾液に触れること自体が感染経路になり得るのか。飛沫感染はあるだろうか? 空気感染の可能性は? ゾンビに引っ掻かれたものはどうなるのか? バリケードや廃屋のガラスで作った怪我をゾンビに触られたものは? 感染者は感染力を有するのか。つまり、まだ息のある、ゾンビに変化していない、しかし重篤なインフルエンザに似た症状を呈して、今息も絶え絶えに死につつある感染者と接触したものは、どうなるのか。感染者の血は感染力を有するのか。唾液は? それ以外の体液はどうか。感染者が触れたものに、非感染者が触れた場合の扱いは? 例えば感染者が感染したと知らずに使った食器を洗って非感染者が使うと、果たして感染するものなのか。そして何より、感染者と接触した非感染者が、感染していないことを示す証明は? 体育館で避難生活を送るメンバーの中に、それらの疑問に対して明確な答えを示すことができるものはいなかった。外部の情報は錯綜しており、彼らの中に、バイオ系を専攻する学生は含まれていなかった。
従来より災害時の避難先に指定されているグラウンドを有する体育館は、非常時の支援物資を格納する倉庫へのアクセスが良く、立て籠もるにあたって極めて優良な立地である筈だったが、保管庫を開錠する為の鍵を誰も持っていない上、保管庫の施錠は必要以上に頑丈だった(有事には体育館地下がシェルターの役目を備えているからこそ、核格納庫もかくやという厳重な作りにしているのだということを多くの学生がその時になって初めて知り、「せめて有事に使えるようにしろ」とさかんに文句を言い合ったものだった。)。
体育館の中に逃げ込んだ十一人を養っていく為、隔日で男手が体育館の外に物資の調達に向かい、食料を販売する自動販売機やかつて購買、コンビニエンスストア等のあった建物に入るたび、ゾンビだけでなく、同じ大学構内でも異なる講堂に逃げ込んだ他グループとの対立に巻き込まれた。ラグビー選手であるウィリアムも、何回か生存者同士の争いに参加し、彼らの仲間の為の食料を獲得していたのだが、ある日剥がした扉にワイヤーで縛り付けたゾンビを盾にしながら連れ歩く白衣のグループ(サイエンス系の研究棟に陣取る理系学生グループの手口であるらしい)が出て来てからは、大学構内の、少なくとも生存者同士の目に見えた争いは一気に下火になった。
そこからさらに数週間が経ち、構内でアクセスできる物資は底をつきつつあった。アクセスできる情報も、真実味に乏しくなるばかりだ。ゾンビ化のトリガーはウイルスまたは細菌によるものらしいが、実際のところ「よくわからない(らしい)」という以上の目新しい情報は何も入っては来なかった。あれから世界的な巨大製薬企業がワクチンの開発に乗り出したという話もあれば、諸々で動いているのは軍であり、民間に情報は降りてきていない(から、製薬会社がワクチンを作っているという話は一種の陰謀であるという台詞が決まって続く)という話も聞く。何となれば、今回のパンデミックは一部の〝選民〟に乗っ取られた〝軍部エリート〟による大規模な実験、或いは〝既存政府転覆〟の前触れであるといううわさもあった。
元より単純な気質のあるウィリアムは、世界規模に繰り広げられる「先」のことではなく、目標をまず「日々の生存」に定めることはそう難しいことではなかったが、特に物資調達に行く程の力を持たず、バリケードを周囲に張り巡らせた体育館の中に籠って「せめて何かできることを」と情報を仕入れ続ける学生たちにとっては、そう簡単に割り切れる話でもないようだった。食料調達の為にバリケードの外に出た者が内側に戻る時のクリアリングは過酷を極めるようになった。
服を全て脱いで行う検査の最中、咳払いを一つしたウィリアムは、ただそれだけの理由で着の身着のままに弁明も無く追い出され、彼に同行していたナワーブも同様に着の身着のままで追い出された。「……これは、俺のせいだな、悪い」と、日頃あまり深刻にならない性質ではあるものの、こればかりは眉頭に深い皺を寄せ、まるで今生の別れのように謝罪を告げたウィリアムに対して、ナワーブは平生通りの、ウィリアムからすると何を考えているのか捉えにくい、「アジア人らしい」やや平坦な顔立ちをしていることを除いても、口角や眦といったところの表情筋に動きの見られない硬い無表情のまま、「気にするな」と返した。
「あそこにいた奴ら全員を食わせるだけの食料調達は難しいが、二人食っていくだけなら問題ない。」
状況を把握するための放浪を経た後、郊外に位置する軍関係の施設に潜入することになったのはナワーブたっての希望であり、「当面の生存」以外の目標がない中、「……せめて、故郷がどうなっているのか知りたい」と言われれば、元より確固たるヒーロー願望を持っているウィリアムに断る理由は無かった。件のバリケードから私物の通信機器を取り戻す間もなく追い出された彼らにとって、荒廃した街の中で新しく、それもきちんと機能する機械を再度手に入れることは難しい(面子に機械修理に通じている者が居れば話は別だったが、彼らは二人揃って機械音痴だった。)。
しばらくバリケードの中で暮らしていたことが仇となり、スマートフォンや小型テレビ、ラジオといった目ぼしい家電は、店頭から軒並み持ち去られた後だった――殊更にゾンビが密集する繁華街であれば、話は別かもしれないが、どうせ同じようなリスクを取るのであれば「軍の施設への潜入」の方がより「格好がつく」リスクだろう、というのはウィリアムの考えであり、ナワーブがどう考えたかはわからない。まあ、何でも彼は過去に兵役を経験しているというから、何か考えがあるのだろう――と言う程度のことしかウィリアムは考えていなかった。チームプレーの基本は、まず仲間を信用することだ。
ほんの半月前まで、この世はゾンビによって終わりかけていた。しかし今、通りにゾンビの姿はなく、各都市は深い痛手を負いながらも、そこには確かに、人の営みが復興しつつある――かつては身体の形を保たなくなるまで燃やす(その残りかすである灰も、完全にクリーンかどうかはわからない)他に処分する手段の無かったゾンビを「不活性化」し、なおかつゾンビに噛まれた、また、ゾンビの体液に接触した感染者から、件のウイルスの毒性を取り除く解毒剤の生成に成功したのだ。
しかし、殺ゾンビ剤と解毒剤の完成によって、人間の文明はまた新たな一歩を踏み出しつつあるまさにその時、多くの生存者と同様にそれを強く望んでいた内の一人であるウィリアムは、復興しつつある都市の姿を見ることもなく、それどころか人里から離れた山間に向かい、時折パンデミックの影響を受けて廃村と化すか、或いはごくわずかに生き残りが残っている程度の集落で食糧の調達をしながら、赤茶けた山肌を剥き出しにしている山脈の麓を伝っていくように歩き通していた。
ウィリアムは明らかにちやほやされることを好む性質で、復興する街の中に居る方が余程水が合うだろうに、すっかり板についたバックパックを背負いながら、「ほとぼりが冷めるまで待てばいい」と励ますように言う。その励ましめいた言葉を向けられるナワーブは、何とも言い出せずに黙り込む――元は暗い茶色に近い彼の髪の色はすっかり抜け落ち、血の気の抜け落ちた肌は病人を通り越して、つい半月前まで手当たり次第に貪りながらそこら中を闊歩していたゾンビのそれに近く、彼に同行するウィリアムすら、起き抜けにその姿を見るとぞっとするような色合いをしていたが、何よりも異常なものは彼のその目だった。
まだ目らしい姿をしているそれも色が抜けて白に近いグレーに濁っており、もう片方の目――通常であれば、目があるべき場所――には、多肉植物が数日だけ咲かせる美しい花の白い花弁とも、病気によって白く変色した哀れな葉ともつかない、鱗翅目の羽根のようでもあり、或いは、柔らかな白い鱗のようにも見える得体の知れないそれに覆われており、眼窩を埋め尽くすような白の合間からは、哺乳類というよりも昆虫や水生生物が持つものに近い触手が姿を見せては、海中に漂うイソギンチャクのように蠢いていた。
潜入した軍施設内で件のパンデミックが全世界的な規模で発生していることを知り、彼らが愕然としている隙を見て拘束した研究員が言うには、ナワーブに起きた変貌は、彼がウイルスと「融合」した証拠、ということらしい。獰猛な性質を持ちあらゆる実験を失敗に導いたウイルスは、どういう訳かナワーブをある種の定まった主人と定め、彼の身体の体色や目に見える姿形等を変容させながらも、彼を彼たらしめる意識を残し続けた。かくしてウイルスを征服した彼の体液を元に生成された解毒剤、およびそこから生み出された殺ゾンビ剤の完成によって、ほんの半月前まで滅びに瀕しつつあった世界は今、まさに立ち直りつつあった――生存者を用いて人体実験を繰り返していたらしい彼らにも、人類の復興に対する何らかの信念というものがあったらしい。解毒剤と殺ゾンビ剤は速やかに広く展開された。
こうして、世界はゾンビによる終末から解放されつつあった――都市部におけるクリアリングは完了し、郊外に残っているゾンビに対しても、順次例の殺ゾンビ剤の空中散布による駆除が行われている――この状況において、重大な問題となるのが、他でもない、ナワーブの存在だった。ゾンビ化の原因となるウイルスと「融合」した彼という無二の被検体の存在によって世界は救われたのであるが、ウイルスによって死に至りつつある人々からそれを除く件の解毒剤は、ウイルスと「融合」し、変貌した彼の身体には効き目を示さなかった。
「融合」によってはっきりと外見の変化が現れてしまった彼を人々が危険視するのは想像に難くないどころか、彼の身体にウイルスを投与した張本人である施設の人間たちこそが、真っ先にそれを考えた。この世からゾンビとそれを齎したウイルスが根絶された後、今や唯一の融合体である彼こそがウイルスをばらまく唯一の感染源となるだろう。それどころか、より強毒化した温床となるに違いない、故に、
「どうか君には、人類の為に死んでほしい。」
ナワーブはあまりにも手垢に塗れ、向けられた側から鼻で嗤ってしまいたくなる程陳腐な、しかし、実際に滅びの淵に立たされたこの期に及んでは、それが本心から向けられているのだろうと容易に察せられる分だけ切実なその文句を、条件もなく受け入れるつもりだった。
何せ、今故郷がどうなっているかもわからない。通信はまず間違いなく途絶していて、無事を確かめに行くことも難しいだろう。災禍がそこまで及んでいるのか否かすらわからないし、仮に及んでいたとして、今、自分の家族が、あの人が、どうしているのかもわからない。仮に家族が無事であったとして、自分の身体が抽出されたと言われるこの解毒剤が、彼らの役立つかはわからない。しかし、奴らが言うように「ウイルスを排出する存在」であるかもしれない自分が、故郷に暮らす家族に送る金を稼ぐために生きている必要は、最早なかった。崩壊しかかった世界で、金に何ら意味はなかった。これまで彼と故郷を繋いでいた銀行口座という細い線は、パンデミックが引き起こした社会的混乱によってぷっつりと分かたれ、故郷は遠い空の向こうにも存在しない絵空事だと思われる程まで遠ざかっていた。自分が、そこに帰ることは、もう二度とないだろう。大陸と大洋に阻まれ、故郷からはあまりに隔たった、あまりにも遠いところに来てしまった。よしんば帰国が許されたとして、ウイルスを排出するかもしれない身体では、カトマンズは兎も角、開業医のところまで山をいくつか越えなければいけない村まで戻ることはとても考えられない。
研究員のいかにも陳腐な台詞に返事をする代わり、ナワーブは諦めるように目を瞑り、あまりにも遠くなり、取り立てて思い浮かべることさえ間遠になった故郷の景色を思い浮かべようとしていた。しかし、瞼に受けている照明の分だけほの赤い自分の瞼を見詰めている内に、嵩張る精密機器が蹴り倒されるときの凄まじい音、研究員の叫び声、手にしたボールを抱え、必要な間中決して離すことのないよう鍛え上げられた、厚みのある、そしてやや温度の高い手の平が、病床の上に横たえられ、肘の内側に針を刺し込まれてチューブで繋がれた点滴から、致死性の高い毒薬を投与されることになっていた――意識の消失を確認した後、燃焼処理を行うことになっていたらしい――ナワーブの腕を掴むと、強く引っ張った。
施設内部も一枚岩ではなかったようで、諸々全く統制の取れていない混乱の中どさくさに紛れて、二人して奇跡的に逃げおおせたはいいものの、鬱蒼とした木々の中に隠れて雨露も乾かない洞窟の中にテントを張るような状態は、ウィリアムにとって望ましいそれではないだろう、ということもナワーブは理解していた。まだゾンビによる脅威が人類を滅亡の淵に追いやっていた時、彼はきまって「きちんとした屋根の下」で「程よい柔らかさのマットレス」を使い、「人間的な眠り」を取り戻したいとぼやいていたものだった。今、ゾンビの根絶が成った街中に繰り出しさえすれば、すぐにでも叶うような願いである。
「その内ほとぼりもさめるだろうし、まあ、どうにかなるって」
11月の冷たい雨に湿気たテントの中でやや疲れた顔色をしたウィリアムは、それでも従来通りの快活らしさを装うためにか、ナワーブに向かって歯を見せて笑った――長い間メンテナンスが出来ていないからか、その白さには翳りが見える。
本来研究員らによって処分されるべきだったものを、情が移ってしまって下手に連れ出してしまったばっかりに、自分が無用な苦労をしていることに、ウィリアムも薄々気付いているのではないか。しかし、彼の性分から、おいそれと放り出す訳にはいかないと抱え込み続けているのでは、というところも、ナワーブには想像の付くところだったが、それを敢えてウィリアム相手に、口に出したことは一度も無かった。そうやって言ってみたところで、見栄の強い彼の性分ではかえって逆効果だ。この男を説得するよりも、手早く置き去りにした方が余程良い。彼はしばらく周囲を探すかもしれないが、やがて諦めて、街に帰るだろう――その間に万一、駆除されていないゾンビと遭遇するようなことがあれば「寝覚めが悪い」。だからこそナワーブは、ウィリアムの言い出した無為な逃避行に大人しく同行し、時に助力すらしているのだった。
ウイルスと「融合」したナワーブの目に最早暗闇は用をなさず、まったくの暗闇の中でも、彼は色以外の全てを見分けることができた(自分の視覚がある種の〝進化〟を遂げていることに気が付いた時も、ナワーブは大して驚かなかった。精々が兵役中、特殊訓練に参加した時に使用した暗視カメラ越しの視界のようだ、ということを思い出すぐらいのことだった。)。今や睡眠も必要としない――微睡むことがあっても、ものの小一時間で目が覚める――彼は、ウィリアムが収まっているテントの入口を見張るようにそこに胡坐を掻いて夜を明かすのが習慣となっていた。都市に近いエリアでは殺ゾンビ剤の空中散布によって粗方の駆除は済んでいるものの、このように自然豊かで人里離れた場所については、その限りではない。
(ここからは、俺一人でも十分だ)
実際、言葉通りの意味である。今のナワーブにとって、空腹も眠気も、最早大した意味を齎さなかった。ウィリアムは変色したナワーブの髪色や顔色、そして何より彼の羽根か花弁のようなそれに覆われた顔の半分を隠すためにフード付きの服を見繕ってきては「山は冷えるよな」と、さも彼がウイルスとの“融合”によって人ならざるものに成り果てたことに気づいていないかのようなことを言うが、その気温の変化だって、最早ナワーブにとっては大した問題ではない。感じないことはないが、〝融合〟を果たす以前のように、それが行動に影響することはない。つまり、今の彼は、寒さに手が震えることもなく、眠気に目が霞むこともなく、豆の缶詰を一週間に一口でも口に含めば、空腹もすぐに満たされてしまう。死人のような肌に色素の抜けた白い髪、暗闇をものともしない視界、ヒトらしからぬ特徴を備えた――蝶の羽根のようなものに覆い尽くされ、その合間から触手の揺蕩っている片方の眼窩――彼が、最早人間ではないことは一目見れば明らかだった。
あの日、(死んでも良い)と思いながら処置台の上で目を閉じていたナワーブを引っ張り出したこの男は、何か彼に対して恩義らしいものを勝手に感じ、見捨てるべきではないと見当違いのことを思い込んでいるようだが、それだってナワーブからすれば偶然の結果でしかない。
状況が発生した直後、スタジアム方面から現れたらしい浮浪者の動きに強い「違和感」を覚え、それを拭い去る為にナワーブが取った行動が、結果としてウィリアムを助けることに繋がったのであるし、シェルターを追放されたのも、むしろ都合がいいくらいだ。統率の取れていない大人数よりも、統率の取れた少人数の方が使い勝手が良く、任務の成功確率も高い。彼の為にしたことは一つもない。ナワーブの選んだ選択によって、結果的に彼が生き残っただけだ。ナワーブはウィリアムのことを(良いやつ)だとは思っていた。扱いやすく単純、頑丈で馬力がある。あらゆる秩序の瓦解した異常事態で、彼のような素直な手駒を新たに調達するのは難しいとわかっていたからこそ、彼を優先して助けたし、既に一部では感染者の匿いを始めているシェルターの面子よりも、この男の方が余程利用価値があると思ったから大人しくそこから追い出され、着の身着のままシェルターの外で呆然と立っている彼に同行した。
そこに彼が恩義に思うようなことは、何一つとしてない。必要な時に、必要な人員を利用した。それを美しい言葉でまとめれば「仲間」という言葉になるのだろうが、それに絆され、ようやく拾った命を無駄にすること程、愚かしいことはない。だからウィリアムには、次に物資を調達するため集落に近付いた時にでも、(ここまででいい)というつもりでいる。この男に、これ以上利用価値はない。彼は自分の望んでいた「普通の」暮らしを取り戻す権利がある。これから先どうなるのかは知らないが、自分は明らかに、一人でもやっていける。
ウイルスとの〝融合〟を果たし人間の形に近い何かに成ったナワーブは、時折目を開けたまま夢を見ることがあった。過去の記憶だ。世界がまだゾンビによって蹂躙され、終末の淵に喘いでいた時期の記憶。何らかのよからぬ実験を繰り返していたのか、軍施設の周囲には異様に身体能力が高く、扉の開閉や小走り、壁をよじ登る運動能力を持つどころか、下半身をごっそり失った状態でも匍匐前進を続け、口に入るものに食らいつくような奴らがワラワラいた。たまたま膝宛てが取れ、テーピングの緩んでいた踝にかじりつかれたエリスは、彼のくるぶしを喰い締める下半身のないそいつの柔らかい頭蓋骨を蹴り飛ばして、辺り一面に吐き気のするような臭いのする腐ったワイン色の脳漿を飛び散らせながら、その場は取り敢えず、何事も無かったかのように次の扉へ急いだ。しかし、そこに咬傷があることは明らかだった。
『 っナワーブさん、頼む、おれ、俺を……』
ウィリアムは今にも死にそうな顔色で俺に向かってそう言いだしたが、言葉尻は震えるままに(置いて行ってほしい)とも(殺してほしい)とも続けられないまま途切れた。明らかに、見捨てるべきだ。一目見るまでもなくわかる。一帯にひしめいていたゾンビの身体能力が軒並み高いことを考えると、何なら、ここで殺しておくべきかもしれない(生前に頭部を潰せば死体がゾンビとして復活しないことは、ここまで生き残っている誰しもが経験上知っていることだ)。
『いや』
手荷物の中でまだ使えるようなものをここで腑分けし始めるつもりなのか、担いでいたザックを床に降ろそうとする彼の腕を掴んで、留めた。
『ここは、軍の施設だ。周りにも、妙なやつらが多かった……だから、何か、やりよう、が……ある、かもしれない……』
ここで「やりよう」を見つけ出したところで、全く無意味だということはわかっていた。そもそも、この放浪自体が無意味だ。任務も何も存在しない。故郷が無事であれば、このおぞましい状況をどうにか生き抜く甲斐もあるだろうが、あれから、少なくとも一つの夏を終えて、もしも、この地球上に無事なところなんか、一つもなかったとしたら?
『行こう』
薄々気付いている実態に、一人で立ち向かうことが単に恐ろしい。それだけだったのかもしれない。俺が彼の腕を掴んで引くと、彼も自分のような状況に陥った(つまり、ゾンビによる噛み傷を負った)ものが助かりっこないことを経験上知っていながらも、どうにかヒーローめいた、殊勝なことを言いだそうと口を動かしはしたものの、四方をすっかりゾンビに囲まれた施設に一人で置き去りにされるような事態は、やはり恐ろしかったのだろう。
『……俺の、俺の様子が、おかしくなったらさ、ナワーブさん、頼むぜ』
過剰に勇ましさにこだわる性質のある彼は、いつになく弱弱しく震える調子の声でしかし何とかそう続けながら、歩きだした。
ナワーブが一瞬に近い微睡みから目を覚ました時、日中は赤茶けた色をした山肌が剥き出しになっている山々の連なりを背景にしたモノクロームの森は、相変わらず静かなものだった。彼が背にしたテントからは、眠るウィリアムのささやかな鼾だけが聞こえて来ていた。