返したくなかった 橘日向は教育実習生として、とある高校に来ていた。最初の頃はなかなか打ち解けられず困ったが、今では話しかけてくれる子も少なくない。
「きゃー!」
次の授業の準備をしながら教室の様子を見ていると、廊下から聞こえてきたのは女子生徒の悲鳴。それも1人ではなく複数。なにか事件でもあったのかと慌てて飛び出すと、そこには女の子たちが輪になって群がっていた。
「やばいやばいやばい!」
「これはマジでヤバいよね」
なにが起きているのかさっぱりわからないけれど、何かがヤバいことだけはわかる。
「何かあったの?」
声をかけると一斉に視線がこちらへ向き、輪の中心が見えた。そこには、任せられたクラスのボーイッシュでカッコいいと言われる背の高い子と、顔を真っ赤にして両手で口を抑える子の2人の姿。ボーイッシュな子の方は耳が真っ赤で少し照れている模様。そして、壁に手をついた彼女と壁の間できゃぁきゃぁはしゃいでいた女の子はするりと彼女の腕の中から逃走した。
「え、なにやってたの……?」
「壁ドン!」
逃走した彼女を囲み感想を聞く取り巻きとは別に、クラスのリーダー的な存在である女子が元気に答える。
「壁、ドン?」
日向の頭の中に浮かぶ壁ドンとは、カレシである武道がよく言っている、アパートの薄い壁のせいで漏れた音がうるさいという隣人からのアピールであるのだが、見た感じそれとは違かった。
「ひなた先生知らないの?」
同じくリーダー的存在の女子2人がひょっこり顔を出す。最近流行ってるよね、少女漫画とか読まないの、ドラマでもやってるじゃん、この間のあのドラマのあの俳優がよかった、私はアイドルの方が好きうんぬんかんぬん。女が3人集まって姦しいとはよく言ったもので、全然話が頭に入ってこない。
「待って待って、先生は状況を聞きたいんだけど。とりあえず誰かが怪我したとか倒れたとかじゃないのね?」
「大丈夫でーす」
まだきゃぁきゃぁ騒ぎながら廊下を塞ぐ彼女たちを端に誘導しつつ、ボーイッシュな彼女だけは教室に連れて戻った。
「のどかちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。先生ありがと」
ボーイッシュで背の高い彼女は、よく女子の間で王子様のように扱われる。それが尊敬のような一種の憧れのようなもので留まってくれたならまだよかったのだが、若さとは残酷で、彼女自身が望まない行為を強制させる事案が多発している。彼女たちにとって、のどか王子は男子には頼めないトキメキの供給をお願いできる、都合のいい王子様なのだ。そんなふうに考えている自覚はないだろうが。
「先生……また、困ったら助けてくれますか?」
中性的な整った顔を、日向から見えないように下げて問いかける彼女に顔の高さを合わせると、その顔には一抹の不安を浮かんでいた。日向は少し困った顔をしながら彼女の頬を掬って目線を合わせた。
「先生は、頼りにしてほしいな。だから、助けてって言ってね」
あまりスキンシップを取りすぎるのもよくないから、日向はすぐに手を離して授業の準備の続きに取り掛かった。その後ろでボーイッシュな彼女が、廊下で悲鳴を上げた女の子みたいに顔を真っ赤にしていることには気づかなかった。
そして放課後。何人かの生徒がまだ教室に残っていることに気づいた日向が声をかける。今日の悲鳴事件に絡んでいた子達だ。中にはボーイッシュな彼女もいる。
「まだ残ってたの」
「あ、ひなた先生!」
わらわらと群がってくるのを少し離れるように指示する。
「ひなた先生壁ドンされたことないんでしょ?」
リーダー的な彼女、花乃がニヤニヤと話しかけてくる。
「ん〜、そうだね」
あまり恋愛に関する話は得意ではないから早く離脱したい。
「のどかちゃんにやってもらいなよ!めっちゃきゅんきゅんするから!」
「ひなた先生、トキメキ足りてないんじゃない?」
余計なお世話だ。毎週彼のアパートか、外にお出かけしてドキドキトキめいていますとは言えるわけもなく、日向は曖昧に微笑むだけ。
「先生のこと揶揄ってないで、暗くなる前に早く帰りなさい」
太陽が沈み始めて景色が真っ赤に染まっている上に、時間的にも完全下校時刻が迫っている。バイトだ、塾の時間だなんて言いながらスクールバックを持った彼女たちはワタワタと教室を出ていく。
「気をつけて帰るんだよー」
「はーい!せんせーさよーならー!」
階段へ向かう背中を見送って、机の列を整えようかと向きを変えると、そこにはボーイッシュな彼女、のどかがいた。
「のどかちゃん、一緒に帰らなくてよかったの?」
「うん。アタシ、日向先生に用があるから」
そう呟く彼女は俯いていて、どんな表情をしているのか日向からは見えない。
「どうしたの?何か相談?」
周りの子より頭半分抜きんでた身長の彼女は、日向よりもずっと大きい。日向は、そんな彼女の表情を伺うために下から少し覗き込む。
教室の入り口前にいた日向の姿は、一瞬で教室の中へと消えた。
ドンッ。
「のどかちゃん……?」
自分の腕の中にある不安気なその表情と、いつも太陽のように輝く笑顔を曇らせているのは自分だという事実とが、成熟し切っていない彼女の心を歪めた。
「ねえ、先生……ドキドキ、する?」
お互いの顔の距離は大体40センチ、教師と生徒というにはあまりにも近すぎる。さすがの日向も焦って、簡易的な檻の中から逃げようと試みたが、彼女が一気に距離を縮めてきたことで余計な動きができなくなった。
「日向先生あのね、アタシ、先生のこと好きだよ」
彼女の顔は逆光でよく見えない。
「先生、もうそろそろ教育実習終わっちゃうんでしょ」
彼女の言う通り、来週には日向はこの学校を去らなければならない。
「だから、ねえ、先生……お願い、アタシを先生の特別にして」
一瞬夕陽が照らした彼女の眼は、懇願しているようにも、どこかで諦めているようにも見えた。
「のどかちゃん、ありがとう。でも、その気持ちは受け取れないの」
そう告げると、のどかはゆっくり離れていく。
「……なんで?」
「私、好きな人がいるの」
ずっと、ずっと、大好きな人が。
「付き合ってるんですか」
「うん。婚約もしてる」
あぁ、なんだ。最初からこの人には付け入る隙なんてなかったんだ。
気持ちは嬉しいよ、微笑う日向の優しさが振られた心をそっと撫でる。傷つけたのは貴方なのに、貴方の優しさに救われている。それが悔しくて、嬉しくて、感情がごちゃごちゃない混ぜになって涙が溢れた。
「の、のどかちゃん!」
慌てた日向はポケットからハンカチを取り出して、彼女の溢れる涙を拭う。
「なんで、優しくするの……っ、」
嗚咽を上げながら訴えられた言葉に、日向の手が一瞬強張る。
「……のどかちゃんのことが、大切だからだよ」
日向は彼女の頭をそっと撫でた。大切でも、特別にはしてくれない、そんな日向はとてもズルい。
「せんせぇ、ズルいよ」
「……ごめんね」
これじゃ、もっと好きになってしまう。
彼女が泣き止んだ頃、ちょうど完全下校のチャイムが鳴り響いた。
「じゃあ先生、また明日。ハンカチ洗って返すから」
「わざわざいいのに。また明日ね」
あの時借りた薄い緑色のハンカチを、アタシは未だに返せていない。