オイタナシーマーメイド(傭兵とオフェンス) その日に見た夢の中で、ナワーブは、入り江の別荘で暮らしていた。赤みを帯びた煉瓦の外壁は、毎日吹き付ける潮風をものともせず、明るい色をそのままに保って南国の強い日差しに眩しく照らし出されている。コロニアル様式のその別荘は、彼が一人で暮らすにはあまりに広かったし、そもそもそれは、彼の保有する別荘ではない。これを所有するのは裕福な貿易商の一家で、普段本土で忙しく生産的に暮らしている彼らは、夏の間の数週間だけ、避暑の為に、この海沿いのリゾート地を訪れる。ナワーブはその別荘の、いわば管理人代行と言うような立場であった。正規の管理人は今、目の前の入り江の底で、長い休暇を取っている――つまり、その別荘の「管理人」というのが、ナワーブが受けた今回の任務の対象であった。
しかし、その後の潜伏は任務に含まれていることではない。当該任務は既に達成され、報酬も口座に送られている。じきにバカンスシーズンが始まる。(流石にこの規模の屋敷であれば、主人の到着前に前もって使用人を何人か送って、より良い滞在の準備をさせるようなこともあるだろうが、そうはいっても)いつ、この屋敷の本来の主がここを訪れるとも知れない。ナワーブには、ここで愚図愚図して良い理由は一つも無かったが、彼は別荘でさも自分が管理人であるような顔をして暮らし、管理人の私物だったのだろう白シャツとジーンズの裾を切って、折り目を付けてラフにそれらしく履き、それで漁村に降りて行って、必要な品、それは包帯や消毒液の類であるが、そういうものを買い求めていくこともあった(何せ、普段のボロのフードを目深に被った格好は、叢やジャングルという地形で隠密行動をするのであれば兎も角、リゾートに程近い漁村では悪目立ちし過ぎる。)。別荘にいくつか設えられている豪奢な浴室の中で、人魚を匿うようにして飼っていたからだ。
人魚というのは海獣の一種であり、下半身は魚そのもののような鰭の形をして鱗まで備えていながら、哺乳動物らしい泳ぎ方をして、上半身はと言えば鱗一つなく、人間と大差ないそれである。強いて言えば、顎から耳のラインに掛けて鰓の切れ込みが走っているが、それとは別に、肺呼吸の為の器官を問題なく備えている。一目見れば分類学者が発狂する代物であるが、ナワーブにはその手の学は無かった。彼は任務の中で何人か、絵に描いたように趣味の悪い金持ちを見ることがあり、彼らの中には、この手の奇妙な作りをした動物を「異形」と称して剥製にして飾るのが趣味、というような輩も居たが、ナワーブはそれに顔を顰めることも無ければ、飾られているその毒気の強い品々に魅了されることも無かった。要は、彼はその手の物に、大した興味を持たなかった。
ナワーブがその日の食事(午前中に釣った魚だ。食事の素材は人間と同じようなもので問題ないらしい。ナワーブは自分の分と分けて人魚用のものを作ってやるのが手間なので、人魚にも自分が食べるものと同じく、火を通したものを与えていた。)を持って浴室に向かうと、ちょっとした温水プール程の広さを備えた白亜の浴室の中で鰭を伸ばし、退屈そうに水面を叩いていた人魚は、やってきた彼を見るなり能天気に明るい声で「ナワーブ!」と彼を呼んだ。その人魚の顔立ちは、日焼けて浅黒い肌に、タオル地のヘアバンド(屋敷にあったものだ)で束ねられた暗い色のドレッドヘア、鼻筋の通った男らしい顔立ちに、さらなる「男らしさ」という洒落っ気を意識して生やしているのだろう髭がうっすらと顎を覆っている。そして発達した筋肉の張った上半身――つまり、その人魚の、少なくとも上半身は、ウィリアム・エリスと全く同じものであった。下半身はまさしく魚のそれらしく、ところどころ黒光りする程の艶を持った深みのある緑色の鰭であり、ナワーブが過去に悪趣味な金持ちの執務室で目にした人魚の鮮やかなそれとはまるで趣が違う。それは少なくとも、好事家の目に留まらないような、実にシンプルで、大して目立たない色ではあった。
夢の中のナワーブは、今回の標的であったこの別荘の管理人を始末した日の晩に、目標の死体を入り江の深いところに重しを付けて落として隠蔽するという、最終的な後始末の段取りに速やかに取り掛かった。その時彼が漕ぎだした小型のボートに、勢いよく突っ込んで来たのがウィリアムである、らしい。その日は新月の夜で、視界の利かない程の暗闇の中で、突然何かに勢いよくぶつかられたナワーブは、死体を詰めた麻袋もろとも、夜の海に落ちた。彼は決して、全くのカナヅチと言う訳ではなかった――少なくとも、軍で訓練される程度には泳ぐことができた――が、ネパールの山間に出自を持つ彼は、とても海には慣れていなかった。突然車にでもぶつかられたような衝撃を喰らい、水しぶきを上げて勢いよくひっくり返ったボートの船底に頭を打ち、そこで、その晩の彼の記憶は、ふっつりと途絶えている。
次に彼が目を覚ますと、夜は既に明けていて、目の前の空は、バターを溶かした鍋のように黄色く白んでおり、ナワーブはずぶぬれのまま、入り江の砂浜に打ち上げられていた。生暖かいがどこかすがすがしい(しかし妙に魚臭い)初夏の朝の空気を吸い込むと、まだ肺に水が残っているのか勢いよく噎せてしまい、ついでに喉にいがらっぽく絡みついた潮の気配を吐き出しながら、ナワーブが砂まみれになった上半身を起こすと、自分の腰回りを掴んでいる、まぎれもなく男の、逞しく浅黒い腕があり、すぐそばに、まるで彼を抱きかかえるか、寄り添っているのか、或いは、上からの攻撃に対して彼を庇おうとしているかのように、ナワーブの身体に寄り添って寝そべっている半裸の男、もとい、立派な体躯をした人魚が寝ているのを見つけたナワーブはつい、首を竦めて速やかに臨戦態勢に入るように身構えると共に、自分が何故起き出した時点で、人魚に組み付かれているようなこの大変な異常事態に気付かなかったのかを早くも自責した(直前まで意識を失っているとはいえ、これは起きている時点で気付くべきだろう。)が、その人魚が、人間であれば太腿があるであろう辺りに深い傷を負っているのを見ると、話が変わった。
直前の記憶は、ボートが酷く揺れたところで途切れている。恐らくこの人魚は、その時に遭遇するか、その時の原因か、或いは、一部始終を目撃して、何か手助けをしようとしたものだろう。例のボートが結局どうなったかも知らなければならない。話の仔細を聞く為に、ナワーブは屋敷の倉庫から台車を持ってくると、意識は無いが呼吸はしている人魚を、屋敷の浴室に移したのだ。
そうして屋敷の浴室に運び込まれた人魚のウィリアム・エリスは、使用人が使うシャワールームに置かれたまま忘れ去られた前時代の簡素な猫足バスタブの中で目を覚ますとひと騒ぎしたものの、ナワーブの顔を見て、何か納得したように(或いは、彼以外あまりに屋敷に人気がなさすぎることを察したように)、色こそ暗い色をしているが、闘争心めいた溌剌とした火花がどこかに散っているからか、妙に陰気な印象のないその目を細めて、彼をじろっと見遣り、それから、ナワーブが最初からそのために持ってきていた救急キットでもって自分の鰭の傷を縫わせると、続いてひと暴れをするわけでもなく、彼の事情聴取に応じた。
「昨日、何があったか説明してくれ」
ナワーブのシンプルな質問に対し、ウィリアムはまず、自らの名前を名乗るところから始めた。誇らし気に過度な自信を伴って、朗々とした調子で名乗られるウィリアム・ウェッブ・エリスの名は、海の底に轟く選ばれしスポーツ選手の名であるらしい。昨晩の彼は入り江でトレーニングに励んでいたところ、〝ちょっとしたハプニング〟があって、入江に浮いていた小舟にぶつかってしまった。
「まあ、つまるところ、俺は……君の命の恩人って訳だ」
無闇に言葉を溜めた後、親指を自信満々に立てて己を指して見せるウィリアムに対して、ナワーブは通り一辺の感謝こそ述べはしたものの、続けざまに、「それで、ボートはどうなった?」と、いかにもさっさと話を進めたがっているような素っ気なさで本題の質問をすると、ウィリアムは、一応の感謝を示されはしたが、期待する程感謝されなかったことを不満に思っているらしく、早速顔をいたく顰めながら「あのボロいボートは、君の大事なものだったのか?」と不服そうに独り言ちながら首を竦めて、「人命救助に必死だったからな、正直なところ、よくわからない」とふてぶてしく返す。それを受けて、「……ボートの中に、俺の〝大事なもの〟があった。海底に沈んでいるか、確かめてくれないか」と続いたナワーブの言葉には、「まず療養が先じゃないか?」と言ってフンと鼻を鳴らすばかりで、それからは、取りつく島もない。人魚の妙に高飛車なその態度に、ナワーブは(普段海の中にいる癖に、陸で療養をするのか)というようなことは思ったものの、それがうっかり口に出ることもなく彼は言葉を呑み込み、ナワーブは、ウィリアム・エリスと名乗った人魚相手に、それ以上の追及をすることは無かった。
「君は、俺を食べないのか?」
「これじゃ身体が凝っちまう」という本人からの苦情を受け、人魚をそれまで彼を置いていた使用人用のものから、客人向けのより広い浴室に移し、それから一週間が経った頃、ウィリアムはついに怪訝そうな様子で首を傾ぎながらそう言い、ナワーブを絶句させた。何せ、(ナワーブ自身が、あまり海には縁がないこともあるのだが)「普通の」人間は、人魚を食べないものだ。その容貌が人間に近すぎる上、彼らは高度な社会性と知性を持つからだ。沿岸に現れる人魚の中には、その場所の人間の言葉を解して、人間と積極的に会話しようとするものがいる程だ。全ての人魚がそれほどの知性を備えているようには見えないとはいえ、これを狩猟の対象にすることは多くの共同体の中でタブーとして見られており、人魚を捕獲したところで顔を顰められることはあれど、両手を上げて歓迎されるような代物ではない。
しかし実のところ、味の方は上質な牛肉に似て結構な美味らしく、たまに砂浜に打ちあがったり、漁師の網にうっかり入ったりして〝捕れてしまった〟人魚のそれは、「人魚の肉」ではなく、「海牛の肉」として売り出される。そう大規模に獲れるものでもないので、精々漁港の市場に出て好事家や美食家が競って競り落としていくか、腐る前に投げ売られ、現地で全て消費されてしまう程度だが、ナワーブも、話には聞いたことがあった。
「人間の屋敷に運ばれたからさ、てっきり、ここでバラされるのかと思っていた。」
ウィリアムはわざとらしく乱暴で直接的な言葉遣いを選び、当初名乗り出た時の自信に満ちた様子からは、やや印象の異なる苦笑を見せた。
「だから俺は、俺が「命の恩人」だと言って、君の良心に賭けてみたんだが……いや、助けてやったのは、本当のことなんだけどな?」
彼はそこで気取ったように笑いながら、ファン相手にポーズでも決めて見せるように俗っぽくウインクをすると、ナワーブに向かって指をさした。そうやっていやに明るく、それも軽々しい調子で続けた打ち明け話曰く、今の彼は、海からも陸からも追われる立場にあるらしい。
何でも、陸よりも資源に乏しい海で生きる人魚は、人間以上に高度な社会性を持ち、誰もが何らかの役目を果たし、全体に奉仕して、平穏な社会を築いている。裏を返せば、役目を果たしていないと見做されれば共同体から容易に追放され、苛烈な水底を身一つで生き抜いていかなければならなくなる。海の底には、職業としてのスポーツは存在しない。それは、軍(海底にはいくつか人魚の派閥があり、属する共同体の異なる人魚同士は必ずしも融和的であるとは限らないらしい)の中にあるレクリエーションのような「遊び」の部分であり、「ラグビーサッカー」と彼の言うスポーツの海底における開発者を自負するウィリアムも、いつまでも球を追いかけるアマチュアでいることを許されなかった。そして彼は、全体に奉仕し、共同体の中の一人として淡々と社会を支える有り様に収まることを拒んだ。
かくして(海の底で暮らす人魚の主食は穀物の類ではないだろうが、言うなれば)穀潰しとして、彼はそれまで自分が生まれてから長らく所属していたその「人魚のコミュニティ」から追放された。本来であれば人魚の「追放」というのは、罪人の鰭に大岩を括りつけて海溝深く沈めるという趣向のものであり、いわば死刑の婉曲表現であったが、そこで処刑人の腕を振りほどいて、彼は見事逃げ切ったのである。
「お尋ね者になるのは、あそこでただ、〝生きているだけのもの〟になるよりも、よっぽどマシな選択だった」
そう続けながら、尾をすっかり伸ばして寛げる程の広い浴槽の中でも手狭そうに鰭を浮かせて、ゆらゆらと揺らしていたウィリアムは、彼を見るナワーブの視線に気付くと、やけに得意げに肩を聳やかしながら、尾で浴槽にたまった生ぬるい水をパシャンと叩いて、軽く水しぶきを上げる。
「俺を疑っているな? だが、考えてみてくれ。英雄にもなれないで、そこからほど遠い何かになり果てるぐらいなら、とびきりの逃亡者になるのだって、悪くはない……」
特段表情を明らかにしていない(あまりオーバーに表情を作らないのは彼の性格である)ナワーブに向かって、ウィリアムは上腕に見事な力こぶを作って見せつけながら、やけに白い歯を見せて笑ったが、逞しい程に見えるその見事な、そして、ウィリアムに彼の生きる道を踏み外させた果敢な自尊心とは無関係の存在であり、それにあまり理解を示している訳でもないナワーブの立場からすると、一人と一匹しかいないここではあまり意味があるようにも思われない虚勢も、続く打ち明け話の中で、そう長くは続かなかった。
共同体の支援を満足に得られないままに一人で生きることには、多くの、そしてしばしば死に直結するような困難が伴う。逆境の中で十分に生き残れる程、彼は強い資質を備えた存在だった(だからこそ、彼が全体に奉仕することを拒むことは、死に値する大罪と見做されたのかもしれない。より強いものはその分だけ、より強い奉仕を求められるものだ。)。とはいえ、人魚程の大きさの生物であっても十分に捕食対象として見做す大型の肉食魚や他の動物の類から身を隠し、日々の糧を一人で得て、口に運び、誰から賞賛されるでもなく、時に輩ものや漁師に追い回され、漁船から水面に向かって波をものともせず勢いよく打ち込まれる銛を、間一髪で避け、かすり傷だけで逃げ切り、血の臭いを追ってくる類のものがやってこないように、臭いの強い海藻で傷口を乱暴に縛り付けているような時、自分の名前が、スポーツの発明者としての栄誉を得るでもなく、忘れ去られつつあるのだと感じる時、彼はそれまで振り返ることも無かった例の共同体の中に今も暮らしている、自分の家族のことを思い出すのであった。
父と兄はウィリアムに、医者になることを求めた。それは共同体の中で重宝される役柄であり、ウィリアムの趣味ではないが、そうやって言われるままに、まるきり言いなりになっていれば、少なくとも自分は今も、これからも、しばらくの間は安穏と生きて、人々の中で名を呼ばれることはあっただろう。もしそうであったなら、これほど忘れ去られ、明日には彼の致命的な宿命となる追手に捕まり、肉として貪り骨まで潰されるかもしれないという恐怖に悶えながら、惨めに水底を這いまわることは無かったのではないかと。
「……何でそんな話を、俺に?」
まるで湯舟の中で三角座りをするように鰭を追って浴槽の角に腰を押し付け、頭を抱えながらすっかり俯いて、微かに声すら震わせているウィリアムは、普段のやたらと自信を振りかざすような姿とはまるでかけ離れていて、ナワーブは居心地の悪さから、ついそんなことを尋ねた。
「…………さぁ……ただ、何となく…………あんたのことは、信頼できると思ったんだ。」
浴槽の隅で頭をすっかり抱えていたウィリアムは、緩慢に言葉を選びながら顔を上げると、口を開けて、いたってどうということもないような白い歯の見える笑顔を作ろうとはしたが、それは、疲れ切った頬を無理に撓めたような、くすんだ印象の笑顔であった。
「そうか」
怯えるウィリアム相手に、ナワーブは言葉少なにそう言って済ませた。(見る目がないな)と、余計なことを言うこともしなかった――ナワーブは傭兵崩れとして、暗殺者まがいの仕事を請け負い、今となっては遠く離れた故郷に生活費を送っている身の上であって、それによって「自分の手は汚れている」というようなことを、今更言い出すような気質でもなかったが、しかし彼は、自分が兵士として戦場を生きる中、これまで何人もの仲間を見殺し、そして、自分だけ生き残り続けていることを強く悔やむ気持ちを持っていた。彼自身の自覚のあるなしに関わらず、その罪悪感は、彼が平穏な一瞬を過ごしていると自覚する度に、戦場の形をした影となって、仄明るくなった彼の生活を、瞬く間に色濃く塗り潰す。ナワーブは、自分が誰かの信頼に足るような男であると思えたことは無かった。誰かの信頼に足るような男であれば、人を助けることができる筈だ。彼がグルカ傭兵として村を出たあの時、あの時に共にいた仲間たちの中で、良いやつは、皆仲間を守って死んだ。俺はどうしようもないやつだから、皆を死なせ、見殺しにして生き残った。そうだ、良いやつから死んでいく。
また、ウィリアムからの唐突な打ち明け話に、ナワーブは(予感があるのだろうか)とも思っていたが、やはりそれも、彼は口には出さなかった。ナワーブは元々口数が多い方ではないということもあるが、度を超えて自惚れの強く、しかし、自分の境遇を思って怯える程度の繊細さを持つこの男が、「自分の死期を悟ったのか」と茶化すように言われたところで、蒼褪めて強がるのは目に見えていた。ナワーブは、彼を無闇に怯えさせたい訳ではなかった。
何となればこの人魚、もとい、この男は愉快で、まあ、いいやつだとも思っていた。ウィリアムは屈託なくナワーブに話しかける。ナワーブは、別段他人に話しかけられることを喜ぶような性質でもなかったが、この男の、大して物事を考えている訳でもないようなところから現れる考えなしの善良さは、向けられていて悪い気がするものではなかった。
こいつのせいでボートが転覆したのはそうだが、こいつは自分のせいで起こった事故から俺を助けて、単に考えが浅いだけということもあるだろうが、我が身を顧みずに、その鰭で砂浜に這い上がった。例えば任務の中でたまたま巻き込んでしまった行きずりの他人相手に、自分が同じことをできるかどうか考えると、甚だ疑わしい。否、できないだろう。自分には養うべき家族が、遠い故郷に残っている。危険なことをして稼いでいるのは事実だが、度を越した危険のあまり、稼げなくなるようなことをするべきではない。故郷から追放された、この人魚とは違う――ここまで計算が回ってしまうという点が、正しく自分の悪性を証明しているようにナワーブには思える――兎も角、(こいつは良いやつだ)というぐらいのことを、ナワーブは人魚のウィリアム・エリスに対して思っていた。
良いやつは、苦しんで死ぬ。自分の死期を薄々予見しているのか、単に久しぶりに得た「会話の楽しみ」に酔って、要らないことまで言い出したかはわからないが、きっとこの後、そう遠くない時間の先で、彼がどう苦しむかと思うと、多少胸が痛んだ。ある日、何でもないことでできた小さな傷が膿み、或いはちょっとした感染症にかかって、泳ぐ速度が落ちた時、海の底で一人生きることを宿命づけられているこいつは、呆気なく死ぬだろう。人魚を捕食する大型動物に食い殺されるか、弱った生き物であれば何であれ食い物にする海底の生き物に、表面から鋏を入れられて切り分けられるか。或いは、人間に捕まって肉にされ、皮は剥製として好事家のインテリアとして、朽ち果てるまで、壁紙を惨めに彩り続ける。
(俺なら、楽に殺してやれる)
ナワーブは何気なくそう思い、それに違和感を覚えなかった。彼は死に救済を見出しておらず、死に意味も美学も見出してはいなかった。だからこそ、死ぬ相手が標的であれば何の躊躇いもなくその急所を射抜くことができたし、それが仲間であるときは、明らかに瀕死の重傷を負い、腹に開いた風穴から腸がまろびでている仲間に死を懇願された時であっても、一瞬決断に躊躇いが入る程には往生際の悪い性質であったが、今の相手は人間ではなく、人魚だ。
野生の、或いは人魚の、いずれにせよ苛烈な境遇の中に置かれ、理屈の上だけでも保護の対象と見られるでもなく、当然の宿命として、やがて、時に面白半分に狩られ、運が悪ければ、そのまま屠殺される種族であると知っている。自分がそういうものであることを、この男も分かっている。あと数日で、俺はここを発つ必要がある。そうなればどっちみち、この人魚は海に戻す。遠からずこいつは、その海で、苦しんで死ぬだろう。今なら俺が、楽に殺してやれる。グルカナイフが腰に下がっている。
目を覚ますと、口いっぱいに血の滴る分厚いステーキを頬張った時のような香ばしい気配が、ついさっきまで広がっていた名残のようなものを感じ、ナワーブは半ば無意識に咀嚼めいて口を動かした。しかし、そこで噛むのは溢れた唾液と空気ばかりで、薄い腹が期待外れを食ったと言って、ぐるるると苦情めいた音を立てる。窓の外は珍しく明るく、強風の吹きすさぶ音もない。
目頭に張り付いた目ヤニを指で擦り取りながら、ナワーブは荘園に招待された客に与えられるベッドから起き出し、例のフードを被りつつ、(何か口にいれよう)と部屋を出て食堂に向かうと、夢で見た顔が食堂の席について、朝からステーキを頬張っていた。
「あ、」
今フォークとナイフで切り分けたステーキを口に運ばんとしていたところで入口に現れたナワーブに気が付いたウィリアムは、頬張る寸前に一応挨拶しようとでも思い立ったのか間の抜けた声を上げたが、それよりも先にフォークを握る手が肉を口に詰め込んでしまい、すぐに肉の咀嚼に入る。ナワーブはそれを、何となく、見ていられないような気分になって目を逸らしたが、その頃には彼も、先程夢を見たことは覚えていても、その具体的な内容はすっかり曖昧になっていたので、その内に、何故こいつの顔を見て気まずいような気分に俺がなっているのかということもよくわからなくなり、やがて肉を呑み込んだウィリアムに勧められるままに彼も並びの席に着くと、相伴にあずかることとなった。