◇ ◇ ◇
――雨だ。
そう、カカワーシャは、誰に話しかけるでもなく呟いた。
紫色の雨。錆色の空から、紫の雨が降っている。
その瞬間、ぼわ、と勢いよく膨らんだ青い火が、カカワーシャの視界を埋め尽くそうとする。しかしその炎が、カカワーシャの視界を遮ることはなかった。
「……無事で良かった」
豊かな黒髪を両側頭部で括った少女が、カカワーシャを見ていた。蝶のような、炎の金魚のようなものを従えた彼女は、優しげな声色を裏切るかのような、ひどく獰猛な表情をしていたが、カカワーシャがそれを気に止めることはなかった。
「どうして、こんなことに?」
少し……そう、ほんの少しだ。ほんの少しカカワーシャが目を離した隙に、カカワーシャの楽園は崩れ去ってしまった。
毒々しい色の雨に触れたものは、建物も、人も、その存在の根底を否定されてしまったみたいに、呆気なく溶けて、何かもわからないものになってしまった。しかし、この星ではありふれた、翡翠色の衣服だけは、どうやら、その雨の干渉を防ぐことに成功しているようで。パキリ。踏み出した足の下から、乾いた白い破片が割れる音がする。布の下からは、何かが腐ったような異臭がしていた。
「孔雀ちゃんは、世界が『こう』なってしまったのを、自分のせいだと思ってるの?」
「そんなこと、思ってない、けど」
思っていない、筈だ。だって、カカワーシャは何もしていない。何も。何一つ。悪いことなんて、していないのだ。だって。
「『儀式』の日はまだ先の筈だろ、『姉さん』」
散々迷って、手間取りはしたけれど。肝心の時に、遅れてはない筈だ。だってカカワーシャは、カカワーシャは、どうしようもないほどに、幸運、で。
「ううん、儀式の刻限は『昨日』だった。孔雀ちゃんは、間に合わなかったんだよ」
「……そんなに?」
「君、まさか……おい、正気に戻れ!」
――どう見ても彼の姉ではないだろう、妖しげな女性を姉と呼んでいるカカワーシャの異常な様子に、レイシオの声は届かない。
「開かずの扉……」
「そう。あの扉の向こうは、VIP席からじゃ見えない。台本にも、設定資料集にもない、存在しない場所だから。君を見失った『ママ』が、誰かが君を隠したに違いない、って……あらゆる家の箪笥を探しに来たんだよ」
その結果が、これ。異形の神の視界に入り込んだものたちは、自分と世界を隔てる壁を失って、ドロドロに溶けてしまったのだろう。生まれ変わる前に破られてしまった蛹のように。カカワーシャが愚かで、愚図でのろまで間抜けで……無知だったから。
不運にも、誤って深淵に駆け込んでしまったカカワーシャは、すべてを失った。
「あれ? あれあれ? 花火、分かっちゃったかも……」
何かに気づいたのだろう、カカワーシャの『姉』は、カカワーシャではなく、その傍らにある『何か』を見ているように見えた。しかし虚空を見つめる猫のように気紛れな彼女の目線を追っても、カカワーシャの目にその『何か』が映ることはない。何も、ないのだ。カカワーシャには、もう、何も。
「その真っ白な羽根だけじゃなく、君を飾り立てたかったひとから貰った金色の飾りばねまで捧げたのに…また誰にも見られない道を選んじゃったんだ」
「構わない。誰に見られなくとも、『僕』の価値が変わることはない」
「ねえねえ、この世界について誰よりも物知りな『君』は……自分を誤魔化すのが得意な本物の『愚者』を、誰だと思っているのかな?」
その問いかけに、カカワーシャは答えを返すことができなかった。
あまりのショックに声も出せなくなってしまったカカワーシャに、夜空に咲く花のように美しく可憐な少女が言う。
「宇宙の飛び方を忘れた孔雀ちゃんのために、花火がとびきりの魔法をかけてあげる。安心して、花火は誰も笑えない物語が大嫌いだから」
蠱惑的に笑いながら、跳ねるようにカカワーシャに近付いたちいさな『姉』が――違う。彼女は誰だ?――見慣れない服を着た奇怪な少女が、紅く塗られた爪先で、カカワーシャの額をツン、と突いた。
その瞬間、カカワーシャは、悪夢から引きずり出されるような、舞台裏に突き飛ばされるような、そんな名状しがたい感覚に襲われた。冒涜的な世界の反転。雨雲をたちまち蒸発させてしまう程激しく燃え上がった青い炎が、カカワーシャの視界を覆い尽くしていた金魚たちを押し流す。
「だから最後、みんなが本当の終わりに辿り着いたら……」
外界からの浸食を拒むような青色のカーテンの隙間から、鮮やかな紅白の狐面が覗いている。
「どうか花火のために、大きく口を開けて……『アッハ』と、笑ってね」
願うような、囁くような謎を残し、燃えながら消えた狐面を追って目線を空へと動かしたカカワーシャは……いつの間にか紫色の雨が止んでいることに気がついた。
カカワーシャは、『また』、一人きりで、雨の夜を越えることに成功してしまったのだろうか。これが、幸運? こんなものは、呪いだ。その事実を嘆く間もなく……カカワーシャを過ぎるほどに保護していた炎が、傷心を慰めるかのように、カカワーシャの全身を嘗め始めた。痛みはない。触れられた部分の感覚は、まるで局所麻酔をかけられたみたいにぼんやりとしていて。何も感じられなかった。大蛇に丸呑みにされた鼠みたいに、指先、腕、肩……火に触れた部分から『自分』というものが次々と分解されていく様は、カカワーシャに形容しがたいデジャビュを感じさせた。
カカワーシャの幸運を母とするなら、その火がもたらす何らかの『加護』は、父のようなものなのかもしれない。その炎がもたらす小さな『死』は不思議と不快ではなかった。
おやすみ。と、嗄れた老人のようであり、可憐な女性のようでも、素朴な少年のようでも、力強い教師のようでもある、声が。最後に、カカワーシャの極彩の瞳を覆う皮膚をやさしく融かしてしまうのを感じながら、カカワーシャは自身の魂をそっと深淵に横たえた。
◇ ◇ ◇
レイシオと共に坂を下り、町に出る。自分を遺物と呼ぶ偏屈な火の玉は、今のカカワーシャが生きる世界を知らないだろうから、と。あれもこれもとカカワーシャの頭に浮かび上がってくる説明のすべてを、レイシオは注意深く聞き、時々補足さえ求めてきた。それだけでなく、彼のよく知る話題であれば――そしてその『よく知る』の範囲は驚くほど広かった――そのまま世界の終わりまで止まらないのではないか、とうっかり思ってしまう程多くの言葉を引き出すことができた。
カカワーシャは自分を同年代の子供たちと比べなかなかに物知りな方だと思っていたけれど、やはりどんな物事であっても上には上がいるようで。恐らく年上というのもあるだろうけれど、それ以上に……立派な教師か高名な学者だったのだろうレイシオの深遠な知恵は、いくら話しかけても尽きることのない返答をカカワーシャに与えてくれた。
こんなに楽しく会話ができた――より正確には、させてもらえた――のは、初めてだった。人の顔色を気にしがちなカカワーシャは、こうして顔のない相手と話す方が緊張せずに済む質なのかもしれない。
レイシオを伴い、広大な敷地を区切る高い柵沿いを歩く。その大きさに反しどこか仮設物のような印象を与える柵の隙間から見えるのは、自然を殆どそのままの姿で残したような景色と、そこに点在する組立て式の移動住居だった。
「君の家は随分と『特別』な作りをしているな」
レイシオが率直な感想を溢す。
「皆、基礎のある家だと落ち着かなくてね」
カカワーシャは、『カカワーシャたちの当たり前』を知らない外の人間とのやり取りをそう多く経験したことがある訳ではなかったから、レイシオの反応は新鮮だった。いくらかの気恥ずかしさと、誇らしさが胸に浮かび上がってくるのを感じる。
「この奥は『自治区』か?」
「こっち側が、ね」
「……そうなのか?」
「驚いた?」
「少し」
歴史的経緯にはそう詳しくないけれど。カカワーシャの知る限り、この星そのものが、カカワーシャたち『エヴィキン人』のものなのだ。ただ、定住を好ま ず、土地から土地を渡り歩くカカワーシャたちは、必要ではあるが使わない土地というものを多く持つことになる。そのため、季節ごとに必要とする一部の土地以外の場所に関する権利をそれ以外の氏族に貸し与えることができた。そうしてできたのが、より近代的で世俗的な、他の町だ。エヴィキンの宗教はそういった、所謂『先進的な』暮らしとは相性が悪かったから、こうして好奇心のままエヴィキン人のための特別区の外にも出てくるカカワーシャは、どちらかというと珍しい方だった。
柵を越えれば、見慣れたエヴィキン的風景が目の前に広がる。カカワーシャが土地の中心部へ向けてゆっくりと歩き始めれば、彼の存在に気づいた家畜たちが、草を食む口を止め、群れの王に従うかのように、一緒に歩き始める。少しずつ増えていく動物たちの列は、凱旋にも似ていた。風に揺られる羽根のように軽やかな足取りでくるりくるりと回れば、カカワーシャを飾る青緑色の衣装が独特な音楽を奏でた。カカワーシャの名前を呼ぶように鳴き声を上げる家畜たちの背を、乾燥した風がやさしく撫でる。それはまるで世界からの祝福に似ていた。
しかし、こういったカカワーシャの『パレード』は不定期に、かつ頻繁に行われていたので。面白がり、跳ねるような足取りで列に加わる子供たちの他は、我々のカカワの子の何時もの気紛れか、とでも言うように苦笑いと共に受け入れられていた。
それでも、パレードは、カカワーシャが自分の家に着くまでと決まっている。だからカカワーシャは毎度身軽な身体で、家族と住む家の子供に戻れるのだ。
「ただいま!」
「あら、カカワーシャ、おかえりなさい。随分楽しいことがあったのね」
「姉さん!」
微笑みを浮かべる『姉さん』が両腕を広げてカカワーシャを出迎える。カカワーシャは彼女を傷つけることがないよう勢いを調整しながら――何故なら、成長したカカワーシャの身体は細身な彼女より大きく、いくら遊牧民としての彼女が同年代の町娘と比べ遥かに屈強な女性なのだとしても、強い衝撃となることが分かっていたので――彼女の腕の中に飛び込んだ。彼女の少しだけ高鳴る心音を満足するまで聞き終えた後、カカワーシャは、自身のそれと同じ色合いを持つ彼女の顔を見上げる。
「母さんたちは?」
「すぐに戻ってくるよ。そうしたら、食事にしよう」
調理場からは、嗅ぎ慣れた、しかし嗅ぎ飽きることのない、家庭料理の香りが漂ってくる。
そのとき、自身の傍らに鎮座する霊火の存在をふと思い出した。
「そうだ、レイシオ。炎って何を食べるのかな? 薪なら用意できると思うけど」
突然『もう一人』に話しかけ始めたカカワーシャに、『姉さん』が首を傾げる。
「カカワーシャ?」
首を傾げる姉の姿を見たカカワーシャもまた、首を傾げた。数秒の沈黙の後、彼女が口を開く。
「何か、そこにいるの?」
「えっ」
驚いた。こんなに分かりやすく、非自然的に、存在を主張している光源なのに。
「ほら、ここに……見えないの?」
指差す指は青く照らされるが、虚空に触れるだけだ。それでも、確かに此処に存在しているのに。それを共有できない。
「……ええ、ごめんなさい」
どうやら『姉さん』にはレイシオが見えないらしい。その事を理解したカカワーシャは、まず、自身の体質――ある種の常軌を逸した幸運――を疑った。彼女もそれを感じ取ったのかもしれない。
「もしかすると、そのカカワーシャだけの新しいお友達は、地母神からの贈り物なのかもしれないね」
「……うん」
カカワーシャは、自身と彼女たちを隔てるその体質を誇りに思っていたが、時々忌々しく思うこともある。そして今が、まさにそのときだった。
自分への贈り物の、ほんの一部でも、皆に分け与えることが出来れば良いのに。そうであれば、あんなことには――
「その推測は一部正しいが、それ以外は間違っている。君が僕を認識できるのは、君の『幸運』だけに起因するものではない」
思考の底に沈みそうになったカカワーシャに、冷たい水のような言葉がかけられる。炎のような見た目をしているのに、彼の言葉は不自然な位に冷たかった。カカワーシャたちの信仰が、彼の文化的な禁忌を、踏んでしまったのかもしれない。
「――無論、既に起こった全ての出来事を『幸運』の賜物と評価したいというのなら、話は別だが」
「レイシオ!」
それでも、カカワーシャは自分たちの文化を大切にしていたので。反撃の準備を始めたカカワーシャに、レイシオは心底嫌そうな態度を隠さなかった。
「僕は君にしか話しかけてない」
「でも、僕たちの神だ」
「確かに、自分自身に降りかかる災いの全てを『神』のせいにすることは簡単だろうな」
「……どういうこと?」
訝しげな顔をしたカカワーシャに、レイシオが答えて言うことには。
――あまねく災いを神の試練と信じることは、自らの信仰に誠実に向き合う自律的な信者にとって、向上心の源になる。しかし神に依存することしか知らない間抜けな狂信者は、自分の失態をも『神の思し召し』とすることで、自分の努力不足を直視せずに済む。
「『神』とは、特定の傾向を持つ自然現象を、自分たちに都合よく解釈するために、人類によって産み出された概念だ」
「どうして、……どうしてそういうことを言うの?」
皮肉染みた言葉を容赦なく突き出してくるレイシオは、どこか意図的にカカワーシャを傷つけようとしているように見えた。
「僕は君たちの信仰対象を批判している訳じゃない。『君』を批判しているんだ」
「僕を?」
「いいか。人間を救うのは神じゃない。神への信仰は裏打ちにすぎない。その人自身の手によって、人は初めて救われるんだ。気紛れな神のお零れを期待するような生き方は、神の奴隷になるのと同じだ。もし君の神が君を真に『愛して』いるのなら、そのような存在になり下がるのを喜びはしないだろう」
レイシオは自らの身体を天幕のように広げると、カカワーシャに向けられる光を遮る目隠しのように、覆い被さってきた。熱くはなかった。しかし炎が迫ってくるその光景に驚いて、身を引くカカワーシャに、炎が囁いた。
「神に喜ばされるのを待つではなく、神を喜ばせることの出来る存在になるべきだ」
――そうすれば、君自身で、何を対価にするかを選ぶことが出来る。君が『ゲーム』を支配できるんだ。
レイシオは、カカワーシャ同様さっき目覚めたばかりの筈なのに。まるでずっとカカワーシャのことをすぐ近くで見ていたかのように、カカワーシャの秘密を何もかも知っているようだった。カカワーシャはレイシオの前で一度も服を脱いでいないのに、その下の皮膚どころか、内臓の中身まで知られている。
それなのに、恐怖や嫌悪感のようなものがないのだ。あるのは、四六時中続く監視状態から解き放たれたときの、束の間の安堵で。その上、今まで腹の中に巣くって腹痛の種になっていた悪いものがほんの少し切り取られたような気もしていた。
「僕の主張に同意できないのなら、反論しても良い」
「いや、その必要はないよ」
二人の世界に入り込んでいたカカワーシャの様子があまりにもおかしかったのだろう、姉さんが心配そうに
「……大丈夫? カカワーシャ」
「うん。……教授に怒られちゃった」
「その人のことを私は見られないみたいだけど……本当に良い先生に出逢わせてもらったんだね」
「本当に、そうだったらいいな」
カカワーシャは青い炎が自分の瞳を染めるのを、穏やかな気持ちで受け入れていた。