「知らない天井だ……」
カカワーシャがこうして覚えのない天井の下で目覚めるのは、二回目だった。
慣れた様子で上体を起こし、周囲を見回す。
不思議な紋様の描かれた白い石の壁。少し湿ったような空気。左右対称に立つ、古めかしい装飾の掘られた柱たちが示す先には、閉じた石の扉がある。何らかの呪術的な紋様が施された――それは植物文様か、巨大な鳥の顔のように見えた――扉の奥からは青紫色の光が溢れていて。聳え立つそれらは、まるで美術の教科書に出てくる、古代遺跡の見本のように見えた。当然記憶はない。記憶はないが、心当たりはある。
かたん。慎重に動かした手が、固いものに当たった。見れば、カカワーシャが寝ていたところのすぐ傍に、透明なキューブが転がっていた。中で、扉の向こうから漏れているのと同じ、青紫色の炎が、眠っているように、緩やかに揺れている。
さっきぶつけた衝撃だろう、キューブにはヒビが入っていて、そこから一部の炎が蛇の舌のようにちろちろと顔を覗かせている。
この神秘的な炎の色をもっとよく見たい。これが何か、知りたい。自分でも理解できない衝動に襲われたカカワーシャがキューブを持ち上げると、脆くなっていたキューブの封印が内側から弾けた。うわ、と悲鳴を上げて、飛び出してきた炎から咄嗟に手を離す。熱くはなかったけれど、生物的な本能がそうさせたのだ。
放り投げられた火の玉が、うっすら濡れた地面に落ちる寸前。
「0点。怪しいものに迂闊に触るな」
それは自分から動き出し、尻をついたままのカカワーシャの目の高さで止まった。
「き、君は……」
炎が喋っている。音を出すための喉も、口もないはずなのに、その声はカカワーシャの心を確かに揺らしている。
呆然とするカカワーシャに、顔のない、ただの炎が言った。
「僕はベリタス・レイシオ。君は?」
「カカワーシャ……」
「そうか、カカワーシャ」
炎――レイシオは、考えを纏めているみたいに暫く沈黙し、それから、また口を開いた。
「君は現状について、どこまで把握している?」
「殆ど何も。今目覚めたばかりだから」
「そうか」
「レイシオは?」
「僕も同じ状況だ。……だが、おおよその検討はつく」
「僕もそうだ」
カカワーシャは一先ず自分の置かれている状況を把握しないことには始まらない、と、ひんやりとした石の床に手をつき、立ち上がることにした。上がった目線の高さに合わせ――否、同じ目線というには少々高過ぎる位置に――自然とレイシオも浮き上がる。
「とりあえずここを出よう」
「道は分かるの?」
「一歩を踏み出さなければ、分かるものも分からない」
レイシオはそう言いながら、カカワーシャの背を押そうとして、丸ごと背中にぶつかってきた。……意外にも、というべきか、予想通り、というべきか。固形部分を持たない揺らめく炎でしかないレイシオは、確固たる実体であるカカワーシャとの衝突に耐えきれず、ぼわん、と呆気なく飛散した。暫くすると花弁のように宙に散らばった炎の破片がひとつに集まり、またはじめの炎に戻った。
カカワーシャは懲りずに再びぶつかってこようとするレイシオを制止するように掌を差し出しながら――自分の『肉体』がバラバラになるような行為を呆気なく受け入れる、目の前の炎の精神性に、幾分かの恐怖を覚えながら――歩を進めた。
それから、暫くの探索の後――といっても、そう広くない遺跡の部屋数はたかが知れていたが――いかにも、もし出口があるとするならばこの先以外あり得ないだろう、と思わせられるような、少し広い空間に辿り着いた。
そこには、ロールプレイングゲームのボスキャラよろしく、石膏を固めて造られた、人のような見た目をした巨大な胸像が立ちはだかっていた。……立ってはいないから、『立ちはだかっている』という表現は適切ではないかもしれない。そそり立つ? 兎も角、古代の哲学者のような顔をしたその像はそこに在って、カカワーシャたちの道を塞いでいる。
遺跡を守る罠の類いかもしれない。それはギシギシと、その見た目からは想像し難い音を鳴らしながら、カカワーシャに――否、カカワーシャの隣で呑気に浮かぶレイシオにゆっくりと手を伸ばしてくる。
「どうする?」
「君が『僕』を持ち出そうとしているから、じゃないのか?」
「君、そんなに貴重な宝物なの?」
「単に混乱しているだけかもしれないが」
それはカカワーシャたちに積極的に害を与えようとしているようには見えないが、然りとてその体は奥にある通路の入り口を完全に塞ぎきってしまう程大きく、無視して通ることもできない。
「僕、戦えないよ」
カカワーシャは、これまで大きな不幸に遭ったことがない、ごくごく一般的な、少し人より恵まれただけの子供であったので、自分だけの武力を持つことがなかったのだ。
しかし出口に向かう道は、もう目の前のひとつしか考えられない。何らかの力で特別に保護されているらしい壁にカカワーシャが直接触れることはできなかったし、謎さえ解けば容易に壊せるような壁の穴も、そのための装置類も見当たらなかったから。
「問題ない。僕がいる」
「そう?」
「まさか、僕があんな人形に、手も足も出ないと?」
「手も足もないじゃないか。それに、君という宝物の守りなのに、君に倒される程度じゃ、何の意味もないと思うけど」
カカワーシャの反論を、レイシオは、ふん、と鼻で笑った。レイシオが宙に浮いたままくるりと身を翻すと、さっきまで何もなかったはずの場所に、データ空間のような景色が現れる。そこに現れる、点と線。それらによって描画された、立体物の輪郭。そのまま瞬く間に中身に色が付けられ、虚実から、現実の姿になって現れたのは……白銀色と青色の外装を持つ、重砲だった。黒い放出口では、装填された青色のエネルギーが、バチバチと音を鳴らしている。
「何?」
「真理の鍵、と呼ばれる兵器……のレプリカだ」
「どうやって出したんだ?」
「構築した。今の僕がよりエネルギーそのものに近い存在だからか、前より虚数の力を自由に使えるようだ」
肉体があれば胸でも張っていそうな、ひどくご機嫌な言口だった。
「今ならかの虚数崩壊インパルスでさえ、再現できるだろう」
「虚数、何だって?」
「虚数崩壊インパルス。知らないか?」
「知らない」
「……そうか。まあ、問題はない」
その真理の鍵とやらで相手を打ち倒すのかと思えば。何より純粋な青色のエネルギーを見た巨大な『哲学者』は、まるでカカワーシャたちが資格あるものであることを認めるかのように、うっすらと微笑んでから、ドロドロと溶けるように崩れ落ちた。ボタボタと地面に落ちる白色の滴は、床を埋め尽くす前に色を失い、あっという間にその痕跡ごと消えてしまった。心臓部分に埋められていた、ひとつの『ネジ』だけを除いて。
掌大のネジを、程よい警戒心を持ちながら拾ったカカワーシャに、レイシオが話し掛けてくる。
「君が驚く程無知な子供というのでなければ……君が先程指摘した問題は解決できる、とこれで分かっただろう」
「まだわからないんじゃない?」
「より多くの説明が必要か?」
「方程式の解答には、途中式が必要だと思うけど」
ムッとしたカカワーシャが言葉を返せば、レイシオの真上に突然空いた穴から、赤い林檎が一つ、降ってくる。レイシオの炎の体をすり抜けながら軽く炙られた林檎は、地面を数度転がってから、光の粒になって消えた。その現象をまったくの認知外に置きながら、炎は変わらず揺らめいている。
「あの『方程式』の書き方には覚えがある。……この虫籠は僕を現世から隔離するためのものではなく、現世から僕を保護するためのガラスケースのようなものだ。――まったくあの男は、僕のことを貴重な蝶か何かだと思っているのか、嫌味な位『僕』に過保護だな。もしや、取るに足らない凡人だからと、舐められているのか? 心配は不要と言ったのに」
如何にも解せない、といった様子で呟くレイシオだったが、置き去りにされたカカワーシャは既に、顔も知らないどこかの誰かがレイシオを心配する原因として考えられる彼の行動をいくつも見つけていた。
「僕が、君と出たいと言った。だからアレはそれを認めた」
「……僕を脱出させて、どう使うつもり?」
先程は発射まで至らなかったが。いとも簡単に、ああも巨大なエネルギー砲を投影してみせる宝物が、恐らく偶々彼の居城に迷い込んだだけのカカワーシャを、ある種の『パートナー』として認めた理由がわからない。理由がわからないということは、ただでさえ不利なこの勝負を、更に危険なものとする。この火の玉がカカワーシャを守る理由を失ったとき、カカワーシャは全てを失うことになるのだから。
カカワーシャは、来るかもわからない『いつか』のために、全てを賭けることができるような人間ではなかったので。比較的素直に、その理由を聞くことができた。
カカワーシャの問いに、レイシオは、僅かに大きく揺れ、それから、感心するように息を……漏らすことはできないので、代わりに小さな火花を飛ばした。
「やはり賢いな、君は。……何故態々バカな振りをする?」
その火花は、人と同じような肉体があれば、腕を組み、顔をしかめていただろう色をしていた。
「世の中には、子供が賢いと困る大人たちがいるんだ」
かしこいカカワーシャは、それを、自分がカカワーシャであるということをはじめて自覚した時から知っていた。故に、『カカワーシャ』は、いつでも無垢で無害な、普通の子供である。
「そうか。だが僕はそうは思わない」
「分かったよ。まったく、教授は厳しいね」
けれど、目の前の優しくも厳しい、少し冷たい色をした情熱の塊は、それを望まないようだったので。知識を貪欲に吸収する大食らいの子供は、その『食欲』を表に出すことにした。
満足げに揺らめく青紫色の『教授』が、カカワーシャの瞳を青く染める。
「君の質問に答える前に、前提条件を確認したい」
「前提条件?」
「君は、『スターピースカンパニー』もしくは『博識学会』を知っているか? ……『天才クラブ』でもいい」
カカワーシャは、自分が周囲と比べとてつもなく無知な子供という訳ではない、と認識している。レイシオの口振りではそれらを知っていて当然というようにも聞こえたから、これらの言葉は彼にとって、本当に最低限の確認なのかもしれない。
だが、そのどれもが、カカワーシャの記憶に刻まれた音ではなかった。
「何それ?」
素直に無知を認めたカカワーシャに、レイシオは呆然としているように見えた。勿論、彼が表現し得る『感情のようなもの』というのも炎の揺らぎでしかなかったが、顔が見えずとも、彼は案外感情豊かに見えた。そのように見せるのが上手い、というだけかもしれないけれど。
少し強い風に吹かれたように、乱れる炎。放たれた光の欠片が壁を波立たせた。
「今は何年だ? 琥珀紀……暦はどうなっている?」
「今は2048年。暦は……グレゴリオ暦、だったかな? 少なくとも琥珀紀という名前は聞いたことがないね。白亜紀の仲間? それにしては、壁装飾なんかドーリア式っぽいけど……レイシオ?」
カカワーシャの口から次々と勢いよく飛び出してくる囀りを聞いたレイシオは、まるで何かに深く失望しているみたいに、深い溜め息(彼には肺も口もなかったけれど)を吐いていた。
「はあ。僕は本当に、多くの時間を無駄にしてしまったようだ」
「そうなの?」
「君から見て、恐らく僕は古代文明の遺物だろう。しかも、オーパーツ、と呼ばれる類いの」
「へえ」
「兎に角、今の世界の状況を知らないことには何もできないな。僕を君の家まで連れていけ」
「えっ」
「……別に、君が僕を口煩く忌々しい火の玉だと思っていて、あえて雨晒しにしたいというのなら、話は別だが」
「いや、そういう訳じゃ、ないけど」
カカワーシャには、家族以外を家に上げるという経験がなかった。カカワーシャの家が、ほんの少しだけ周りとは違う生活習慣を持っている、少々伝統的な家であることだったり、カカワーシャの家が町から少し離れたところにあることだったり、カカワーシャがあまり周囲と同じ話題で盛り上がれるような子供ではなかったことだったり、唯一友人と言えそうな子供たちでさえ皆おいそれとは会いに行けないような遠方に住んでいることだったり……兎に角様々な理由で、カカワーシャは比較的『普通』の子供ではあると自分を定義していたけれども、一般的な友人との付き合い方というものを知らなかったのである。
「その、お洒落なお菓子とか、出せないかも」
「僕はお菓子を食べる方じゃない。そもそも、ただの残火に何を期待しているんだ?」
「! 確かに……」
あまりにも軽快に話ができるので、カカワーシャはレイシオのことを、年の離れた友人のように思い始めていた。と、いうより、それこそずっと昔から、知り合いであったような……。
思い浮かんだ光景を、頭を振って振り払った。カカワーシャは普通の子供なのだ。こんな奇特な友人が居る訳がない。
レイシオと色々な話をしながら、廊下を抜け、目の前に現れた階段を上がることを繰り返す。何度目かの上昇の後、何処か見覚えのあるような、如何にも出口らしい巨大かつ荘厳な石扉の隙間から差し込んでくる明るい光に、初めてここが地下だったことを悟った。
暗闇に慣れた目のままでは、光の向こうがよく見えない。扉を押し開き外に出たカカワーシャは、目を光に慣らすため、数度瞬きをする。
暫くして、見えてきた景色は、カカワーシャのよく知るものだった。これは、町のすぐ傍の高台から見える景色だ。後ろを振り返る。そこにあったのは、確かに、昔から誰が何をやっても開かないとされていた、不思議な石扉だった。
内側から外側へ、押し開かれたばかりの扉が、ゆっくりと閉じていく。そうして閉じた扉には取っ手も何もなく。扉を開ける魔法の言葉を放ったとしても、二度と開かないような気がした。その時が来るまで。
カカワーシャは再び前を見ると、傍らで静かに風を浴びながら揺れているレイシオと共に、坂を降り始めた。