🕯 その日々は未だ、レオの頭の中に残っていた。その記憶を手に取るように思い出し、愛おしむように撫でることができなくなってしまっても、薪をくべ続けた暖炉の下に灰の積もるように、彼の頭の中には、確かに、その日々は残っていて、決して彼方へ消え去ったと言う訳ではない。
リサが生まれた冬の日。その日は雪が降っていて、道路が酷く混んでいた。彼は速度の超過も構わず病院の地下に乗りつけ、エレベーターを待つ時間ももどかしく階段を駆け上がって、その間に力んでいた手の平でつい、病室の白い引き戸を、そのまま軋んで外れかねない程の勢いで開け放って、本当ならば一時間前には辿り着いていた筈の、その病室に飛び込んだ。
その時、レオの目に移ったのは、衛生的な印象のある薄青の病衣に身を包み、病床に座って、心なしかやつれたようにほっそりとした愛しい妻。そして、彼女の胸元に横抱きにされている、ピンクの布に包まれた赤ん坊だった。
「████」
彼はまず、愛しい妻の名前を呼んだ。男ならアーサー、女ならリサ。元より赤子の名前を決めてはいたが、その時はまだ、妻の名前の方が遥かに呼び慣れていた。
「リサよ」
ベッドの回りを天蓋のように覆っている、白いカーテンが良く似合う妻――彼女は白がよく似合った。曇りのない白――が、轟音と言って差し支えない程の入室音を物ともせずに眠り続けている赤ん坊に気を遣ってか、囁くように微笑んで言った。
一年後のその日も雪が降っていて、彼の車は渋滞に巻き込まれた。
リサにとって生まれて初めての誕生日パーティーの飾りつけがすっかり済んだ家に戻ると、彼の妻は卓上に楚々とした雰囲気のある白い花を生けながら「おかえりなさい」と微笑んだ。
パーティーに招待されていた彼のビジネスパートナーであり、良き友人でもある男は既に席に着いており、「そろそろだと思ったよ」と、日頃ビジネスマンとして完璧な立ち回りをする分、かえって親しみを感じさせる白々しい素っ気なさで言った。
「パパ一年目ね、お疲れ様」
工具油の染みたシャツを着替えてきたところで、彼の妻は小さな箱を取り出してきて、リビングに戻ってきたところのレオに手渡した。中身は新品のジッポライターだ。眩い銀色に思わず目を細める。その無骨な佇まいと確かな実用性は、職人肌のレオが好むところだった。
「ありがとう」
レオは意外だ、という気分を隠さず、しかし心からの気持ちでそう言う。
「それにしても、その、意外だな……君にしては、」
彼の妻は可愛らしく、そして何より女性らしい、優しい心持ちの人だった。繊細で夢見がちなその気立てはレオを惹き付けるとともに、時折彼を困惑させる代物でもあったが、この贈り物は彼女の心配りの産物というには、少々無骨である。聞けば選定にあたって、彼の友人にも助言を仰いだらしい。
「それならお前も使いやすいだろう、汚れることもない。お前はすぐ汚すから……」
この場にも招かれている彼の友人――フレディは、そう言ってやや斜に構えた笑い方をした後、「俺は横から口を挟んだだけさ、選んだのは彼女だよ」と、よそよそしい程に折り目正しい発音で、きっぱりとそう続けていた。
「火を付けましょうか」
彼はその時に初めて、そのジッポライターを使い、蝋燭に火を灯した。それ以来、リサが誕生日を迎える度、バースデーケーキの蝋燭に火を灯すのはレオのジッポライターの役目であった(し、そうあり続けるはずだった。)。
子供用のダイニングチェアに座らされている一歳のリサは、ケーキどころか、今日のために準備された祝いの食事を口にする年齢でもないのに、卓を囲む大人の方ががはしゃいで買ったホールケーキ(ケーキを食べられる年でもない子供にわざわざケーキを買う行為にレオは若干辟易したが、彼の妻が言うには、こうしたお祝い事は重要なのだという。――当時のレオは、その判断に従った。「家のこと」は妻に従うべきだろうし、頭のいい彼の友人も、「祝い事は重要だろう」というマーシャの意見に賛同したからだ。)に刺さった一本の蝋燭を、促されるままにふぅと吹き消し、何が何だかわからないだろうに、楽し気にきゃらきゃらと笑った。