救援に馳せる(傭兵とオフェンス) 12月15日午後、実験台を移動しに向かった処刑人は、9-?-3が行方不明になっていたことに気づいた。同時に、処理室でこのメモを発見。
その後の調査を経て、荘園内で9-?-3が残した痕跡が数発見された。その行方は分からないままだ。外部の人員を引き入れて調査を行ったのかもしれない。
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処理室を脱出したナワーブが当面の住処と定めたのは、森の中で忘れられたようにある猟師小屋だった。どこかしらが破れているのか、風の吹くたびに雪混じりの冷たい風が吹き抜けていく吹雪めいた音が響いてくるものの、曇っている窓ガラスはヒビが入りつつ健在であることが不幸中の幸いだった。追手がある以上、迂闊に火を焚くことはできない。ヒマラヤの気候の元で育ち、職業柄もあって過酷な環境下の生活が長いナワーブは兎も角、負傷したスポーツマンには今の状況すら十二分に過酷なものだろう。
ウィリアムの足首には肉の抉れたような酷い傷があった。ナワーブが処理室で気絶しているのを見付けたとき、既に彼の足首はその状態であり、逃亡者の身の上であるナワーブに施せる処置と言えば、せいぜいが消毒と圧迫止血程度である。この処置はあくまで簡易的なものでしかなく、あまり長々と縛ると予後が悪いことをナワーブは知っていたが、他にどうしようもなかった。
例の荘園にはどうやら複数人囚われているらしい。もしあの中に医師が居り、それを連れてくることができるのであれば話は別かもしれないが……これ以上部外者を抱え込むのは、既に「足手まとい」という多大なリスクを取っているナワーブにとって、許容しかねるリスクになる。名簿のようなものが保管されている場所がわかるのならば、或いは「医師を連れて来る」ということが叶うかもしれない。今はこの領域からの脱出に集中しているが、脱出が難しいようであれば“新たな人員の引き入れ”を検討するべきだろうか。無論、それまでに手遅れにならないという保証はないが――ナワーブは二重に重ねているくすんだ緑に薄汚れた上着(野戦用のカモフラージュにもなる)のフードを外すと、ベッドに寝かせているラガーマンの足に申し分程度に巻きつけていた包帯を解き、脱出経路を調査する道中で取得した救急箱にあった消毒薬を使いつつ、傷の確認と消毒を行う。
筋肉質な彼の全体重を掛けて踏み抜いたのだろうトラバサミに掛かって、足首の肉のえぐれた傷の予後は、出血はほぼ止まっており、腐敗臭がない時点で悪くはない(今が冬というのも良かったのだろう。夏ではこうはいかなかった)。しかし、流石に再生の気配はなく、負傷した本人も基本的に寝たきりの暮らしを送っている。用を足すときは杖を付いて歩いていると本人は言うが、ナワーブが一応配慮として置いてやった尿瓶代わりの空き瓶を使っていることも多い。
「……ナワーブ、さん」
見ると、野性的な髭が若干伸びたラガーマンは目を擦るでもなく、彼のトラバサミにやられた足の具合を観察しているナワーブを、覇気のない様子(この男を担いで処置室から連れ出して以来、彼はずっとこの調子だった。負傷している他、体調も万全ではないのかもしれない――“望み”を叶える宛が外れ、精神的に参っているということかもしれないが。)で見ていた。
「起こしたか、悪い」
端的に返したナワーブに、ウィリアムは構わないとでも言うように首を横に振る。「具合はどうだ」と続けて聞いてやれば、彼は返事をする代わり、眉をハの字に下げながら、にやっと笑い返して来る。実際のところ厳しい状況を繰り広げてはいるが、気持ちの上では負けていない、というところだろうか。
「すまない」
「……なんで謝るんだ? 助けてくれたんだろ。この、ウィリアム・ウェッブ・エリスをさ はは……」
表情を変えずに謝罪を口走ったナワーブに、ウィリアムは覇気がないながらに軽口を叩いて、胸を張るような仕草をした。ナワーブはそれに微笑みはしなかったが、応じるように首を竦めてみせた。(そういうことを言っているわけじゃない)と、わざわざ訂正するような真似はしなかった。それには意味がない――本当は、お前はあの処置室に居たほうが、もっと良い治療を受けられたかもしれないだなんて。
ナワーブが経路を探しつつ行った「調査」によると、荘園の連中は確保した“実験体”の記憶を薬剤を用いて管理し、別の“実験”に使いまわしているようだ。損傷が激しい場合には廃棄されるのか、それとも何らかの技術によって蘇生を施されるのかははっきりしないが、もしかするとこいつの負傷程度なら、治療の対象としてあの部屋に留め置かれていたのかもしれない――無論、ナワーブと同様「処理」のために留め置かれた可能性も否定できないが。
通りかかった部屋の中でこの男が気絶しているのを見た時、ナワーブはまず室内に潜入し、息があるかを確かめた。その時点で既に、彼に課された任務――依頼人のいないこの状況に於いては、彼が己に課した任務――から逸脱した行為でしか無い。最終的に、ここに囚われ憂き目を見ている実験体を救い出すことは、この任務において重要だ。ここで実験を繰り返している悪趣味な連中の鼻を明かすのにはそれが必要だろう。しかし、まずは自分の逃走経路を確保するべきだ。それに、足を負傷したこの男は文字通り、足手まといにしかならない……。ナワーブはそれらすべてを理解したうえで、処理台の上で気絶している、ナワーブより一回り以上身体の大きく見える筋骨隆々としたラガーマンを背負うように担ぎ、走り出した。あの衝動は彼が時折強く感じ、大概は抑えられないまま対象の喉を切り裂く類の攻撃衝動とは異なる類のものだった。
要は罪滅ぼしだろう。そもそもナワーブには、この男を殺すつもりはなかった。その必要はないし、任務にも関係はなかった。この男は起死回生の夢を見ていた。それを夢見る状況に陥ったことがこの男自身の責だとか、夢に誘き寄せられて荘園に来たところで、“実験体”として使い回されて終わりだとか、そんなことは関係なく、任務によってこの男の夢を潰したのは俺だった。
しかし、だから何だ? この男は考え無しで浅はかだ。ここで繰り広げられている殺し合いを、それこそ自分の馴染んだ感覚である「試合」程度に捉えている。ナイフを握る俺を、チームメイトと言って庇おうとする。俺を捉えるために向かってきた狩人の動きを止めるために、自分を危険に晒してその懐に駆け込んでいったこの男は、かつて救えなかった仲間たちに似ていた。誇り高きグルカ兵。ある戦場で銃弾に倒れたあいつを担いだ背中は、段々と冷たくなっていった。
「……脱出口はじきに見つかる。気を強く持ってくれよ、相棒」
無口な日頃らしからぬ調子のいいことを口にしながら、口角をにっと引き上げてナワーブが笑ってみせると、ウィリアムは呆気にとられたように目を丸くした後、ぶっと噴き出したかと思うと、顔全体で笑った。