春雷 出会いは、春。新学期も始まり麗らかな日差しが窓から差し込む今日この頃、真木晶は保健室にいた。連日のバイトと元よりの貧血気味な体質は頭痛をもたらした。割れるように痛む頭を落ち着かせるため薬品の匂いのするベッドに晶が横になったのは1時間ほど前だろうか。気づけば夕方の日差しを受けた風がカーテンを揺らしている。
「んっ、せんせぃ、もっと」
そんな穏やかな空気に似つかわしくないいかがわしい女の声が彼女の耳につく。今先生って言った?ということは、保険医のフィガロ先生だろうか。
保険医フィガロは入学式の時からずっと女子生徒がかっこいいと騒いでいるこの学園の有名人だ。こんなタイミングで起きるのも気まずいので晶はこのまま二度寝を決め込むことにした。
もう一度目を覚ました頃には保険医が微笑んでいるだけだった。
「おはよう。よく寝てたみたいだけど体の調子はどう?」
「お陰様でだいぶ良くなりました」
「それなら良かった。お大事にね。帰り道も気をつけて帰るんだよ」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
その日はそのまま何事もなく終わり、他人の逢瀬を思い出すこともなかった。
そしてこんなことが何回か続いた。あれ以来保健室で寝ると大体女の子の甘い声がアラーム代わりだ。繊細な質ではないので煩くて起きてしまった訳では無い。ただ単に晶の間が悪いだけであった。
「おはよう」
「おはようございます」
「よく眠れた?」
「まぁ、お陰様で。」
「何か言いたげだけど、どうしたのかな?真木さん」
「そんな風に見えますか?」
「そうだね。そんな風に見えてるよ。ごめんね、今度からちょっと声のボリューム下げてもらうから」
この白衣の男は逢瀬に気づいてることに気づいてる様子だった。悪趣味だな、と晶は思う。その上でバレても大して被害を被らないらしい。思わず軽蔑の目を向けてしまう。
「あれ、手厳しい視線だ。どうする?生徒に手を出してるって理事長に告発する?」
「そんなことしませんよ」
「じゃあ代わりに俺とイイコトしよっか」
「なんでそうなるんですか!?」
思考回路が分からなくて聞き返すと向こうも本気でこちらの質問の意図が分からないのかフィガロもポカンとしている。
「君の望みを叶えてあげるって言ってるんだけど」
傲慢な物言いに開いた口が塞がらない。
「私はそんなこと望みません」
「俺の弱みを握ったんだしこれを機にどうにか近づこうって魂胆じゃないの?そうじゃないなら告発しない理由は?」
どうしてと来たか。
「どうしてもなにも。別に大した理由じゃないですよ。告発したところで誰も得しないので」
「へぇ」
長いまつ毛に縁どられた目元がスッと細められる。
晶は確かに真面目な生徒ではあったが四面四角な堅物では無かった。自分が告発したところで女子生徒もこの男も被害を被るだけだと思うとあまり気乗りがしなかった、ただそれだけである。
「秘密にしといてくれるなら、助かるよ。真木さん」
口元に人差し指を持って行ってしぃ、と微笑む大人は悪い顔をして笑っていた。
それからは何度か保健室に休みに来るとコーヒーを御馳走してくれることがあった。コーヒーと薬品の匂いが混ざった部屋で、大体他愛もない授業がどうだの友達がどうだのという晶の話をフィガロが聞きたがった。何となく雑談をして適当な時間に教室へ戻る。そんな生活が3ヶ月程続いた。
「ね、晶ちゃん」
スリ、とワンピースから出た晶の肩を男の無遠慮な手が抱く。その手を取りスっと降ろしながら甘く尋ねる。
「なぁに?」
晶は二十歳女子大生のコンパニオンとして働いていた。仕事の内容は主にホテルの宴会場に呼ばれお酒を注ぎ話を聞く様なものであった。この男は宴会の席にいたのだが、先輩と客が意気投合し呑みに行く流れになってしまい、まだ入って日の浅い晶は断るにも断りきれずこうして勤務時間外で当たり障りのない対応をしているのだ。
「俺さ、君のこと気に入っちゃった」
「え〜、ありがとうございます」
キャッキャと喜ぶ振りをしておく。多少顔が引きつっているが夜だし暗くて男は些細な表情まで見ていない。
また手が腰に回って晶を引き寄せる。お酒臭い。絶対酔ってるな。笑顔を貼り付けながら酔っ払いを放ってはおけないし、自分も早く帰りたかったので先輩に声をかけてから駅まで男を送り届けた。その様子を見つめる瞳になんて、気付かずに。
運がいいのか悪いのか。フィガロの目は良かった。ホテルからサラリーマンと女たちの団体がゾロゾロと出てきていた。その中に見知った面影を見た気がして。思わず足を止めてしまう。人違いかと思うほど濃いめのメイクは彼女の清純さという良さを殺している。でもえくぼが同じだ。間違いない、晶だろう。
ふわふわしたシフォン生地のワンピースを着ていつもはストレートの髪を巻いてくたびれた中肉中背のサラリーマンに触られている。いつもの晶の良さは潰されどこにでも居る群衆に成り果てていた。欲に塗れた男の腕の中で、月に照らされた彼女の頭上には天使の輪が見えた。腹の底からよく分からない淀んだ感情が湧いてくるのをフィガロは感じた。
「真木さんってさ、化粧すると印象変わるんだね」
「え」
「サラリーマンとの夜はどうだった?刺激的だった?」
真っ白なリネンと薬品の香りに包まれた寝起きのぼんやりした頭が一瞬で覚醒した。
「いやぁ、何のことでしょうか?サラリーマン?」
元々嘘をつくのが上手くない性質である上寝起き故にしらばっくれ方が下手くそすぎた。目の泳いだのをフィガロは見逃さなかった。
「うん、隠さなくていいよ。別に。体を売ってまでお金が欲しいなんてよっぽど困ってるんだろ」
「体!?!?」
今度こそほんとに何を言っているかわからず目を白黒させる晶を見ながら優雅に脚を組み直したフィガロが問う。普段と表情は変わらないのに凄まじい圧を放出している。
「違わないだろ。サラリーマンとホテル街の方に消えて行ったし。あの後ヤッてお金を貰ったと」
「体は売ってません!」
「そうなの?」
「はい」
「ふーん、そっか」
ちょっとフィガロから感じる圧が軽減したような。少し晶は安堵したが、その様子をフィガロの冷たい瞳で見据えられる。
「じゃあなんであんな時間にあんな場所であんな男に肩を抱かれてた?」
「先生に関係ないじゃないですか」
「個人的には関係なくても先生としては興味があってね」
「…」
「ああいう夜のお仕事って十八歳以上じゃないと就けないと思うんだけど。今、何歳だっけ?高校2年生の真木さん」
暗に喋れ、という脅しだろう。
「十七...です。コンパニオンなのでお酒を注ぐだけですよ」
「年齢詐称?」
こく、と頷く。実際詐称しているし。ここで言い訳したってしょうがない。最悪の事態が頭を巡る、退学か、停学か。大学に行く為のお金を稼ぐバイトで高校を卒業できなくなるなんて元も子もない。止まらない最悪の想像に晶の目にはうっすら涙の膜が張っていた。しかし人前で泣くもんかという晶の意地が泣くのをあと一歩のところで堪えさせていた。
「大学進学とか奨学金の返済とかでお金が必要で」
「それでコンパニオンねぇ」
「時給が良くて勉強時間も確保できるし」
どうしても自分から進んで知らない人に体を売る気にはなれなかった。
「大体予想はついてたけど。でもさ、君。君はいつか本当に困ったら自分の体くらい平気で売っちゃいそうだ。先生、心配だなぁ」
フィガロの口から出る言葉に晶はぐうの音も出なかった。今は比較的時間的余裕があるが高3の夏までにはお金を貯め切りたい。そのためにはそういう決断を下してしまいそうな自分の危うさを晶は自覚していた。
「お金が欲しいならさ、フィガロ先生と契約しない?安心安全優良物件だと思うんだけどどうかな」
「自分で優良物件って言う人ほど怪しいですけど」
「はは、間違いないね」
そう言って提示された条件は2つ。
1.コンパニオンはやめる
2.フィガロに晶の時間を売る
その代わりといってフィガロも2つ約束をしてくれた。年齢詐称の件は学園側には秘密にするということ、十分な額を晶に支払うこと。
2つ目の時間を売ることを提示された時、春を売ることは含まれるか尋ねたらやりたくなければやらなくてもいいとのことであった。が、もししてくれるならという言葉と共に仄めかされた金額は確実に目標額までの大きな一歩となる額であった。実にコンパニオンの二十倍以上の時給と言えよう。背に腹はかえられぬ。安定した好条件に覚悟を決めてよろしくお願いします、と頭を下げた。
この日から教師と生徒の契約が開始されたのであった。