(傭オフェ) ウィリアム・ウェッブ・エリスは、同じく試合の招待客であるナワーブと共に、荘園の屋敷で試合開始の案内を待っていた。
ここ数日の間、窓の外はいかにも12月らしい有様で吹雪いており、「試合が終わるまでの間、ここからは誰も出られない」という制約がなかろうが、とても外に出られる天候ではない。空は雪雲によって分厚く遮られ、薄暗い屋敷の中は昼間から薄暗く、日記を書くには蝋燭を灯かなければいけないほどだった。しかも、室内の空気は、窓を締め切っていても吐く息が白く染まる程に冷やされているため、招待客(サバイバー)自ら薪木を入れることのできるストーブのある台所に集まって寝泊まりをするようになっていた。
果たして荘園主は、やがて行われるべき「試合」のことを――彼がウィリアムを招待し、ウィリアムが起死回生を掛けて挑む筈の試合のことを、覚えているのだろうか? という不安を、ウィリアムは、敢えてはっきりと口にしたことはない。(言ったところで仕方がない)と彼は鷹揚に振る舞うフリをするが、実のところ、その不安を口に出して、現実を改めて認識することが恐ろしいのだ。野人の“失踪”による欠員は速やかに補填されたにも関わらず、新しく誰かがここを訪れる気配もないどころか、屋敷に招かれたときには(姿は見えないのだが)使用人がやっていたのだろう館内のあらゆること――食事の提供や清掃、各部屋に暖気を行き渡らせる仕事等――の一切が滞り、屋敷からは、人の滞在しているらしい気配がまるで失せていた。
「吹雪が晴れたらここを出る」
薪にしては心許ない薄さのそれ――だが、吹雪のせいで裏の林に薪を取りに行くなんてことはできず、仕方なく客間の家具を壊して凌いでいるのだから、贅沢も言っていられない――を暖炉に放り込みながら、ナワーブはその方針の是非をウィリアムに尋ねることもしなかったが、ウィリアムもそれには賛成だった。
ただでさえ余剰があるわけでもなかったパントリー(食料庫)の在庫は尽きかけていたし、荘園主がここを訪れない以上、ここから外に出て、ここで起こった不測の事態、そして、それにも関わらず「俺たち」が、未だに試合の開始を待っていることを、何とかして荘園主に伝える必要があるだろう。それに、仮に引き続き、試合の開始を待機するにしても、もう少しまともな場所――隙間風が吹かず、台所にマットレスを持ち込んで寝泊まりせずとも良い、まともな客間――でないと、万全の状態で試合に挑むことはできないだろうし。
「にしてもだ。肉食いてえよな、肉」
ウィリアムはストーブの上に置いたミルクパン(片手鍋)に食器棚から取り出してきたマグカップを突っ込み、表の雪を溶かした温い水――ここで唯一、あまり残量を気にしなくても良いものだ――をなみなみと掬いながらビスケットを齧る。豆の缶詰ならまだいくつか残っているが、これといって風味があるわけでもなく、ひたすら気が滅入る用なにちゃりとした歯ざわりのあれをわざわざ口にすると思うと、今はまだ耐えられる程度の空腹だった。
「肉か……」
事務連絡以上の話題をほとんど口にしない無口なナワーブは、ウィリアムの呟きを聞くと、何か考えがある、とでも言いたげにストーブの前から腰を上げ掛ける。
「!!」
それに素早く気付いたウィリアムは慌てて指に挟んでいたクラッカーを口に詰め込み、空になった手のひらを前に突き出しながら首を横に振り、今にも準備か、そうでなければ調達を始めかねないナワーブを止めることに躍起になった。
何せ、彼はこの吹雪が始まったとき、つまり、招待客をもてなす屋敷の機能が停止し、荘園からの食事の供給が立たれた時点で、家具を壊して組んだ板を使って簡単な罠を組むと、屋敷に仕掛けて回っていた。彼がそこに掛かった哀れなネズミの皮を這ぎ、あるかないかの肉を、酷い臭いをさせながらストーブで炙っているのを見たのは昨日の夜のことだ。
その時も、彼は『食うか』と言ってウィリアムにもそれを勧めたが、流石に口にする気にはなれなかったウィリアムは断った。その気持ちに今も変わりはない。
「まだ、腹減って死にそうってわけじゃないからさ……あんまり食べ甲斐もないだろうし……」
んなもん食うほど腹減っちゃいないよ、と、率直に思ったことを若干気まずく思いながらウィリアムは小さく首を傾ぐと、ラグビーボールを扱ううちにいっそう太く逞しくなった指で首の付根を掻くように揉みつつ、「どうせなら塊の肉が食いてぇ。せめて、あのイノシシがあれば……」と茶化すように続けたところで、じゅうじゅうと音を立てる分厚いステーキを想像してしまったのが悪かった。
そこで不意に口を閉ざしたウィリアムは、舌の裏に溜まっていた酸っぱい唾液を飲み下し、空腹から周りの悪い思考を持て余しながら、ストーブから立ち上る熱気のかすかな靄を探るように火の上の辺りを、ぼんやりと眺めている。
「…………次の“試合”で勝ったらさ、俺は、チームの連中を呼んでパーティーを開くんだ。華々しい復帰の前祝いってやつさ。ブドウ酒とステーキも……あとはそうだな、今はパンも恋しいぐらいだ……。ったく、荘園主は何を考えているんだか。俺たちをこんなに待たせて……」
何かと大仰に、そして自信満々に胸を張って言い切る言葉を使いたがる彼にしては湿っぽく続くその言葉に、他にすることもないナワーブは黙って耳を傾けていた。
種類を選ばなければ、塊の肉は屋外に転がしてある。マジシャンと冒険家の死体――だが、こいつはそれを求めているわけじゃないだろう。いつまで生きていられるかはっきりしないんだから、食べたいというのならそれを食べるべきだというのがナワーブの考えではあるが、彼はウィリアムがいたってまともな――人を肉としては見ないし、交渉の中で「こいつを殺す」という選択肢が入らない程度に、まともな――男だということは理解していた。愚かで単純、疑うことを知らないというよりは、自分の直感を何よりも信じたがり、疑うことを嫌っているのだろう。
例の強烈な自己顕示欲――スポーツ界にいま再びその名を轟かせるという目的で、この男は招待に応じたらしい――さえなければ、兵士向きの男だろうとナワーブは思っていた。「兵士向き」というのは、ナワーブにとって決して褒め言葉ではない。兵士なんて、選んでなるようなものではない。俺はそれを知らなかった。俺だけじゃない。誰も知らなかった。しかし、そんなことを知ったところで、どうしようもなかった。故郷――ここよりもずっと近くに見える澄んだ空と、冷たく薄い空気ばかりがある場所。痩せた土地で養っていける人間の数は限られている。“俺たち”は他にどうしようもないから望んで兵士になって、給金を故郷に送り、家の奴らがこんなことをしなくても食っていけるようにするために生きているだけだ。
「…………そのうち、どうにかなるだろ」
ナワーブはさらに続けて、「吹雪だって永遠に吹いているわけじゃない」と、しかし慰める風でもなく素っ気のない調子で言った。それを聞いたウィリアムは、最初は驚いたように目を丸くしてナワーブの顔を見ると、常にフードを被る癖があり、大半が陰っているそこに目を凝らすように数秒じっと顔を見ていたのだが、程なくして、(どうやら“仲間”から励ましを受けたようだ)と思うことにしたのか、かえって驚いたことを詫びるようにわかりやすく肩を竦めてみせる。
「ま、そうだよな!」
そう言うウィリアムはやたらと気安く笑いながら手を伸ばし、チームメイトらしい仕草でナワーブの肩を叩く。それを躱すことなど、ナワーブには造作もなかったが、彼は敢えて避けようとも思わなかった。この男は任務遂行の脅威でもないし、離脱にあたっての弊害でもない。殺す理由がない。
「……クラッカーばかり食っているから、気が沈むんじゃないか」
柄にもなく、という程、ナワーブはウィリアムのことを知っている訳では無いが、過ぎた空腹が思考を濁らせ、感情をやたらに逆撫でするのは、彼にとっての経験則でもある。
「いや! まだ缶詰がある! から! ナワーブ!!」
立ち上がるナワーブをしきりに引き留めようと騒ぎながら伸びてくるウィリアムの腕を避け、彼は淡々と歩き出すと、仕掛けた罠の確認に向かった。